星那と入れ替わり初登校の終わりに
入れ替わって初めての学校が終わり、帰宅してすぐ。
星那は脱いだ制服を綺麗に整えて壁に掛け、部屋着へと着替えると、押入れから、以前のスライムに続く二つ目のぬいぐるみを引っ張り出していた。
圧縮袋で小さくなっているそれを解放し、出てきた小さく縮んでいる中身を優しく叩く。
しばらくそうしていると、中の綿が空気を含み始め……やがて、星那の身長の半分以上もある大きなイルカの姿を取り戻した。
表面を撫でると、柔らかく手触りの良いタオルのような触感にホッとする。そのイルカに抱きつき、顔を埋めてベッドに転がった。
「……疲れた」
ぬいぐるみをぎゅっと抱いて、ぽつりと弱音を吐くのだった。
一挙手一投足に常について回る視線。
学校だけではない。ただ道を歩いているだけでも、知らない人々の視線がまずは顔、続いて胸や、スカートから覗く脚に纏わりつく。
それが、ずっと続くのだ。
美少女は大変だと他人事ながら思っていたが、いざなってみると想像以上だ。瀬織さんはこんな中でよく平然としていたのだと、何度目かの畏敬の念が湧いてくる。
それに……
「星那君、起きてる?」
控えめな呼びかけの声に、コンコンと小さく扉を叩く音。
「……夜凪さん?」
「起きてるね、お邪魔するよ」
そう許可を取って、夜凪が部屋へと入って来る。
「うわ、何してるの可愛い。写真撮っていい?」
「あ、こ、これは……」
星那の姿を見るなり目を輝かせ、嬉々としてスマホを取り出す夜凪に、今の自分がどんな姿をしているのか思い出した。
ぬいぐるみのイルカを抱きしめ、顔を埋めてゴロゴロしている自分はさぞ子供っぽい事だろう。
慌てて起きようとして……そっと、肩を押さえられてベッドへと戻された。
「真昼さんが、多分疲れているだろうから持って行けって。あと、夕飯は用意するから休んでろってさ」
そう言って夜凪がベッド脇のサイドチェストへ置いたのは、ストローを刺してカップに満たされた、よく冷えた甘酒。星那の好物だった。
「……とりあえず、今日一日おつかれさま」
そう言って、ダウンしている星那の頭を撫でる夜凪。
しばらくの間、その暖かい体温だけを感じる穏やかな時間が流れ、不思議なことに、それだけでささくれ立っていた心情が収まっていく気がする。
「……その様子だと、クラスの雰囲気に気付いているよね」
夜凪のその声に、ぬいぐるみに顔を埋めたまま頷く。
――それに……なんだか、嫌な視線だったな。
クラスの女子の一部から向けられている視線の中に、侮蔑と嘲笑混じりのものがあった気がする。
そして……それ以上に気になったのが、一部男子の好色な視線。あれは恋慕のものではない。もっと直接的な……劣情。
――気をつけろ。クラスの……いや、学校内にはマスコミの作ろうとしたストーリーの方が都合がいいって奴も居る。
そう星那たちに告げたのは、昼休みに話をした陸だった。
そういえば、退院後の白山家で一度も点けられていなかったテレビ。その理由を、ようやく理解した。
――進学校で起きた、生徒の転落事故。
星那たちは知らなかったが……落ちたのが立ち入り禁止場所に居た男女だったという事で、マスコミの格好の餌食となってワイドショーなどを賑わせていたのだそうな。
以前、病院に報道関係者が忍び混んでいた事があったが……あれも、その一環だったらしい。
今は学校からの公式発表……星那があの日屋上にいたのは自衛のためであり、そこにやましい理由は一切存在していなかったという発表によって、表面上は鎮火した星那の不純異性交遊疑惑。
しかし、それでは都合が悪いと言う一部の者が、今も良くない噂の発信源となっているというものだった。
幸い、進学校である白陽の生徒は理性的であり、その言葉に耳を傾ける者はほとんど居ない。
だが……それでも少しは居るのだから、気をつけろ。陸の話は、そのように締められていた。
「……あれは僕がなんとかする。君は心配しなくていいよ」
「……夜凪さん?」
「大丈夫、僕にいい考えがある……まぁ、少しは手伝ってもらう事になるけどね」
そう言って、ニヤリと悪どそうな笑みを浮かべている夜凪。
「……むしろ、ひしひしと悪い予感がするんだけど」
ぬいぐるみから顔を上げ、ジトッとした目で見つめるも、夜凪は曖昧に笑うだけなので追及を諦める。
それでも、そんな夜凪を見ているだけで、なんとかしてくれる気がする。
少しだけ気が楽になった星那は、改めて持ってきてもらった母の甘酒に、口を付けるのだった。
◇
しばらく頭を撫でていると……よほど疲れていたのだろう。やがて、すぅすぅと静かな寝息が聞こえてきた。
「……無防備に寝ちゃってまあ」
さっきまで震えていた少女とは思えない安らかな寝顔に、呆れ混じりに呟く。
微笑みの形をした仮面を被っていた自分の時と違い、今の『星那』は表情豊かだ。
そんな彼女は今、夜凪の目の前で、無防備に緩み切ったあどけない寝顔を見せていた。
そっと手を伸ばし、見るからに柔らかそうな白い頬に、起こす事がないよう静かに触れる。
すべすべ、もちもち、ふにふに。
そんな擬音が似合いそうな、若干ひんやりとした肌は、ずっと触っていたいような触り心地の良さだ。
そして……こうして触れていると、まるで、もっととせがむように手に頬をすり寄せてくる。その様は、まるで小動物のようだ。
――何これかわいい。
思わず空いているもう片手で口元を覆う。そうしなければ、感極まって奇声を上げそうだった。
あるいは、自分が寝ていた時もこんな顔だったのかもしれないが、それは知る術がないので仕方がない。
ただ……こうして無防備な寝顔を見せてくれるくらいには信用されているのだと思うと、嬉しい……のだと思った。
――健気な子だな、と思う。
夜凪が星那へと課した女の子としての日々のケアは、男の子にとって決して容易い事ではなかったはずだ。
しかし星那は、時には指導を請いながら、律儀にその全てをこなしている。
それだけではない。彼は星那の体の非力さを男女の性差だと思っているようだが、だとしてもここまでではない筈なのだ。
星那は……病気や障害という程ではないが、元々の筋肉が少しだけ細く弱いのだ。運動が大の苦手だった理由もそこにある。
あの入れ替わった原因となった屋上で、落下する夜凪を僅かなりとも支える事ができなかったのも、そのせいだ。
きっと、薄々気付いているはずだ。自分の体のことなのだから
しかし星那は、そんな不利益を課した夜凪を責めるような事は今まで一度もない。
「……好きな子を守るのは、男の子の義務だもんね」
かつて、自分の身を呈してでも星那のことを救おうとした彼の姿を思い出しながら、呟く。
そう、好きな女の子だ。
それが、『元の星那』の姿をしている少女だからなのか、それとも『今の星那』だからなのか……あの陸という男子生徒の前ではああ言ったものの、未だ断言できているかというと自信は無い。
しかしこの数日共に暮らす中で、自分の中で『今の』星那の存在が徐々に大きくなっていくのを、確かに感じているのだった――……
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます