全て終わってしまいたい

「先輩、終わりました」


 お風呂から上がってきた七海からは、僕と同じとは思えないシャンプーの匂いがした。普段よりラフな格好の七海が僕とL字になるようにテーブルを囲んだ。


「テレビでも見て待っててくれ。今、晩飯も頼んでおいた」


 スマホで注文したUber eatsは30分後の到着を教えてくれていた。

 七海に続いて僕もシャワーを浴びた。冷え切った体に熱いお湯をかけ、いつもと違う匂いのする浴室にどきりとした。あまり待たせても申し訳ない。いつも以上に急いで体を洗い、髪を乾かした。


「今日の主役が届きましたよ」


 そう言ってローテーブルに置かれたのは、Mサイズのピザ2枚だった。入浴中に届いていたらしい。


「あー、冷蔵庫に色々入ってると思うから。シャンパンもあるはず」


「勝手に取りますね。せっかくだし、お酒飲んじゃおっかな」


 ここに来るのは初めてだというのに、七海はずいぶんとこの部屋に馴染んでいるように思えた。もしかしたら、すぐに散らかしてしまう僕なんかよりも物の所在を詳しく知っているんじゃなかろうか。


「さて、食べましょうか」


 満面の笑みで向かいに座る彼女を見て、どんな顔をしていればいいのか分からなかった。「うん」と曖昧な返事をした。


「それでですね、アイちゃんが失恋したって言って私が愚痴を聞いてたら……」


 いつのまにか、最近はまったく出られていない軽音楽部の話になった。どうやら、メンバー内で恋愛のいざこざがあったらしい。映画を観るという約束はとうに形骸化していた。


「いつも思ってたんだけど、七海はそういう仲介役がよく似合うよね。昔からだったの?」


「どうなんですかね。小中学校では委員長とか任せられたこと多かったですけど」


「ああ、分かるなぁ。七海の委員長」


「そ、そうですかね? でも、よく男子に舐められてましたよ。私が委員長の時には反抗してきたり」


「小学生の時だろ? 好きな子に意地悪する年頃なんだよ。ほら、七海モテそうだし」


 笑いながらピザをつまむが、流し込むのはコーラではなくアルコールだ。実に大学生のクリスマスパーティーっぽい。


「やだな、モテないですよ。高校生になった後、当時のクラスメイトに印象を訊いてみたら堅物とか、門限厳しそうとか……」


「はは、それは今もちょっと感じるけどな。まあでも、七海は可愛らしいし」


「っ……」


 未だにこうした褒め方には耐性がないのか、微妙に顔を赤らめている。若干気まずいので話題を転換しようとしたところ、七海に先制された。


「せ、先輩はどんな小学生だったんですか? やっぱり、今みたいに自堕落だったんですか?」


「自堕落って、お前な。こう見えても昔は全然違ったんだぞ。引っ込み思案で、臆病で、友達なんてちょっとしかいなくて。最後に関しては今もか」


「へぇ、あんまり見えないですね。怠惰ではあるけど、内向的なイメージはなかったので」


「そりゃ酷いもんだったよ。病気が悪化して不登校になった時もあったし」


「病気があったんですね。なにか、きっかけがあったんですか? 変われたきっかけが」


「ああ、当時同じクラスだった……」


 突如として、僕の口は言葉を発することを停止してしまった。

 それは、見ないふりをしていたのかもしれない。触れないようにしていたのかもしれない。


「先輩?」


「ごめん、なんでもない。変われたのは周りの環境のおかげさ。中学はそれなりに充実してたし、今はもう気にしてない」


 きっと、今の僕はひどい顔をしている。笑っているのに泣いているような、怒っているのに諦めているような、矛盾に満ちた表情を募らせている。


「そうだったんですね、付き合ってるとはいうものの、まだまだ知らないことばかりですね、私たち」


 僕は何も言わなかった。知らないことは、そんなに悪いことなのだろうか。互いを知ることは、生きていく上で本当に必要なのだろうか。たとえそれで辛くなっても。こんなこと純真無垢な七海に言えるはずもない。きっと傷つける。

 短い沈黙があった。エアコンの駆動音だけが部屋に満ちていた。


「七海、終電は何時だ?」


「ええと、たしか23時でしたけど。どうしてですか?」


「いや、訊いただけだ。さっきは冗談半分だったけど、実際厳しいだろ? 七海の家の門限」


「普段は、そうですね」


 意味ありげに七海が呟く。


「先輩。でも、今日はクリスマスですよ」


 そう言ってくしゃっと笑う。ああ、この子は、この純粋な女の子は、きっと胸を躍らせて今日という日を楽しみにしていたのだろう。なかなか外泊許可をくれない両親に必死に頼み込んで、ここに来たのだろう。

 それを理解した瞬間、僕はたまらなく哀しくなってしまった。僕という人間が、尾上七海という女の子にとっていかに釣り合わない人間であるのか、思い知らされてしまった。

 僕は決心した。ここで終わらせなければならない。これ以上、他人の人生に関わってはいけないのだ。短く息を吸った。


「七海、あのさ」


「言わないでください」


 僕の一世一代の決意は、勢い余った七海の言葉でかき消された。

 顔を上げると、七海の瞳には溢れんばかりの涙が蓄えられていた。いったい、いつから泣いていたのだろう。さきほどまでの笑顔は消え、気温もいくらか下がった気すらした。


「それ以上、言わないでください。私、そういう辛いこととか、悲しいこととか、分かった上で来たんですからね。今日ここに来るってことがどういうことか、全部知った上で来てるんですからね。馬鹿にしないでください」


 七海の胸の奥にある、しっかりとした強さを感じられた。やはり、僕とは違う。


「もし先輩が今から言うことが、私を喜ばせるようなことなら何もしなくていいです。けど、私が悲しむようなことを言おうとしてるなら、一瞬でいいから、ちょっとだけでいいから、抱きしめてください」


 いつから間違ってしまったのだろう。僕は確実にどこかで選択肢を間違えて、今は間違った方の選択肢で間違いだらけの人生を歩んでいる。いや、もしかしたら、僕の人生には正解の選択肢など端から正解など存在しなかったのかもしれない。今まで正解と思えていたのは、せいぜい少しマシと言えるだけの不正解だったのだ。

 こんなことを、何年か前にも思ったことがある。前を向けない僕は、いつの間にか後ろ向きに歩くことだけ上手くなってしまった。僕以外の全てが、ものすごい速度で明日に向かって進んでいる。

 彼女の泣き声が鼓膜に響き、涙が頬に染みた。七海の体がこんなに華奢だったこと、僕は初めて知った。


「なんで……なんで抱きしめるんですかぁ……」


「ごめん。ごめんな……」


 正確に言えば、僕が抱きしめていたのは七海ではなかった。過去と、記憶と、想い出。それと一緒に七海を抱きしめていた。つくづく最低だと思う。そして、そんな卑劣さを見透かしていたからこそ、最後に残酷な選択を突きつけたのだろう。

 このまま全て終わってしまいたかった。




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