36◇剣舞

 劉補佐が、袁蓮と話す展可のもとへやってきた。太守との話は終わったらしい。


「その琵琶は献上品だからな、いい音色だろう?」


 と、劉補佐は袁蓮に声をかけた。袁蓮も弾けないと素直に認めればいいものを、麗しく微笑んで返す。


「ええ、こんなに素晴らしいものはそうそうございません。献上品とは、武真国にでしょうか?」


 この笑顔に騙されない男はいないのかもしれない。劉補佐も展可に対するより少し優しい。


「そうだ。武真国の王への貢物だ。我々は援軍だが、手ぶらでは行けない事情もある」


 外交のことは展可にはわからない。助けに行くのに土産まで必要らしい。この琵琶だけでなく、少々の宝物が荷物には含まれているのだろう。


「――それで、何を弾くのだ?」

薫風纏くんぷうてんを」


 これには展可が答えた。

 剣舞なら、ある程度動きのある旋律がいいだろうと思ったのだ。爽やかな薫風と一体になり、そよぐ様を曲にしたもので、古くからある有名どころだから誰でも知っているはずだ。


 袁蓮ではなく展可が答えたのが気に入らないのか、劉補佐は温度差のある目を展可に向けた。


「ほう。音が詰まると舞に影響するので、しっかりな。支度ができたら呼ぶ」

「はぁい」


 と、袁蓮が甘ったるい声で答えた。いつもと違う。

 劉補佐が去ると、袁蓮の顔から笑みが消えた。


「やだ、あんた、そんな難しい曲にするの?」

「う、うん」


 先ほどの高音から一段下がった袁蓮の声に、展可は戸惑いつつもうなずく。


「まあ、あんたが弾くんだからいいけど、詰まるなって念押されたわよ」

「そうだね」


 さっさと行ってしまった劉補佐の背中を、少し離れたところから策瑛が眺めていた。もしかすると知り合いかもしれないが、やはり今となっては立場が違いすぎて声をかけるのも憚られるらしい。

 展可も余計なことは言わない。



 そうして、正規兵の一人が袁蓮を呼びに来た。

 もちろん、展可もついていく。


 すると、開けた場所に篝火が煌々と焚かれていた。宵闇の中、そこに飛び込んだ羽虫が焼け焦げていく。

 そればかりか、肉の焼ける匂いがすると思ったら、串に刺した肉を料理番たちがせっせと炙っていた。展可も、こんがりと焼けた肉の香ばしい匂いに生唾を呑み込む。


 篝火のそばに劉補佐がいて、展可たちはそちらへ向かった。この篝火に囲まれた中央で剣舞を舞うらしい。これならよく見えるし、剣が照って美しく映えるだろう。


「琵琶を弾く位置だが――」


 そこで袁蓮はすかさず言った。


「私、あがり症なんです。人目につきにくいところじゃないと弾けませんっ」


 展可は、ハハと軽く笑っておいた。劉補佐が残念そうに見えたのは、袁蓮が弾いていると絵になるからだろう。しかし、弾けないと言うのなら仕方がない。


「そうか。それなら糧車をここに停めておくから、その陰で弾くようにな。剣を抜かれたら、それが合図だ」

「はい、ありがとうございます」


 陰で弾くとなると、郭将軍の剣舞を見ることができない。展可はそれが残念だなと思った。きっと、素晴らしいもののはずだから。

 自分が奏でる音に合わせてあんな立派な武人が舞うのだ。それはそれで光栄なことかもしれない。 



 展可と袁蓮は特別な位置にいるが、その他の兵たちは篝火を半円で囲むように配置された。どうやら兵にも慰労の意味を込めて見せるつもりらしい。

 それから、むらの外郭の上、外――邑人むらびとたちも出てきていた。これは黎基が許可したのだろう。


 こんなに大勢に披露するとなると、展可も緊張してきた。しかし、ここはしっかりやり遂げねばならないところだと気を引き締める。


 そうしていると、郭将軍が黎基を伴って篝火の中央へ歩んだ。黎基を気遣い、ゆっくりと進む。


 配下の兵でも、黎基の姿をこの時に初めて見たという者も多かったのではないだろうか。目の見えない廃太子を憐れに思っていたかもしれないが、すらりと均整の取れた姿は美しいのだ。


