踏み切りの向こう側

AKIRA

第1話

 赤いランプの点滅と共に踏み切りの警告音が響き始める。


 ーーカンカンカンカン。


 遮断機が降りてくると岸端旺介きしばたおうすけは身体を伸ばしながら大きなあくびをした。

 10月半ばを過ぎても未だ色づきは見られない銀杏の葉は、風が吹く度にカサカサと音を立てている。

 都電専用として使われている線路沿いの風景には古くからある平屋やブロック塀がまだ点在して残るが、その風景を見下ろすように建つ高層マンションの数も年々増えてきている。

 高校への通学路として毎朝通る踏み切り。道幅はかなり狭く中央に向かってなだらかに盛り上り、線路を斜めに横切る歪なひし形をしている。旺介が誰かとすれ違う事は稀なほどいつも人通りは少ない。多くの人は駅への近道としてもっと先にある広くて平坦な踏み切りを使っていた。


 都電が通過し遮断機が上がり始めると同時に、旺介の右手に生暖かいものが触れてきた。

 何だろう、と視線を移した先には旺介の手を握る少女が立っていた。


「…うぉっ?!」


 思わず声が出て右手を振り払うように身体をビクッとさせた旺介に対し、少女は旺介の手から急に離された左手を下ろすわけでもなく、宙に浮かせたまま踏み切りの方をじっと見つめている。


「びっくりした…ど、どうしたの?」


 旺介が右腕をゆっくり下ろしていくと、少女は何の躊躇いもなく小さな左手で旺介の右手指を握った。


「のの、向こうに行きたいの」

「む、向こう?」


 旺介は辺りを見渡してみたが誰もいない。


「パパとママは?」


 首を横に振る少女。


「迷子かな?」


 更に大きく横に振る。


「ええと、ののちゃん、だったかな?」

「ううん、ののかだよ。でもね、幼稚園でね、永遠とわちゃんがののちゃんって呼ぶから、ののも、ののって言うの」

「…そ、そうなんだ」


矢橋やばしののかはピンク色のゴムで髪を1つに束ね、水色のトレーナー、グレーのパンツにスニーカーを履いている。幼稚園児の平均が旺介には分からなかったが、小学校低学年ぐらいにも見えた。


「向こうに行きたい」


 ののかは右手で踏み切りの先を指差す。

 旺介は頭を掻きながらもう一度辺りを見回したが、やはり誰もいなかった。


 ーー親はどうしたんだろう。


 警察に通報した方が良いのかどうか判断しかねていた。


「ののちゃん、家はどこか分かる?」


 ののかは後ろを振り向き、まっすぐ指を指した。


「あっち」

「なら、家まで送るよ」

「嫌」

「嫌って言われても…踏み切りを渡りたいだけ?」


 こくん、と頷くののか。


「じゃあ、一緒に渡ったら家に帰ろうか」


 旺介が歩き出そうとすると


「違う!ののが一人で行くの」


 そう言ってののかは旺介から手を離した。


「あ、ごめん。じゃあ、先に行っていいよ」


 旺介が一歩下がる。するとののかはちらちらと後ろを気にしながら、中々歩こうとしない。


「渡らないの?」


 ののかは何か考えているような表情をしながら、おでこ周りの細く柔らかな髪を撫でている。


「怖い」

「怖い?何が?」

「向こうに行くの初めてだから」


 ののかは小声になり、少し躊躇った様子を見せ下を向いた。


「う~ん。やっぱりさ、一回家に帰ってパパやママと一緒に来た方がいいんじゃないかな」

「嫌!」


 ののかがその場にしゃがみこむ。


「嫌なの!」

「でもさ、パパやママも心配してると思うよ。ののちゃんを探してるんじゃいなかな」


 ののかは無言になり、徐々に眉間のシワを寄せたかと思うと大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。


