第22話

「日本をこうしたい」とか「ここをこう変えたい」という発想はまるで見当たらず、理念も全くない。人事はでたらめで権力者に有利かどうかで官位が決まり、権力者どおしの権力闘争に明け暮れているだけの政治である。

こんな民を無視した政治が、いつまで続くのか?

惟喬は今の政治に失望し、もう朝廷に未練はなかった。 

文徳天皇が三十一歳という若さで謎の急死を遂げ、惟仁親王が僅か九歳で即位して以降日本の政治は一変した。

父文徳の崩御による即位とはいえ、九歳で天皇になった天皇は過去に例を見ない。極めて異例の事態であった。

このような場合、幼い天皇に近い王族が摂政につき政治を補佐するのが通例であるが、政治能力がほぼない幼い天皇に摂政をおかなかったのも前列がなかった。朝廷は天皇から役人に何の指示もなく決済ももらえなくなった。

朝廷は、たちまち機能不全に陥った。

その間に藤原良房は幼い天皇を独占し藤原氏に都合のいい政策を実行し、日本の統治体勢を根本から変革した。

当時王族は別として、各氏族の荘園はごくかぎられていた。多くは各氏族の本拠地や昔領地だった地域の昔からの氏族部民達の繋がりからの仕送りみたいな程度で、朝廷もこれきらいなら許せる範囲内のごくわずかなものだった。

古代大豪族だった伴氏、紀氏、小野氏に比べて弱小豪族だった藤原氏の領地は少なく荘園も今の権力と比べたら少なかった。

しかし、今までは自分も役人の一人である立場から律令の範囲外である荘園を増やそうとはしなかった。

そもそも日本の土地の全ては天皇のもので、一人一人に口分田が分け与えられ、祖庸調などの税が納められるというのが大前提である。

荘園は本来律令違反で、荘園が増えれば朝廷の収入が減り役人にとって悪の存在で役人が荘園を持つことは他の役人から睨まれ嫌われる行為だった。 

しかし、まず皇族が荘園を持ち始めた。

皇族といえども律令内の範囲内で生活しており、自由に使えるお金は少なく、皇居暮らし贅沢に慣れた親王が臣籍降下した皇族には厳しい金額だった。

そこで桓武天皇は大規模な勅旨田開発を各地で行い特に嵯峨、淳和の両上皇は競うようにして勅旨田を設定した。

これらの相当部分は、源氏などを含む王族領荘園に変化していった。役人達はそもそも日本の土地は天皇のものであり、王族が荘園を持つのには律令違反で取り締まることができなかった。

日本各地に律令の地外法権の荘園が次々とでき、その影響下で地域の開発や特産品生産そして社会的な分業と商業の発展が進んだ。 

それに、富豪の輩が目をつけた。

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