 小さなざわめきも、郭将軍の手を取る黎基が口を開いた時に消えた。パチッと火の爆ぜる音すら静まったように感じたのは、黎基の声しか展可の耳には聞こえなくなったからだ。

 いつもの優しげな中にどこか威厳のようなものをそなえ、その声は凛と涼やかに通る。


「我が軍勢よ。これより先はいよいよ武真国だ。戦に慣れぬ者も多くいる中、それでもこうして馳せ参じ、覚束ぬ私につき従ってくれていることにまずは礼を言おう。それから――」


 展可から顔が見える位置にはいないが、言葉を切った黎基がふと微笑んだ気がした。


「私のために皆が狩りをし、旅慣れぬ私の心を慰めてくれたことも嬉しく思う。これは、私からの皆への礼だ。感謝の意を示し、舞うとしよう」


 この時、郭将軍が黎基に向かって跪いた。黎基は腰に佩いた刀剣を引き抜き、金をあしらった黒鞘を将軍の方に向ける。郭将軍はそれを受け取ると、一礼して下がった。

 黎基はいつも帯剣しているが、あれはとっさに身の危険を感じた場合、万が一のために佩いているのだと思っていた。抜いたところは見たこともない。


 ――黎基が舞うのか。

 目は見えずとも、近くに人がいなければ問題ないと。

 意外すぎる展開に、心臓が暴れるように早鐘を打つ。

 ここで展可は、袁蓮に肘でつつかれて我に返った。


「あ、ああ……」


 弾かないといけない。弾かないと、始まらない。

 見たい。黎基が舞うところを穴が空くほど見たいのに。


 残念で仕方がないけれど、黎基が舞うのならば余計に、何があっても失敗はできない。展可は唇を噛み締めて糧車の後ろの床几に座り込むと、琵琶を抱えた。


 そこからはもう、夢中だった。

 最初はなだらかに、付け爪が弦をはじいて響く音の伸びやかさに乗って、黎基の靴が地面を擦る気配を微かに感じた。


 こうして、展可が奏でる音で黎基が舞う。

 二人が一体となってひとつの舞を作り上げている。そう思うと感極まって泣き出したくなる。そんな心を押し込め、展可は無心で、けれどこれ以上ないほどの丁寧さで十本の指を繰った。


 中盤に向け、曲は激しく、高速で手首を使わねばならない。この手首の柔らかさは、よく褒められた。

 姜の里へ移り住んでからは、おさがりのボロボロになった琵琶を譲り受けるまで、

琵琶には触れずに過ごしていたし、半分は独学だ。教えを乞うている娘たちが奏でる琵琶の音を頼りに覚えた。


 人間、やる気があればできるということ。

 多分、展可自身も琵琶を奏でるのが好きなのだ。

 綺麗な恰好を諦めて男装し、武術を覚え、年頃の娘らしいことは捨てた展可だが、琵琶にだけは素直な心を吐き出せていたのかもしれない。


 ――シャン。

 最後の一音を撥ね上げた時、展可は息が上がっていた。極度の緊張から解放されたせいでもある。


 糧車の裏側にいても、割れんばかりの歓声が鳴り響いているのがわかった。

 展可は床几から立ち上がると、そこに琵琶を置いてすぐさま黎基の姿を窺った。黎基は抜身の刀を手に、肩で息をしている。


 篝火を囲む兵たちの熱狂が渦巻いていた。

 士気が急激に上がった。これまでの民兵は、多分展可の他に黎基のために戦うつもりであった者は皆無だった。それが、命を賭してとまでは行かずとも、この御方のために何かしたいと思うくらいにはなったのではないだろうか。


 ――見たかった。残念でならない。

 そんな展可の横で、袁蓮がほぅっと息をついた。


「御目が不自由なのに、体の切れが素晴らしかったわ。御髪おぐしや目隠しの帯紐が揺れ動く様子も、計算されているみたいにお美しくて……」


 そんな解説は聞きたくない。袁蓮が弾いてくれたら見れたのにと思うと、袁蓮が初めて恨めしくなった展可だった。

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