俐一視点
Crossroads Of Desires
僕は病室で置いて行ってしまっていた携帯を受け取った。白い壁、無機質な医療機器、それに囲まれた希翼。病室は相変わらず時間が止まったような静寂に包まれていた。
僕が嘉一に手を引かれていく光景を見た希翼は、僕と嘉一の間に「何か」があったことを察しているんだろう、携帯を僕に渡した後は特に言葉はなく、視線は病室の窓の方に向いていた。
もう以前のようにはいかない。
僕は病室の椅子に座ることはせず、何をどう伝えるか、言葉を熟考するがうまくまとまらないまま言葉を発する。
「これから少し忙しくなるから、頻繁には来られなくなる……かも……いや、来られなく、なる……」
僕は声を振り絞った。下手をしたらもう会えなくなるかもしれない。切なさに押しつぶされそうになるが、僕には背負うべき責任がある。もう決めたことだ。けじめをつけなければならない、という思いが語尾を強くさせる。
「そっか。寂しくなるね」
希翼はほんのりと笑った後、僕の瞳をじっと見つめた。表情は穏やかではあるが、その視線はどこか悲しさを感じさせるものだった。
心苦しさを覚える。希翼との時間は確かに僕にとっては特別な時間でだったからだ。共に過ごしたあの時の空気感がそのまま戻って来たかのような、懐かしいような温かいような崇高なものが心を満たしていた。
でも、今僕が向き合うべき人は別にいる。
「……学校とか、真面目に通わなきゃって思って」
「うん、いいことだね」
「このままじゃだめだって気づいて……」
「それは彼女さんのため?」
「なんでそれを……」
僕の口はぽかんと開いてしまった。
「思ったより病院って静か、なんだよね」
希翼は申し訳なさそうな表情を浮かべながら短く笑った。看護師が廊下を歩く音が聞こえる。
つまり――。あの日の病室の廊下での嘉一とのやり取りが聞こえていた、ということが分かり、サッと自分の顔に血の気が引くのが分かった。それらには希翼には聞かれたくない内容も含まれている。怖い怖い怖い。一体どこまで――。
「あの、どこまでっ知っ――」
「俐一」
希翼は僕の言葉を遮った。
「その決断を応援する。どんな俐一でも、応援する」
「……」
どんな、僕でも……。
やはりそうだ、会話のほとんどが聞こえていたんだ。この場からいなくなってしまいたい。隠したかった秘密が暴かれてしまった感触は、まるで無防備な心に矢が突き刺さったかのようだ。でも、その矢は思っていたよりも柔らかく、温かいものだった。「どんな俐一でも」という言葉……それはまるで自分の隠れた一面を、許してくれるかのような響きだった。
「ボクはこの前彼女と別れたんだ」
希翼はそう言うと、「はぁ」とゆっくりと息を吐き出した。
「彼女って……写真の人?」
写真立てに飾ってあった写真を思い出す。希翼の隣に写っていた女性……
本当は聞いてみたいことではあったけれど、なんとなく聞き出せずにいたことだ。写真たての置かれていた机に目をやるが、既にその写真は消えており、一冊のノートと家族写真が置かれているだけだった。
「そう。俐一に似た人だったな。芸術肌で、絵を描いてる人だった」
「そう……なんだ。なんで別れちゃったの?」
初めて希翼から語られる女性関係。どこかズキズキとした感情を覚えるが、彼の言葉に耳を傾けた。
「彼女には未来が、あるから。ここで終わらせるのが最善だって思った」
「希翼……」
未来。希翼がそれを言うことで、それは何倍もの重さのある言葉になる。
「俐一。彼女さんのこと、大切にしてあげてね。ボクができなかった分、いっぱいいっぱい大切にしてあげて」
希翼は涙を堪えるような表情になりながらも、ニコッと僕に笑いかけた。
「うん……」
「約束だよ」
「うん……!」
後ろ髪を引かれる思いだったが、彼に背中を押してもらえた。もう頻繁には会えないと思う、でもこの約束が今の僕たちの繋がりとなったんだ。決意を胸に病院を背にして歩いた。
――――――――――――――
携帯を新しいものに買い換えた。電源が切れていて、繋がらないなんて話にならないからだ。傷のついていない携帯の握り心地にはまだ慣れていない。そして、密かに集めていた化粧品やらを捨てた。部屋を片付けて、イーゼルとキャンバスを物置にしまった。生まれ変わろう、そう思って伸ばしていた髪も少し切った。それでもカイよりはだいぶ長いけれど……。
鏡に映る自分は新鮮で、まるでそれは自分ではないように思えた。
「今日も学校サボらないのな」
新たな週のスタートとなる月曜日。朝の歩道を嘉一と横並びになって歩いている。
嘉一の顔はいつもと変わらず無表情だが、どこか目に光が入っているかのような少し明るいトーンだった。
「サボらないよ、サボタージュのプロを目指しても良かったんだけどね。誰かさんに誠意見せてくれって言われちゃったから」
「ふーん。じゃあ今は誠意のプロ目指してんのか」
「はは、まあね。詩音と結婚したいと思ってるから、誠意は見せないと」
嘉一の足が止まった。疑問、驚きの交錯している表情だ。
「……本気なのか」
「うん。だから学校を卒業して、ちゃんとしたところに就職して、社会人として本物のプロになるつもり」
僕も足を止めて、嘉一にそう宣言した。彼の瞳が僕を突き刺すように見つめる中で、一抹の緊張が心を這う。だが、この瞬間、この場所で宣言したことに後悔はないし、これは紛れもない本心だ。今、詩音と付き合っているのは僕なのだからこれくらいのことは言っていいはずだ。
「リーは人当たりが良いし、面接は得意だろうな。俺は不愛想が理由でいくつか落とされたけど」
返ってきた言葉は予想外だった。何かまた憎まれ口を叩かれそうな気がしていたから。嘉一がまた歩き始めたので、合わせるようにして足を動かす。
「……カイよりも給料良いところ就職しちゃうかもよ?」
「金に無関心な奴が良く言うよ」
「まぁね……でも詩音の婿になるならそれなりに稼いで社会的な地位を確立しなきゃダメだと思うんだよね」
「婿? 大場になるつもりか」
「うん。大場の血は絶やせないでしょ。百ちゃんも結婚して名字変わっちゃったし……月城の血はカイにゆだねよっかな」
嘉一の顔がやや硬くなった。
「……詩音はリーが婿になることに同意してんの?」
「ううん、結婚したいってまだ言えてない。でも近々プロポーズも兼ねて言いたい。……でも今のままだと不甲斐ないから。こうして早起きして頑張ってる」
嘉一の目が少し緩む。何かを悟ったような、その表情が僕を温かく包んだような気がした。
「いつまでそれが続くかな」
「ずっとだよ」
「今までそんな感じじゃなかっただろ」
「……自信が無かったからね。でも……今回のことで気づかされたんだ。今は詩音のことを失いたくないっていう思いの方が強い。だから女装ももうしない」
誰にもバレたくないと思っていたことが、嘉一にはバレていた。隠し通したかったものが初めて人にバレた。それが分かった時、まるでガラスの花瓶が割れるような音を立てながら心が砕け落ちるような感覚になった。
しかし、あれから嘉一は女装のことを話題に出して僕をからかったりしないし、普段通りに接してくれている。恐れていたことが現実となってしまったが、予想以上に寛容な世界だった。
切っても切れない縁――兄弟だからというのもあるだろうが、ありがたいことだと思う。若干、もう一名にも知られてしまっていると思うが、彼も僕を軽蔑しているそぶりは全く見せなかった。
嘉一に隠すことがなくなった今、肩の荷が下りて以前より自然体で話せている感じがする。案外砂時計の砂のようにサラサラと現実が流れていく様に、「知られたら自分は生きていくことはできない」などと考えていた過去の自分を少しばかり滑稽に思っている。でも、これ以上誰かに知られることはもう極力避けたい。
「リーは……なんで女装してたの。女に、本気でなりたいって思ってたの?」
自分の中で思考を整理した。
確実に言えることは、完全に女性になりたい、という訳ではないということ。
「いや、そんなんではない……女装をしてたのは完全に女になりたいから、とかじゃなくて。絵と同じで肌に色を塗って、より美しくなる。そんな感覚を楽しんでいただけ……だと思う。……でも、女装した自分の顔を見て、時折女性のように振舞ったり、女性として生活をする、みたいなことをしてみたいなって思うことはあった。男の身体のまま、女性として生きることを望んだ時期もあったかも。まぁ、でもそれはもうやめる。ちゃんと、男として生きていくよ。俺、男として生まれたことには後悔はないから」
男として生まれたから、僕は詩音と付き合えているんだ。この先の未来のためには、封印しなければならないこともある。
「正直……俺リーは詩音のこと本気で好きじゃないと思ってた。その……強く言い過ぎたと思う。ごめん」
嘉一は下唇を少し噛みながら言った。
「はは、まぁしょうがないよね……しょうがないよ……」
事実、僕は中学の頃は希翼に特別な感情を抱いていた。そして、興味本位で姉の化粧品に手をつけ、沼にハマってしまった。塗り絵のようなもので絵に親和性があったこともそうだが、自分が変わるような、内なる自分に出会えたような感覚に取り憑かれたのだ。街を歩けば女物の服やアクセサリーに自然と目がいってしまう。身につけてみたいと思ってしまう。男性と手を繋いで歩いている自分を想像してしまう。
「気づき」というのは時に残酷なものだ。客観的に、それが人の目にどう映るのか、を僕は理解していた。周囲から冷たい視線を送られる自分が頭に浮かんだ。僕は自分のことが許せなかった。隠さないといけない、悟られてはいけない、そんな思いがぐるぐると黒い負の感情と共に心の中に渦巻く。抑えようとしたって、湧き出るソレが心を蝕んでいく。無意識に、男性へも目を向けてしまう自分がいた。手が自然に化粧品に伸びる自分がいた。そんな自分をどう受け入れればいいのか。日々、自己嫌悪が積み重なり、のっぺりとした布団のような影がいつも自分について回り、重くのしかかっていた。生きづらさがこみ上げる。やがて目に映る世界がモノクロへと変わっていった。
自分を偽り、適当な冗談を言い、へらへら笑ってやり過ごすことが僕の精いっぱいだった。
そんな中、詩音との恋が始まり、ようやく自分も「普通」になれたかのように思えた。でも、人間の根本は変わらない。自分は普通の人とは違うし、それを変えることなんてできない。分かっていたことだが、それは希翼との再会で痛感した。男性への恋心を思い出しそうになった。僕はどちらの性別も愛せる人なんだということを悟った。
怖かった。
ただ、怖かった。きっと僕は世間から受け入れられない。現実逃避をするように、絵を描いた。でも僕自身も自分の絵を受け入れることができなかった。この世に希望を見出せないでいる自分が、この先の未来を誰かと共に作っていくということが怖かった。
でも、それよりも詩音を失うことの方が怖いと分かった。自分を押し殺すことは、自分を否定して生きていくことだ。でももう、今の僕にはこうするしかない。完全に封印して生きていくしかないんだ。
「言っておくけど……カイは詩音の婿にはなれないからね」
「俺が婿になれない?」
嘉一は訝し気にこちらを見た。
「仮にカイが詩音の婿になったとして結婚後の自分のフルネーム考えてみなよ」
「オオバカ
嘉一は目を細めて笑った。
「あ、久々に笑った」
「よわよわなくせに、調子のんなよ」
嘉一の力の入っていないよわよわパンチが胸元に当たった。
「言っとくけど身体はそんな強くないけど酒には強いからね。誰よりも」
「それは俺もだよ。あんなもの好き好んで飲む人の感覚分かんないけど」
「……とにかく、詩音は渡さないから。分かった?」
「ふっ……まぁがんばれ。じゃあ俺はここで」
改札を通過すると嘉一は 反対の方向のホームに進もうとしている。
「ん? 会社行くんじゃないの?」
「今日は午前休」
「え、じゃあどこ行くの?」
「某施設」
「施設……?」
「俺にも、守りたい人ができたってことで」
ひらひらと手を振りながら歩き出す嘉一。僕は嘉一から初めてそんな言葉を聞いた。
体中から嬉しさと喜び、驚きのような感情が湧き上がってきたのを感じた。顔が熱くなる。
「へ? ……ちょっと! 詩音が好きだったんじゃなかったの? 誰かと付き合ってるの?」
嘉一の白いシャツを掴む。
「まだ付き合ってねーよ」
「まだ!?!? ってことは??」
「放せって」
無理やり引き離されてしまったが僕たちの心の距離は以前より縮まったような気がした。
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