星那と教室の悪意

「おはよう、ございま……す……?」


 今日も朝から職員室に呼び出され、先日の事件についていくつか事情説明を行った後。

 教室に戻ると、何かおかしな雰囲気が漂っていた。


 何だろうと首を傾げながら自分の席へと向かい……その原因は、すぐに判明した。


「……何、これ」


 目の前に広がっている慣れぬ悪意に晒されて、星那の視界が一瞬、ぐらっと傾ぐ。


 そこには……机に油性マジックで書かれた、見るに耐えない落書き。


 大抵は馬鹿とかブスとかの他愛無い悪口だが、中には性的な罵倒や卑猥な言葉まで書き殴ってある。

 更にこれ見よがしに置かれた、包装に包まれたままの避妊具。


 周囲を見回すと、皆心配そうにこちらに目を向けていたが……中には隅の方でニヤニヤとこちらを伺っている、女子の小グループがいるのが目に入った。




 この学校は、比較的偏差値も高く、そうした流言に流されるような者は少ない。だから、遠巻きながらも心配そうに星那の方を眺めている者が大半だ。


 だが……全ての生徒が良心的なわけではない。


 カースト上位に居座ることを望む者にとっては、星那の存在は嫉妬に駆られるには十分なほど邪魔な存在だろう。


 身持ちの堅い美少女という高嶺の華である星那。彼女と関係を持ちたいという欲望を抱く男子生徒の一部には、その星那のスキャンダルは都合の良い話であり、飛びつく者が出るのもあり得た話だ。


 故に、中にはそうした情報媒体の話を鵜呑みにして……このような行動に出る者が居たのだ。


 それは……昨日の陸の心配の通りに。




 怒りと悲しみに、意識がふっと消えそうになった。薄れていく意識の中で、クラスの誰かの悲鳴が聞こえる。


 そんな時……傾いだ体が、後ろから誰かに抱きとめられる。


「……星那君、大丈夫?」

「あ……夜凪さん」


 消えかけていた感覚が、辛うじて戻ってきた。

 そこに居たのは、一足遅れで職員室から帰ってきた夜凪だった。その姿にホッとしたのも束の間。


「おーおー、見せつけてくれちゃってまぁ」


 青い顔をした星那を支える夜凪に対して、囃し立てるような不快な声と、自分の存在を主張するような荒い足音。

 数人の男子生徒が、星那と夜凪の周囲に寄ってくる……皆、一様に下卑た表情を浮かべながら。


 そんな彼らの様子を見て、夜凪の目が冷めきった侮蔑の色を浮かべ、細められた。


「全くこれだから……星那君、これが絶対に関わったらダメな男ってきっちり覚えておきなさい」


 夜凪が星那に小声で耳打ちする。

 言われるまでもない。この数人は、いつも教室だろうがお構いなしに大声で猥談しているグループだった。


 ……ついでに言うと、夜凪にとっては入れ替わり前、まだ星那だった時にかなり初期の方で軽薄な告白をして来た連中であり、その後告白者に対する態度が硬化した理由でもあった。


 そんな彼らから星那を隠すように、夜凪が一歩前に出る。


「なぁ白山、おまえ瀬織さんと屋上で何をしていたのか、本当のところを教えてくれよ」

「……学校側から、公式発表があったはずだけど?」


 夜凪の……夜凪の体に入った星那の事情聴取により、あの時星那が屋上に居たのは、上級生に関係を迫られて逃げていたからだと理解してもらっている。(ついでに、夜凪は彼女を守るため、同行していた事になっている)


「はっ、誰があんなもん信じるんだよ」


 吐き捨てるように言う男子生徒。


 ……周囲の者の大半はむしろ「いや、お前らと一緒にすんな」という顔をしているのだが、どうやら気付いていないらしい。


「だってさぁ、人気のない場所で二人っきりって、それだけじゃないんでしょ? いいから教えてくれよ、なぁ?」


 馴れ馴れしく夜凪の肩に手を伸ばそうとしたクラスメイトだったが……その言葉は最後まで続かなかった。


「……触るな」

「……へ?」


 肩に触れそうになった男子生徒の手を、夜凪の手が寸前で掴む。

 直後……絡んできた男子生徒の体が、空中で一回転した。


 背負い投げの要領で投げ飛ばされたのだと男子生徒が気付いたのは、ふわっと優しく床に寝転がされた後だった。


「僕はさ……今、物凄く怒っているから。次は頭からやるよ?」

「し、白山……お、お前……」


 投げ飛ばされた男子が、信じられないものを見たようにパクパクと口を開閉していた。

 何か言ってやりたいが、しかし夜凪の目に、底冷えするような本気の色が見えた事に恐怖したようだった。


 あの日居合わせていたは、どこまでも誠実だったのだ。

 それをこのように侮辱されたという事に、夜凪自身が驚くほどに今、怒っていた。


 いつもおとなしく穏やかだった夜凪の豹変に、クラス全てが呑まれ、シンと静まり返っていた。


「それに……」


 夜凪に庇われている星那が、推移をハラハラしながら見守っていると……急に手首を掴まれる。

 夜凪がそのまま逃げるのを封じるかのように星那を壁に押さえつけると……


「へ? い、いや、ここ人前っていうか教室! 教室なのにこんなところで……」

「昨日、星那君にも手伝ってもらうって言ったよね?」

「そういえば言ってたけど、こんな事するなんて一言も……むぐっ!?」


 迫って来る顔に慌てるも、時すでに遅く。

 抗議しようと開いたその唇を貪るように、夜凪の口が覆いかぶさった。




 ようやく解放された時には、口の端から涎の糸を零しながらも肩で息をして、空気を貪るように肺に掻き集めている星那。

 その震える体を軽く抱くようにして、周囲を威嚇するように睨みながら、夜凪が口を開く。


「……言っておくけど、彼女は僕の許嫁だから。よこしまな目で見ないでくれないかな?」


 そう告げる夜凪は表情こそ笑顔だが……しかし全く目が笑っていない。

 そんな顔で夜凪が周囲を睥睨すると、先程まで囃し立てていた者達がシンと黙り込む。




 ……いや、おまえが今一番、邪な事してだだろ。




 そんなこの場のほとんどの者が思ったであろう事も、誰一人指摘する者はいなかった。


 そんな、静まり返った教室の中。


「はっ……ぁ……っ」


 膝に力が入らなくなった星那が、妙に官能的な呻き声を上げて床に崩れ落ちた。

 ガクガクと震える膝と、砕けた腰。そんな有様では体重を支えることは不可能で、ぺたんと床に座り込む。


「なんで……大勢の前で……やめてって言ったのに、ばかぁ……」


 星那が耳まで真っ赤に染めてうつむいたまま悪態をつき、上目遣いで恨めしげに夜凪のことを睨む。




 ――びしり、と教室の空気が軋んだ。




 夜凪に対して恨みがましい目を向けて文句を言っている星那だったが、そこに嫌悪は見られない。

 これはただ純粋に恥ずかしいだけだと言う事が分かれば……そこに居るのは、ただ羞恥に震えている美少女という大量破壊兵器だった。


 かわいい。

 カワイイ。

 KAWAII。


 ある者は口を手で覆って膝から崩れ落ち、ある者は手近な机に突っ伏し、ある者は壁に頭を打ち付け……そんな狂乱の中で一人事情を理解できていない星那が、涙に潤む目と真っ赤な顔のまま、首を傾げた。


「……うぉぉぉおおおっ!?」


 突如、男子生徒が一人、雄叫びを上げ教室を飛び出していった。


 あれは……あの五厘に刈った坊主頭は、クラスメイトの相田君。

 たしか入学後、比較的初期のほうで瀬織さんに「俺にあなたを甲子園に連れて行かせてください!」と、情熱的な告白をして玉砕した熱血漢だ……と星那は思い出す。


 そのまま十数秒後、校庭から「瀬織さん、俺、君の事が大好きでしたぁぁあああっ!!」と想いを振り切るように泣き叫ぶ声が聞こえてきて、さらに困惑する星那だった。


「……もうやめよう、死人が出る、あとそんな顔を僕以外に見せるの禁止」

「え、あ、うん……?」


 今ひとつ理解できない中、夜凪に手を引かれてとりあえず彼の席に腰掛けさせられる。


「おい、今号泣してる相田とすれ違ったんだ……が……」


 そこに、朝練上がりだと思われる陸がガラリと戸を開けて入ってくる。


 彼は教室の異様な雰囲気に気付いて、一歩踏み込んだところで躊躇いを見せたが……すぐに落書きだらけの星那の机を見つけて色々と察してくれた。


「夜凪、新しい机持ってこよう、職員室で倉庫の鍵借りてきてくれ」

「あ、うん」

「皆は、落ち着くまで瀬織さんの事を頼むな」


 そう言って、落書きされた机を抱え、連れ立って出て行ってしまった二人。

 ようやく教室に安堵の空気が流れた……と思ったのも束の間。


「……瀬織さん!!」

「ひゃ、ひゃい!?」


 まだ立ち直っていなかった星那が、突然好奇心に顔を輝かせた数名の女子……先程は加担せずに遠巻きに見ていた者達だ……に詰め寄られて、裏返った声を上げる。


「白山君と付き合ってたの!?」

「い、いえ、そんな事をすっ飛ばして、許嫁ってどういう事!?」

「いったい、いつ頃から!?」

「どこまで進んでるの!?」


 そのあまりの勢いに仰け反りながら、パチパチと目を瞬かせる。


「え、えっと、はい……一応、高校入学前から……親からは学業が終わるまで清い交際をと言われてますので、キス以上は無い……ですけど……」


 顔を赤く染めて語る星那のその言葉に、周囲で聞き耳を立ていた女子からは落胆の、男子からは安堵の声が流れる。


 ちなみに、高校入学前からというのは両家の家族間で統一しようと決めた嘘だ。


 もちろん、そんな事を知らない女の子達は、はー……と感嘆の声を上げていた。

 そこに、先程までの一部女生徒に見られた侮蔑の視線は感じられない。


 ……なぜか数名の女の子に、小さな子供をあやすように頭を撫でられているのかは疑問に思ったけれど。


 先程とは打って変わって、やけに生暖かい好意的な視線が星那に向けられている。

 その一方で、先程夜凪へと絡んでいた男子たちには絶対零度の視線がクラスのあちこちから突き刺さり、すっかり萎縮していた。もはや星那の側へと近寄れるような雰囲気ではなかった。


 そんな空気が変化した教室に戸惑っている間にも、周囲の女生徒たちのテンションはどんどん上がっていた。


「ごめんなさい、私たち、瀬織さんの事を誤解していたみたい」

「……え?」

「そうよねぇ、あんな愛の重たい婚約者がいたら、緊張するのも無理はないわよね」

「え、ぁ、違……」

「でも、今後は何か困った事があったら相談して欲しいかな」


 何か、おかしな方向に進んでいる話。

 クラスメイトの女子の視線が、多分に同情を含んでいる気がする。


「それにしても、予想外だったのは白山君があんな肉食系だった事ね」

「……え?」


 思っても見なかった言葉に、目をパチクリさせる。

 しかしその時には女子のおしゃべりは盛り上がっており、女の子初心者である星那に口を挟めるような状況ではなくなっていた。


「あ、わかるービックリしたよね」

「私も、騙されていたわ。あれは草食系男子なんかじゃないわね」

「能ある鷹は爪を隠すっていうけど、あれはヤバいわね」

「暴君よ暴君。タイラントよ」

「でも、白山くん顔は悪くないし、結構格好良かったよねー」


 女の子達が盛り上がる中で、それとは距離を開けていた、先程は悪意の視線を星那へと向けていた女子のグループが、舌打ちして離れていく。


 その様子を横目で眺め……はぁ、と安堵の息を吐く星那だった。




 ……それで、周囲の恋話に花を咲かせる女子達に何も言わずボーっとしていたのが良くなかったのだろう。


 気がついたら、女子の間で夜凪の評判が草食系男子改め「暴君」へと凄まじいクラスチェンジをしていた事に……星那は後になってから、ただ渇いた笑いを浮かべる事しか出来なかったのだった。

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