第四十四話 次郎
俺の名前は秋夫。親父から一文字もらったらしい。とはいえ、それも本当の名かはわからねぇそうだ。お袋はそう言って、さみしそうな顔をしていた。
“お前のおとっつぁんはね、日本橋で倒れてるとこをあたしが助けたんだけど…どこから来たのやら、何年経っても言わねぇのさ。本当に分からないわけはないんだけどね…自分のおっかさんを心配するような独り言を聞いた事もある。でもね、言わないんだよ…”
そう言っているお袋は、本当にさみしそうだった。俺がその話を聞いたのは、十の時だ。七つ八つ九つと俺は歳を重ね、十になって“つ離れ”をしたから、もう話そうとでも思ったんだろう。
親父が出所が確かじゃねぇってのは、誰も不満に思っちゃいないみたいだった。何せ親父は気が利いて、お袋にもいつもヘコヘコして愛想笑いばっかりしてやがった。稼ぎはお袋の方が良いに決まってるし、だから親父はお袋の機嫌を取りにさっさか働いて、掃除に洗濯肩揉み買い物、小間物屋の相手までしてやがる。
そんなに甲斐甲斐しい、見てて情けなくなってくるような親父の姿を見て、息子の俺はいつも馬鹿馬鹿しかった。
江戸市中は、いつも強盗だの土蔵破りだのが横行して、しょっちゅう火事があったし、茶々を入れる話に事欠かない。俺は、退屈がてら行った知り合いの家で、ちょうどやってた博奕に嵌った。
金がなくても場が立つ日には、家の物を借りなきゃいけない事もあった。
悪い事とは知りながらも、お袋の羽織も、手あぶり火鉢も、親父の煙管も。でも、それにしたってまだまだ小さい悪事だ。
俺は、悪党になるつもりだった。本当に小さな頃、親父に連れられて見に行った芝居で見た山賊は、自由だった。
金が無くなったら、追い剥ぎだのゆすりだのでうんと儲けて、食い物屋で銭なんか払わないで、博奕と女、それから着る物に金を賭けた生き方がしたい。いつの日か、そう夢見るようになった。
そんな風に思いながら暮らしていたある日、一人の男に会った。
俺はその年、十八だった。“そろそろ俺も悪党になろうかね”なんて思い回していた頃で、その日、俺はツイていた。
俺達は、町内の札付きが集まって銭の取りっこをしているだけで、いつも決まって、一番大きな家を持ってる悪旦那の家でやっていた。
その日は、俺が初めてやる“
仲間内で一番年下の俺は、仲間にやり方を教わり、おっかなびっくり手を出すと、
一枚目はピン。つまり、一だ。どういう訳か、手本引きでは「一」を「いち」とは言わないらしい。
二枚目は六。三枚目は五だった。みんな当たった。
でも、
「おい!お上だ!逃げろ!」
それは、襖の向こうから聴こえてきた、ほんの囁くような声だった。でも、その一声でその場は一気に修羅場と化した。
部屋の中にはその時、五人の男達が居た。胴元役は
そいつら全員が一瞬浮足立ったかと思うと、裏口目がけて我先にと逃げ出した。もちろん俺もそうした。
でも、不安で後ろを振り返った時、振り上げられた十手の影を、もう一つの影が受け止めて突っ返すのが見えた。
怖くて怖くて、それからはずっと駆けて家へ戻ったが、“あいつらはどうなったか”よりも、“自分の顔を見られたのでは”という気持ちの方が勝った。
それから後日、いつものように俺の仲間が家の戸を叩いた。その日、家には俺以外居なかった。「不忍弁天へ行くんだ」なんて事言われたって、三味も弾かない俺には用がない。
トトトントンと小気味よい音がして、癖のある速い叩き方に、あの晩、合力役をしていた次郎だとすぐに分かった。俺は慎重に戸を開ける。
「よお」
顔を出したのは確かに次郎で、次郎の後ろには誰も居なかった。俺はほっとした。それから「上がるぜ」と言って次郎は俺の脇をすり抜け、土間から上がって煙草盆を引っ掴んだ。
くすんだ藍色の着流し姿の次郎は、当たり前のように、腰から抜いた煙管にうちの葉を詰める。奴の指は太く、煙管を持ち上げた腕は肉が盛り上がって力強い。
大して慌てている風にも見えなかった次郎は、大きな体でゆったりと胡坐をかいていた。煙管を持っていない方の腕は、膝を押さえるように肘をいからせている。
次郎はもう二十二なので、四つも年上だ。でも俺達は同じ穴のむじなとして話していた。
「こないだ、どうしたよ」
俺がおそるおそるそう聞くと、次郎はしばらく黙っていたけど、急に鉄瓶がたぎるように笑い出した。
「カカカカ…そりゃあよ、俺が十手を食い止めてからの芝居を見せてやりてえよ」
「芝居って」
次郎はニヤニヤ笑いながら、俺に傍に来るように手招きする。
「つまりよ、盆
俺は「ふん」と相槌を打つ。そこから次郎は、もっといやらしい笑い方になった。
「“自分の自由で仲間と集まって、人に聞かせられねぇ事をしていたのは確かでございます。”そう言うと向こうは何かを言いかけた。だから、こう、な。“好き好きでしていた事ですから、見逃して下さい”ってな」
「なんでぇそれ。そんなんで帰るわけがねぇだろ」
俺がそう言うと、次郎はまた面白そうに笑い転げる。なんだか訳が分からなかった。
笑うのがやまってから、なんと次郎はこう言ってみせたのだ。
「つまり、さ。俺達が集まってやってたのは…
俺はその時、思わず、ぞぞぞと寒気がした。男五人でくんづほぐれづなんて、想像もしたくない。それから、次郎の肩を引っぱたく。
「何してくれてんだてめぇは!」
「良かったじゃねぇかよ!上手い事いって!」
「それにしたってそいつぁねぇだろ!」
俺達はそんな事を言って、笑い合った。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます