雑記ノート

涼格朱銀

南山城村と伊賀上野城への旅(わりと近所)

 ある日の朝11時頃、私は道の駅に行こうと思った。


 そこそこ近場で、面白い道の駅はないかと調べてみたら、「道の駅 お茶の京都 みなみやましろ村」が良さそうだった。

 というわけで行った。



 ……そもそも、なんでそんなことを思い立ったのか、という話からすべきだろう。


 私のスマホの契約はirumo 0.5GBという、あまりにケータイ会社に旨味がないプランすぎて、最近なくなってしまった超格安ドケチコースなのだが、0.5GBを使い切ってしまうと、回線速度が激遅に制限されてしまう。

 私は今月、すでに0.5GBを使い切っており、絶賛、回線が激遅中である。


 で、その、制限された状態でも、Googleマップを使ったナビが使えるのかを知りたかった。


 今後、どこか遠いところへ運転するときに、途中で回線制限を受けたせいで迷子になる可能性があるのかを知りたかったわけである。



 というわけで、ナビを使いながらそこそこの距離を運転したいわけだが、と同時に、ナビが使えなくなってもいいように、知っている道である必要もある。


 私は国道163号線は何度か通ったことがある。しかし、163号線沿いにある「道の駅 お茶の京都 みなみやましろ村」には行ったことがない。2017年にできたそうなので、となると、少なくとも1度は前を通り過ぎたことがあるはずだが、記憶にない。目的地に選ばれた理由はそういうこと。



 実験の結論から言うと、回線の制限を受けていても、Googleマップのナビは問題なく動いた。

 ただし、経路設定にめちゃくちゃ時間がかかったり、タイムアウトして設定してくれなかったりすることがある点は問題。経路設定する時は、できれば使えるWifiが飛んでいるところで行い、一度設定した経路は途中でオフにしないほうがいい。



「道の駅 お茶の京都 みなみやましろ村」には昼時に着いた。ナビを使いながら運転したわけだが、まあ、知っている道なのでナビなんかほとんど見ちゃいなかった。

 見ると、駐車場には県外ナンバーばかりで、京都ナンバーは全然いなかった。そりゃそんなもんか。


 私はよそ者の観光客のふりをして、御茶尽くし御膳を食べ、抹茶ソフトを食い、お土産を買った。そのお土産は自分で食うのだが。


 御茶尽くし御膳は、とにかくいろんな料理に抹茶を使いまくっていてうまかった。特にサラダは意外なうまさ。全然期待していなかったが、抹茶ドレッシング? はなかなかうまい。

 ただ、そばのコシがなかったのが残念だった。出てくるのがやたらと早かったので、作り置きだったんじゃないかな。

 ……ということを考えると、ここでお昼を食べるなら、抹茶そばよりも村カレーにしたほうがいいかもしれない。なんか知らないが、ここは妙に村カレーを推しており、素直におすすめに従って村カレーを食うべきなのかも。もしくはそばの付かない定食にするか。小鉢とか天ぷらとかはおいしかったので。

 あと、食堂では、ほうじ茶がセルフサービスで飲み放題なので、2杯は飲んでおくべきだろう。お茶どころのほうじ茶飲み放題はお得である。



 抹茶ソフトは抹茶をふんだんに使っており、その辺の抹茶ソフトとは一線を画す濃厚っぷりだった。これは食べとく価値があると思う。日和ってバニラソフトとか頼んでる場合じゃねえ。抹茶が嫌いでも抹茶ソフトにするがいい。



 お土産に関しては、抹茶入りのどら焼きとか塩大福とかが、とにかく抹茶を入れまくって濃厚なのが特徴で、その抹茶の物量に圧倒されて満足度が高いのでおすすめ。


 あと、なぜか売っている「抹茶おだまき」もうまかった。これはお土産にするよりも、買ったその場で食べちゃうのがおすすめ。

 ……というか、おだまきって石川県能登地方の銘菓じゃないの? なんでここに? 能登地震被災地応援キャンペーンなんかね。

 ともかく、能登の銘菓が南山城の抹茶で魔改造されてすごいことになっている。他の味のやつには目もくれず、とにかく抹茶おだまきを買うのだ。


 こういうお土産物は、冷静になってみるとぼったくられた感が漂ったりすることがままあるが、ここの抹茶系の和菓子は、抹茶の物量で有無を言わせぬ満足感を演出しており、まあ、損した気にはならないと思う。

 京都にはお茶どころがたくさんあり、似たような土産物は多いが、南山城の和菓子の抹茶の盛りっぷりは京都一かもしれない。


 なにしろ私は京都に住んでいるので、そうそう抹茶の和菓子に心惹かれることはないが、ここの和菓子は本当にやる気があっていいと思う。たぶん、後発だからこそ、他のところに負けないように商品開発しているのだろう。


 正直、私はぼったくられる気満々でいろいろ買ったわけだが、意外と満足してしまった。また買いに来るのもありかも。近いし。


 プリンなどの冷蔵ものにもおいしそうなのがいろいろあるので、ここに来る時は保冷剤と保冷バッグ持参を勧める。



 というわけで、当初の目的は果たしたわけだが、じゃあこれで帰るの? ……となったとき、それはもったいない気がした。


 で、なんかもっと観光客のふりのできるスポットはないんかと思って、回線制限のかかった激遅スマホで検索してみると、伊賀上野城があった。



 そういえば、伊賀上野城は何度も遠くから、あるいは通りすがりに見たことがあるが、行ったことはなかった気がする。いつもニアミス。通り過ぎ。

 せっかくだから今日、今から行ったろうかと思った。ついでにマスヤのピケ8を買って帰ろうと。



 私は観光客のふりをしてはいるが、実際は伊賀市はまあまあ何度も来ているので、多少土地勘がある。城を観光したことはないが、どうやって行けばいいかはだいたい知っている。なので、城から徒歩20分くらいのところにあるスーパーに車を停めて、城までは歩いていくことにした。


 ただ、駐車料金代わりにピケ8をいっぱい買ったろうと思って店を物色してみたら、ピケ8が全く売ってなかったのは意外だったが。なんでよ。三重ってマスヤのお膝元じゃんか! なんでハッピーターンばかり売ってるんだよ!

 しょうがないから、城攻めのお供にペットボトルのお茶数本と、あとは素焼きカシューナッツとか、単なる日常の買い物をすることになってしまった。……伊賀に来てまで買うもんじゃねえ。



 観光客のふりをしながら、全然観光客じゃない地元ルートを辿って城に忍び寄り、裏手からこっそりと侵入する。

 夏休みなんでもっと人がいるかと思ったら、人はまばらだった。全くいないわけではないものの、ガラ空き。



 まずは観光客を装うため、とりあえず600円払って天守閣に侵入する。


 私はさも有識者のごとく、ひとつひとつの展示物を興味深げにじっくりと舐め回すように見物するが、その実、この城のことについてはなんにも知らない。ここの城主って誰? いつ建ったの? というレベルである。


 しかし、有識者のふりをして舐め回すように見物したおかげで、その辺については知識を得ることができた。


 もともと上野城は、筒井定次が建てたらしい。……筒井順慶の養子かよ! 人質にされたやつじゃん! こんなところで我々と繋がるとは!



 ……説明しよう。京都府南部の八幡市というところには洞ヶ峠というところがあり、本能寺の変後、筒井順慶はそこに布陣し、明智に付くべきか、羽柴に付くべきかを思案しながら峠のぼた餅を食ったのである。……ぼた餅を食ったかどうかは知らないが。

 これは、京都府南部に住んでいる人にとっては常識であり、国道1号線の洞ヶ峠を通過するたび、我々は筒井順慶の日和見を思い返す。


 ただ、実のところ、この説は俗説のようで、実際には明智光秀の方が洞ヶ峠に布陣することで、郡山にいる筒井に対し、「おい筒井よ、当然お前、俺に着くんだよな、ああん?」と脅しをかけつつ峠のぼた餅を食っていたのだそう。……ぼた餅を食ったかどうかは知らないが。


 ……しかしだね。なら、洞ヶ峠にある「筒井順慶陣所跡」という石碑はなんなのだろう。俗説に踊らされて、なんか間違って立てちゃっただけ?


 なお、残念ながら、その洞ヶ峠で、でっかいぼた餅を売っていた茶屋は、最近なくなってしまった。COVID-19のせいなのか、単に店主が高齢で後継者がいなかっただけなのか、その他の理由なのかは不明。

 これにより、今の洞ヶ峠は何もない場所になってしまっている。日和見順慶記念館とか建てたらどうかね、とか思ったりするのだが。



 定次が順慶の養子だ、なんてことは、伊賀上野城の展示には一切書かれていなかった(と思う。一応舐めるほど読んだが見つけられなかった)が、そんなことは京都府南部の人にとっては常識なので、当然知っている。まあ、伊賀上野の人にとっては、日和見順慶と繋がりがあることは不名誉だと思っており、隠したいのかもしれない。



 ともかく、最初にこの地に城を建てたのは筒井定次だった(その以前から砦とかはあったらしい)が、いろいろあって左遷され、その後、藤堂高虎がこの地を治めることになった。

 高虎は徳川家康の命で上野城を改築していたが、その改築工事中に暴風雨に襲われ、改築途中の天守閣はぶっ壊れてしまったのだそう。


 その後、徳川家康が天下を統一し、「これ以上城作っちゃダメよ」というお触れを出したために、改築は中止。上野城は天守閣なしの城になってしまった。



 じゃあ、今ある天守閣はなんやねん! パチモンか? ……ということだが、1935年、衆議院議員の川崎克という人物の働きかけにより、天守閣が建設されたのだとか。

 この際、鉄筋コンクリート製ではなく、あえて昔の技法で天守閣を建築しており、おかげで、なんか戦国時代からあったかのような風格を今に残している。


 ……ん? と、引っかかった人は鋭い。

 そうだよ。1935年だよ。この2年後に盧溝橋事件、1941年には日米開戦! そして1945年には日本敗北! とんでもないタイミングで作られた天守閣じゃねえか!

 よく爆撃されなかったな、これ。下手したら、せっかく作ったのにまたすぐぶっ壊されて、「上野城天守閣呪われ伝説」が生まれてもおかしくない時代背景だったわけである。


 天守閣の天井には、完成祝いにいろんな人が揮毫した色紙? が飾られているのだが、なんかもう、この城の歴史とは全く違う理由で、感慨深いものがある。これが書かれた数年後に、日本は戦争し、そして負けたのか、と。



 ……という事情で、この天守閣に最も深く関わっているのは、戦国時代の武将よりも、大日本帝国の衆議院議員だったりするのである。そのため、展示物の半分くらいは川崎克ゆかりのものだったりする。それは、この天守閣の歴史を知れば当然のこと。最初は「なんで昭和の議員の展示物がこんなにあるんだ?」と疑問だったのだが。




 さて。思ったより天守閣を堪能しまくったところで、帰ろうかな……と思ったら、なんか、松尾芭蕉の記念館がこの上野公園内にあるらしいことを看板で知った。


 私は大学で日本文学を学んだ文学士様だが、近現代文学専門で、俳句は全くわからん。はっきり言って興味もない。

 しかし、せっかくなので、有識者のふりをして行ってみることにした。


 行ってみると、芭蕉翁記念館はなんか、別に大きくもないしょぼくれた建物で、そのわりに見物料を300円取るみたいだったので、やめとくか? スルーするか? ……と、5分くらい、建物から数十メートル離れた、いつでも退却できるぎりぎりの位置で思案した。

 その間にも、1人の女性が建物に近付こうとし、たぶん、その佇まいと、金取られることを知って立ち去っていった。


 なにしろ私は俳句に興味がないし、知識もないので、スルーするのが賢明な気もしたが、そもそも私は観光客のふりをしてぼったくられに来たのであり、かつ、有識者のふりをして無意味に展示物を舐め回すように見物しに来たわけである。ここで300円ぽっちをケチって立ち去るのはどうかね? ここは寄付だと思って気前よくぼったくられときゃいいのではないか?



 芭蕉翁記念館は、ほとんど事務所みたいになっていて、ロビーの一角にちっこい展示室があるだけの、あんまり展示物があるわけでもないところだった。

 展示スペースが狭いので、時期ごとにローテーションして展示しているよう。私が見たのは「俳人たちの絵」というテーマで、要するに俳句に絵をくっつけたものを集めた展示だった。


 ぼったくられたか? ……と思いつつも、そんなことはおくびにも出さず、さも有識者ぶってひとつひとつ、超興味深げに眺めていく。


 有識者のふりをするのも無意味ではなく、ちゃんと丹念にひとつひとつの展示物を見て、それに付随する解説を読んでいけば、ど素人でもそれなりに理解を得られる。

 こういうところでは、一見しょうもなさそうな展示物でも、ひとつずつ「ほう、これは興味深い」と、ウソでいいから心で念じ、その展示物の専門家になったふりをしてじっくり観察することが肝心である。そうすることで、賢くなった気になれるし、お値段以上の充実感が得られるし、案外いろいろなんか知識を得られたりもする。


 ただし、もし近くに学芸員とかがいて解説してくれるなら、逆に、知っていてもど素人のふりをして聞くのがおすすめである。せっかく解説者がいるなら、「あー、それ、知ってるわ」という態度で聞くのはもったいない。



 実際、一見しょぼそうな展示コーナーだったが、ひとつひとつ丹念に見てみると、いろいろ面白い発見があった。


 俳句については正直なんとも言えないが、それより私が感心したのは、江戸時代の出版物がいろいろ見られたこと。こんな感じで俳句って出版して読まれてたのね、とか、こういう紙質だったのか、とか、その本に付いた染みとか、何度も読まれたことで手で擦れて紙がボロボロになった感じとか、そういう使用感を眺めるのが存外面白い。


 そして、私の専門にも関係のある、雑誌『ホトトギス』の実物らしきのが見られたのはちょっと興奮した。漱石の『猫』が連載されてた雑誌だよ! ……たぶん、展示されていたやつは連載されていた号じゃなかったっぽいが、それでも大興奮である。

 私は「漱石の直筆の原稿」とか、そういうのに関心のない方だと思っていたし、実際まあ、そうなのだが、まさか昔の雑誌を見てハアハアする趣味があるとは思っていなかった。許されるなら手にとって読んでみたかった。当時、どんな感じで漱石が読まれていたかを実感したかった。それは叶わない話だが、なんにせよ、本物のブツが見られただけでも満足である。



 展示室には、そうした雑誌や掛け軸などの他に、近くの学校の生徒が作ったという、「俳聖殿」という建物の縮小モデルが展示してあった。

 なんじゃこれ? と思ったが、この建物についての解説はない。


 展示コーナーを出て、ちょっとだけ記念館内で、一般の人が立ち入れるところがあったのでうろついてみると、伊賀上野にある芭蕉ゆかりの地を紹介した地図があって、「俳聖殿」はこの公園内にあることがわかった。なら見に行くしかないだろう。



 忍者博物館には目もくれず、一目散に俳聖殿に向かうと、果たしてその建物はあったが、中には入れないようだった。ただ、外から中を覗き込めるようになっていたので覗いてみると、暗くてよくわからなかったが、松尾芭蕉の像が祀られている感じだった。


 近くにあった看板の説明によると、松尾芭蕉の生誕300年を記念して、1942年に川崎克の助力によって建てられたのだとか。中の芭蕉像は長谷川栄作という彫刻師が原型を作り、川崎克が焼成した伊賀焼なのだそう。この人、焼き物も作るのね。


 ……で、気付いたよね。1942年建造。ミッドウェー海戦で負ける年。すげえ時代に建てられたもんである。



 こうして考えると、川崎克のやる気が数年遅かったら、伊賀上野の天守閣も俳聖殿も、存在しなかったかもしれない。さすがに敗戦直後に天守閣再建しようとか、芭蕉の記念建造物建てようとか、そんなことはやっていられなかっただろう。


 伊賀上野公園の建造物は、それそのものにも面白さはあるが、それ以上に、建てられた時期の面白さがより大きいと感じた。

 敗戦記念日の近い夏に見物に行くにはもってこいのスポットではないだろうか。なんかわりと空いているみたいなので、穴場的な感じでよい気がする。いろいろゆっくり見物できる。



 なお、帰りに伊賀上野にある何軒ものスーパーやコンビニを巡ったが、どこにもピケ8はなかった。

 一応公式オンラインショップではまだ販売しており、なんなら今年、パッケージがリニューアルしたらしいが、いくら県境とはいえ、伊賀市にすら売ってないってどうなのよ。もっと頑張ってくれよ、マスヤ!

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