ぼくのシグナルはオール・グリーン!

肥前ロンズ

1

 小学校時代、『ぼく』という一人称を使ってた。

 深い理由はなかった。男の子になりたかったわけじゃない。でも、『私』とか『あたし』とかより、『ぼく』と言った方がしっくり来た。

 ただそれだけだったんだけど。


『そろそろ中学生にもなるのに「ぼく」を使うのはやめなさい。恥ずかしい』


 みんながいる教室で、教壇に立つ先生に立たされて、そう言われて。

 クスクスと言う笑い声と、『キモイ』『自意識過剰』という言葉に、『ぼく』はあっという間に死んで行った。



    ▪


 回覧板で予告された日曜朝の川掃除は、何故か予定の開始時間には終わっている。男性は川掃除を、女性は草むしり。

 抜いた草を一輪車に積み上げてからこら運ぶのが私の仕事だ。


「みどりちゃん、ありがとねえ」

「いえ。大してお役に立てませんでしたが」


 こうやって感謝される度に、嬉しい半面、騙している気持ちになる。

 私がやった事なんて、このおばあさんの仕事量に対しては些細なことなのに。


「はい、参加賞。今日、何か予定はあるの?」

「いえ。特には。家にいると思います」


 そう言うと、あらまあ、若いのに予定がないなんて、と言う。長い付き合いで全く他意はないことを知っているので、私は苦笑いするしかない。


「今日は何かご予定あるんですか?」とこちらが尋ねると、おばあさんはそれがねぇ、と真剣な顔をする。

「実はこれからお友達と遊びに行くんだけど、トイレットペーパーがないことにさっき気づいてねえ」

「トイレットペーパー」


 主婦歴50年一生の不覚よ! とおばあさんが言う。


「でも私が買っているの、遊びに行く先とは逆方向のスーパーにしか売ってないのよ。何時もは生協で買ってるし、免許も返納しちゃったし億劫で……」

「トイレットペーパーだけなんですか?」

「んー……一応、思いつくのはそれぐらいかしら……」


「私、買いに行きましょうか?」

 



      ▪



 学校にも行けなくなったのは、本当に些細なことで、自分でもどうかと思う。


 でも、最初は頑張っていたんだ。飛び飛びで休んで行かなくなっても、卒業式には出れたし。中学校になったら心機一転、頑張ろう、普通の子になろう、と思った。


 けれど、朝起きて、顔を洗う度に、絶望的な気持ちになった。

 洗っても洗っても、増えていくニキビ。大して可愛くない自分の顔が、笑うことを忘れて、どんどん不細工になっていく。爪や髪がボロボロになっていく。

 それを隠すための化粧は禁じられているし、何より、似合うと思えなくて。


『キモイ』


 クスクスと言う笑い声と一緒に、脳裏を掠めた。

 似合わないスカートから見える、足の無駄毛。剃っても剃っても、濃いまま。

 ズボンだったら隠せるものも、隠せなくなっていく。

 黒い制服の上には、白いふけが肩にかかって目立った。


『恥ずかしい』『キモイ』『自意識過剰』


 もうダメだった。

 学校に行かなくなると、今度は外に出ることも出来なくなった。学校に行かないで外へは遊びに行くんだ、と言われそうで。

 勉強すれば学校に行く自信がつくかと思ったら、全然ついていけなくて。

 何度数式を解こうとしても、何度英単語を練習して覚えようとしても、何も頭に入ってこない。


 小学校の、そこそこ勉強したらテストで90点ぐらいはとれて、ニキビもなくてズボンを履いて、なんの心配もなく『ぼく』と言って過ごしていた自分は、死んでいた。





     ▪



 

 お母さんは、「暫く好きなことしなさい」と言ってくれたけど。

 学校に行かず、家にひきこもってYouTubeを観て、ゲームして、ふと、


『親のお金で何遊んでるんだ』


 って、RTが回って来て。

 それは30歳ぐらいの男性が働かず家にいて、親との諍いで殺人を犯してしまったというニュースへのコメントだったのだけど、私は、それが自分の未来に思えてしまった。

 今はまだ働けないから、せめて、人の役に立てるようになったら、自信がつくんじゃないかと思ったけれど、結局は役立たずだな、と思うだけ。

 それでも誰かの役に立ちたいと思って、駅前のスーパーでおばあさんが求めていた、ロール型ではなく四角形の薄いちり紙タイプを買う。


 鬱陶しいほどの青い空。

 もう、高校のことを考えないといけない時期なのに、なんも考えていない。


 そもそも私の成績で、高校行けるのかな。

 入学してもダメになって、お金を無駄にするだけなのかな。

 失敗するだけならなんもしない方がいいのかな。

 でもそうしたら、ホントにダメな人間になっちゃう……。


 駅の前の信号が赤い。

 お母さんは、好きなことをなさい、と言ってくれたけど、好きなことなんて出来やしない。皆が受験で苦しんでいる時に、楽しいことなんてできない。好きなことは終わってからすればいいんだ。そんなことわかってるのに、一歩も動けない。


 人が、今までの自分が普通にできることが出来なくなって、サボって、逃げて、ダメだってわかってるのに何も出来ないの。

『できない』って言うのもただの言い訳だってわかってるけど、他の人だって大変なのも知ってるけど。

 じゃあなんの義務も果たさず、生産性もない私が出来ることって、


 今すぐに道路の真ん中に立って、轢かれることしか、思いつかない。

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