破滅と自己犠牲

「今まで、ありがとうございました」 


 彼女は最後まで礼儀正しかった。床に積んだ本を崩さないよう慎重に足場を探し、できるだけ物音を立てぬようゆっくりと玄関へ向かう。その後ろ姿を見て、僕はなんともいたたまれない気分になる。

 ああ、どうか。彼女が僕を罵ってくれたら。殴ってくれたら。恨んでくれたならよかったのに。


「もう弁当作ってあげられませんけど、ご飯ちゃんと食べてくださいね。もうお部屋の片付け手伝えませんけど、服はちゃんと選択してくださいね。もう彼女じゃないですけど、サークルではちゃんと接してくださいね」


 こちらに背を向けて、僕にギリギリ届くような声量で彼女は言った。

 ガチャ、とノブの回る音がした。静謐に満ちたこの部屋は、ついさっきまで行儀良く座っていた彼女の残り香だけはなんとか留めようとしているみたいだった。

 バカだな。お弁当も片付けも、たった一回だったじゃないか。


 過去に縛られ、思い出に囚われることは、今を無為に生きる言い訳にはならないのだと、彼女に思い知らされた。きっと僕よりもはるかに辛い記憶があって、複雑な事情があって、それでも僕に縋ろうと決めてくれたのだ。僕の方が年齢はひとつ上だけど、彼女の方がよっぽど大人だ。そして、彼女の方が、僕よりずっと残酷だ。


 放心状態となった僕は、無意識にポケットに手を突っ込んだ。レシートと小銭の山をかきわけて煙草とライターを取り出すと、立ち上がってベランダに向かう。

 こんな時に限って、隣人は都合良く出迎えてくれる。


「やあ、修羅場だったみたいだね」

 ほんと、嫌な性格してるよなと思う。美大生さんは珍しく酒を飲んでいた。


「ニコチンからアルコールに鞍替えですか? どちらにせよ最悪だ」


「まあまあ。そう言ってごまかさないでよ。このアパートは壁が薄いからね。聞きたくなくても聞こえるものさ」


「そりゃあ申し訳なかったです」


 今は、こんなコミュニケーションが心地よかった。今日の美大生さんはなんだか艶やかで、なんとなく目を逸らしてしまう。ライターを点けて街を見下ろした。


「でもさ、今のキミは本当に良い表情をしてるよ。一月前なんて見てられなかった」


「逆じゃないですか? 一月前は久々に幸せだと思えていたんですけどね。それとも、タチの悪い皮肉ですか」


 手すりに置かれている缶の数は三つになっていた。


「まさか。今の方がよっぽどいいさ。気付いてないだろうけど、状況的に幸せと呼べるようになると、キミはこの世の終わりみたいな顔をしてるんだよ。鏡でも見てくるといい」


「とんでもない天邪鬼がいたもんですね。状況は最悪なのに、最高の顔をしてるなんて」


「だからこそいいんじゃないか。状況が幸せだから幸せそうな顔をする人間なんて、どこが面白い?」


「はは。生きづらくてしょうがないですよ」


 性格から言えば、この人は七海とは正反対だ。けれど、今はどうしようもなくこの人との会話が心地よい。


「それで、彼女に捨てられた可哀想な男の子はどう自分を慰めるのかな?」


「情緒のないことを言わないでください。生まれてこの方、セルフケアだけは上手かったんですから」


「それは面白い冗談だね。ケアの上手い人間が、いなくなった女の子を想って泣くなんて」


 聞かれてたのか。できるだけ声を押し殺していたのに。


「ほんっと、悪趣味ですね」


「いいじゃないか。たまには泣くのもさ。そうでもしないと彼女も浮かばれないだろう」


 いや、と否定したくなる。僕が泣いていたのを聞かれたくないのは、羞恥心なんかじゃない。僕が僕のために泣いていたからだ。そんな自分があまりに惨めで、最低で、情けないからだ。そんな弁明、かっこ悪くて言えるはずないけれど。


「まあ、そのうち忘れてしまいますよ。この傷も、傷の癒やし方も」


「察しが悪いなぁ。可哀想なキミを見てられないから、お姉さんが慰めてあげようって言ってるのに」


「それは面白い冗談ですね。やっぱ酔ってますよ」


 この人の場合、こうした言動の大半はからかいだ。迂闊に乗ってしまえばさらにおちょくられる。なのに。


「判断するのはもちろんキミだ。今から五分間だけ私は玄関の鍵を解錠する。五分間だけだ。だからって、どういうわけでもない。ただ、ノブを回すだけ」


 つくづくずるいやり方だ。そして、この人にはとことん抗えない。

 はあ、と溜息をついて、僕は吸いかけの煙草を灰皿に押しつぶした。どうしていつも、こうなってしまうのだろう。



 ****************



 隣の部屋に行くだけなのに、こうも遠く感じるのはなぜだろうか。たった1メートル向こうにある扉の前に来るまで、恐ろしいほど歩を進めたような気がする。

 ノブに手をかける。夜風で冷え切ったそれは、指先から全身を凍らせるように僕の体温を奪っていく。

 意を決してノブを回し、おもむろに開ける。奥から橙色の光が漏れていた。

 薄暗い廊下は物が多いが、あまり散らかっている印象は受けなかった。

 無言で奥へと進むと、左手にはベッドに腰掛けた美大生さんが静かな笑みをたたえてこちらを見ていた。空気は淀んで霞がかっている気さえした。

 右手には色々な種類の髪が無造作に置かれた机があった。ろうそくのように灯るデスクライトが目に優しい光を放っている。正面にはペルシャを思わせる場違いなカーテンが掛かっている。ところどころ汚れていたのは何か飛び散った跡らしい。床には新聞紙が敷かれ、描きかけの油絵が寝かせてある。改めて、美大生さんは美大生さんなのだと思い知る。


「やあ、いらっしゃい」


 その言葉が、抑揚が、表情が、あまりにも卑怯だった。

 美大生さんはベッドの空いたスペースをポンポン、と叩いた。ゆっくりと足を出し、やがてベランダ越しに会っていた距離よりも近づくと、彼女は突然立ち上がり、僕の首の後ろまで手を回した。


「どうだい? 抱きつかれてドキドキする?」


 しないわけがなかった。酒と煙草と香水の混じった残酷な匂いは鼻腔を抜けて僕の脳を刺激し、首後ろに感じる硬めの手の感触、目の前にある整った顔、正面に感じるたおやかな錯覚だって、意識しないはずがなかった。

 けれど、ここで全てを預けてしまえば、僕はもう二度とこの人なしでは生きられなくなるだろう。そして、美大生さんにそんな気がないのは誰よりも分かっていた。僕よりもずっと自由で、奔放で、自堕落な彼女は、きっと一度限りのお遊びとしか思っていない。あるいは、お遊びですらなく、単に不幸そうなフリをする僕をからかいたいだけなのかもしれない。

 数十分前まで別の相手を抱きしめていたというのに。神様はなぜ僕を生かすのだろう。


「酒臭いですよ。どれだけ飲んだんですか」


「ふふ。酔わないとやってられないでしょ。こんなこと」


「……たしかに。その通りです」


 僕は素面なんですけどね、とは言わなかった。

 最低だ。最低だと分かりつつも最低を演じ続ける僕は、何より最低だ。

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