「ちょっ、マジか。泣かないでよ」


 と、丁度その時、旺介の視界にお婆さんの後ろ姿が入ってきた。こちらに背を向け、路沿いの道の先に犬を連れて歩いている。


 ーー助かった。


 旺介は走りだし、お婆さんの横に並ぶように追いつく。

 近づきながらお婆さんを見てみるとその腰はほぼ直角に曲がり、連れている犬―ミニチュアダックスの様ーの頭毛も全体的に白い毛が多く混じる。

 一人と一匹はまるで足踏みしているかのような小さな歩幅でかろうじて前進していた。

「あの!」

 旺介が大きい声を出すと、お婆さんは少しだけ顔を斜め上に向けて立ち止まった。


「はい?」

「あの、あそこにいる女の子が…迷子で」

「…孫? ええとね、孫は2人いるのよ」


 もうそれ以上、上にはあがらないであろう頭をお婆さんは更に捻るようにして旺介を見た。


「いや、違うんです。迷子なんです。あの女の子がー」

「いやね、この子は男の子」


 お婆さんは犬の頭を撫でながら嬉しそうに笑っている。


「いや…。すいません、失礼します」


 肩を落とし、軽く頭を下げてから旺介はその場を離れた。

 スマホの時刻を確認すると、あと10分程で遅刻が確定するのが分かり足早にののかの元へと戻る。


 泣き止んではいたものの、ののかの表情は固く、無造作にスニーカーの紐を指に絡めたり丸めたりしている。旺介がののかの目の前にしゃがみ、目線を合わせる。


「どうしても踏み切りを渡りたいの?」

「うん…」


 すると、ののかは後ろを振り返りながら呟いた。


「お兄ちゃん…」


 ののかの家があると言っていた方角だ。


「お兄ちゃんがいるの?」


 頷くののか。


「家にいるのかな?」

「…違う」


 ののかが相変わらず小さな細い指で紐を弄っているのを見ていた旺介は、スニーカーに白い花のモチーフが付いていることに気がつく。

 丸く縁取られた四つの房。革のような素材で、中央には小さなビスでスニーカーにとめられている。旺介は自分の周囲にある草花や近くの民家にある花壇を見渡す。それから、何か思い付いたかの様に急に立ち上がった。


「ちょ、ちょっと待っててくれる? すぐに戻ってくるから」


 不思議そうな顔をしたののかを残して旺介は、全力で走り出した。



 手持ち無沙汰な様子で両腕をブラブラ左右に振りながら待っていたののかは、しばらくして踏み切り沿いの道に旺介が戻ってくる姿を見つけるとその動きを止めた。

 いつもなら家から歩いて5分はかかる踏み切りに1分程で戻ってきた旺介は、ののかの前に来ると地べたに座り込んだ。肩で息をしている。その右手には小さな白い花が集まって咲く一本の枝を持っていた。


「ぎ、銀木犀っていう花……家の庭に…昔からあって…」


 旺介は枝をわずかに持ち上げた。ののかがそっと顔を近づける。


「甘い匂いがする」

「甘い、かな?」

「うん、甘い。可愛いね」


 ののかが笑う。その笑顔を見た旺介は一息吐き、ゆっくりと立ち上がった。


「一回、先に渡ってもいいかな?」

「うん」


 旺介は銀木犀の少し肉厚な花房を一つ一つ摘み、自分が通った後に点々と置いていく。その様子を静かに見ていたののかは、踏み切りを渡り終えまた戻ってきた旺介の顔を期待に満ちた表情で見上げた。


「あの花をさ、拾っていけば渡れると思うんだけど、どうかな?出来そう?」


 ののかは返事をする代わりに一番近くにある銀木犀の花を拾い上げた。少し警戒するような面持ちで前に進み出す。一つずつ丁寧に小さな手のひらに集めていく。一度、後ろを振り向き得意気な表情の笑顔を見せる。それから中央辺りまで来ると手早く拾い集めていき、あっさりと踏み切りを渡り終えた。

 ののかは両手に花を持ちながら旺介の方へ振り返り、笑顔を見せる。


「ありがとう!」


 上下線両方の警告音が鳴り響く。



 ーカンカンカンカン。


「危ないからそこにいて!」


 旺介の声が聞こえているかどうかは分からなかったが、ののかに声をかける。相変わらず満面の笑みで立っているののかを見ていた旺介も思わず笑顔になっていた。

 両方向から来た都電が2人の視線を遮りながら通り過ぎていく。ほんの一瞬、ののかが見えなくなる。


「あれ?」


 都電が完全に通り過ぎた後、そこには誰もいなかった。遮断機が上がると旺介は踏み切りを渡り、周りを見渡す。

 渡った先は突き当たりまで真っ直ぐに続く道しかない。両側とも民家が並ぶ。

 旺介は子供が隠れられそうな自販機の裏側や民家の塀の中まで覗き込んで探した。が、何処にもののかの姿を見つけることはできなかった。


 途方に暮れた旺介は近くの交番へ行き事情を話したものの、捜索願が出ていない以上、周辺を巡回する事ぐらいしか今は対応できないと言われた。何かあったら連絡するから君は学校へ行きなさいと促され、不安を拭えないまま交番を後にした。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る