第8話

 まず嵯峨天皇の妻、橘嘉智子の一族、橘逸勢を抜擢した。橘逸勢は、遣唐使の一員で後に三筆の一人として讃えられた文化人であった。

 遣唐使の一員であった菅原清公の献策によって、朝廷儀式の唐風化が進められ、最澄と空海が密教を興隆させ、奈良時代以上に唐風文化がさかんになり、橘逸勢は政治、文化において大きく活躍した。 

 そして、弟の淳和天皇の皇太子時代の名は大伴親王であった。淳和天皇はその名のとおり大伴一族を優遇した。大伴(改名して伴)氏、橘氏を出世させて藤原氏に対抗する勢力に育てようと天皇家は目論んでいた。 

 加えて嵯峨天皇はもう一つ、画期的な手を打った。

 嵯峨天皇は多数の妻妾をめとり、十人もの子供をつくった。これらの子女のうち、母親の身分の低いものたちをまとめて臣籍降下させて姓を与えた。「源」という姓である。

 すなわち、これが源氏という氏族のおこりであった。親王の身分のままで左大臣、右大臣というポストを全部皇族で固める訳にはいかないからだった。

 臣籍降下して一般の貴族となれば、藤原氏や他の貴族と同列となって逆に抜擢しやすいのである。

 それまでも、賜姓皇族は昔からあった。(有名な例では、奈良時代の政治家橘諸兄を出した橘氏もそれだった)

 嵯峨天皇は多くの皇子をまとめて臣籍降下で源氏姓を与え、臣下として優秀と認めたものを盛んに登用するという手段だった。 

 後世、源氏の「第一郎(最初の男)」と呼ばれた嵯峨の子の源信は左大臣になったし、弟の常は兄よりも早く左大臣になる。

 もう一人の弟の融も、後に左大臣になる。

 嵯峨朝に生まれた源氏一族は、たちまちのうちに藤原一族に対抗する有力な氏族にのしあがったのである。

 しかも嵯峨天皇は藤原氏に対しても、万全の布石を打っていた。当時の藤原の代表は左大臣藤原冬嗣であるが、この冬嗣の後継者である良房に臣籍降下させた自分の娘、源潔姫をめあわせたのだ。臣籍に下っているとはいえ天皇の娘が臣下に嫁ぐというのは前代未聞のことであった。 

 嵯峨は弟の淳和に譲位した後も、上皇として政治の実権を握り睨みをきかせていた。そのうちに源氏となった息子たちは、台閣の要職に就くようになる。

 嵯峨上皇の死後六年経過した嘉祥元年の時点では、仁明天皇(嵯峨の子)の下で左大臣が源常、右大臣が良房で大納言が源信だった。

 承和の変で伴橘氏が共に没落しても、まだ天皇家としての総合力は藤原氏よりも優っているはずであった。

 しかし、良房の天才的な強引な策略は神業であった。それほど天皇の鉄壁の壁は厚く突き崩すのは

不可能と思われていたからだ。 

 だが、良房は嵯峨の作っておいた鉄壁の壁を突破した。

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