卑怯者だからさ
3
友達がいなかった僕にとって、学校行事というのはたいした意味を持たなかった。単純に授業がなくてラッキーと思うと同時に、本を読めない環境では一人でいるのが辛かった。
しかし不思議なことに、栞と話すようになってから、徐々に友達と呼べるような存在が増えてきた。増えたと言ってもせいぜい片手で数えられる程度だけれど、僕のこれまでの人生から考えればとんでもない変化だった。
だから、6年生の時に行った修学旅行は、僕の学校行事の思い出のすべてだった。
栞と同じクラスだった4年生から6年生までの間で僕はゆっくりとセカイとの接点を見つけていき、人間と対話するようになった。
そもそも、グループを作る際に「余りもの」の烙印を押されない経験が初めてだった。僕は日常会話を交わすようになっていた3人組に誘われ、修学旅行の班に組み込まれた。
「千尋、ウチの班に来いよ」
誰かにそう言ってもらえたことが嬉しくて、思わず本当に自分でいいのか確認を取ってしまったほどだ。それもこれも、すべて栞のおかげだった。その頃にはクラス内でもわりかし栞と話すようになり、図書室での習慣は少し回数が増えた。
かくして順調に始まった修学旅行だったが、やはり誰かと居るのは疲れるものだ。普段から一人が基本の僕にとって、四六時中クラスメイトと話す環境にあるというのは荷が重かった。たとえそれが友人だったとしても。
とはいえ、京都で訪れた清水の舞台や金閣寺、奈良で見た大仏や鹿は紛れもなく楽しかったし、僕もそれを否定する気はない。ただ、ほんの少しだけ一人になれたらそれで良かった。孤独と非孤独のバランスを取るように心が叫んでいた。
そのチャンスは、一日の終わりに訪れることになる。大阪の趣ある旅館に到着し、全員で晩ご飯を食べた後は各々の部屋に分かれて自由時間となった。「消灯まで」という条件付きではあったが、同じ部屋だった例の3人も眠る気は毛頭ないらしく、誰かの持ってきたUNOやオセロにも飽きるとただの雑談が始まった。
京都の人混みにびっくりしたこと。大仏の鼻の穴をくぐったこと。晩ご飯がとても多かったこと。卒業までの日数。中学への漠然とした不安。そして、好きな女の子のこと。
「千尋は、好きな女の子とかいんの?」
「僕? いや、今のところいないかな」
3人のうちの一人が訊いてきた。僕は当然一人の少女を思い浮かべたが、すぐにかき消した。すると、また別の奴が言葉を続ける。
「マジか。千尋って委員長のこと好きなのかと思ってた」
図星をつかれたという実感と、そんなわけがないだろうという感覚が両立していた。肯定したいような、否定したいような。あるいは、単に認めたくなかったのかもしれない。自分のものであるこの感情を、他人に言語化されたくないだけだったのかもしれない。
「え、そうなの?」
思わず訊き返してしまった。
「いや、それは知らないけどさ。でも、千尋が話す女子なんて委員長くらいしかいないし、そうなのかと思ってた。競争率高いから大変だな」
「競争率」という単語がとてつもなく気持ち悪く思えた。その後も彼らは好きな女子の話を続けた。いわゆる恋バナというのだろうか。互いに好きな子を発表するコーナーがあり、大抵はもったいぶってなかなか話そうとしなかった。けれど、「俺は言わねぇよ」と嫌がるふりをする彼らの表情が常に綻んでいるのが暗闇でも分かった。
ごく一般的な小学生とは、かくも話題の尽きない生き物なのか、と愕然とすると共に、彼らの持つエネルギーになんだか疲れてしまった。時刻は22時を回っており、とうに消灯の時間は過ぎていたが「先生の見回りがないか見てくる」という口実で部屋を出た。話に夢中の彼らは僕の退出など気にも留めずに、3秒で元の空気に戻った。
********
明かりは誘導灯と部屋から漏れる光だけだった。その非日常感に柄にもなく興奮した。全身からぞくそくという感覚が沸き起こり、酸っぱい唾を飲み込んだ。
廊下で先生が監視をしているのではないか、という心配は杞憂だった。試しに先生の泊まる部屋の前に行ってみると、中からは酔っ払った担任の話し声が聞こえた。これが大人か、と悟ったように理解した。
女子の部屋の前に行く勇気も理由も僕にはなかったので、ただただ廊下の奥にある光源を目指して歩いた。暗くてギシギシと鳴る廊下は歩くだけでもかなりの心労で、グラウンドで測った100メートルよりよっぽど長く感じた。
僕が寝る108号室から101号室まで歩いて行くと、次第にそれが何の光なのかはっきりしてきた。部屋から漏れるあたたかな光とは対照的な、青く冷たい光が差していた。自動販売機だった。
「千尋くん……?」
どこかから聞こえたその声に、不思議と驚きはなかった。この暗闇だ。普通であれば幽霊に名前を呼ばれたくらいのことは想像しそうだが、そんなことはなかった。まるで、僕は彼女に導かれたように、あるいは彼女がそこにいることを暗に分かっていながらここに来たのかもしれない。
栞が、そこにいた。
自動販売機の取り出し口にもたれかかり、三角座りをする彼女を見てまず感じたのは疑問ではなく喜びだった。
「栞も、抜け出してきたの?」
「うん。同じ部屋の子たち、今夜は寝ずにお話しするんだって」
「こっちもだよ。ずっと話してる」
「へえ、部屋誰だっけ」
「平山と、片桐と、大和」
「なるほどね。千尋くんも話し疲れちゃったんだ」
「うん。なんとなく、一人になりたくて」
「あ、ごめんね。私がここに居たら一人になれないよね」
そう言って栞が立ち上がろうとするので、慌ててそれを制止する。代わりに、膝を抱える彼女の隣に控えめに腰掛ける。
「いや、いいんだ。誰かと一緒にいるよりは一人の方が気が楽だけど、一人でいるよりは栞といた方がいい」
「……そっか」
思い返せばとんでもなく大胆なことを言ってのけたものだが、僕も彼女も、小学校最後のイベントで浮かれていたのだろう。旅の恥はかき捨てだ。
「私ね。最近思うんだ。なんで千尋くんと友達になりたかったのかなって。それはたぶん、君にすごく憧れてたからなんだと思う」
「僕に?」
「いつでも一人で本に没頭する君が、正直言って羨ましかった。本当は、私だって全然社交的じゃないし一人の方が好きなんだよ。委員長をやってるのも、友達に薦められたからだし」
「でも、栞は友達と一緒にいても楽しそうに見える」
「もちろん、色んな子たちとお話ししたり遊びに行ったりするのは楽しいよ。でも、私は同じくらい、もしかしたらそれ以上に一人でいたいって気持ちもあったのかもしれない。むずかしい言い方をすれば、『孤独を共有できる相手』が欲しかったんだと思う」
当時は「孤独」という言葉の意味もよく分かっていなかったから、彼女の言わんとすることを完璧に理解はできなかった。成績優秀な彼女に見えているセカイが僕と決定的に違うことを残念に思った。分かりたかった。
「よく分からないけど、栞が望むなら僕はずっとここにいるよ」
「ふふ。ありがとう。千尋くんはやっぱり強いね」
強いとは何なのだろうか。僕に強さがあるなんて到底思えなかった。
「とんでもないよ。僕なんか、体も弱いし勉強もあんまりできないし、それこそ栞がいなかったら今頃友達も一人もできずに……」
「そこだよ。それが、君の強いところ。自分を責めることができるって、強いことだよ」
「そうなの?」
「だって、ほんとに自分が弱いと思ってたら自分のことなんて悪く言えないでしょ? 強い人じゃないと、きっとできない」
「そう……なのかな」
「うん。だから、君はきっと大丈夫だよ」
「……」
自動販売機の逆光で、栞の顔が見えなかった。
少しの間だけ沈黙が流れ、やがて近くの101号室から騒がしい声が聞こえてきた。クラスの男子達が枕投げを始めたらしい。僕はあきれたように呟く。
「まったく、バカだなあ。あんなに大きい声を出したら先生に気づかれるじゃないか」
「男の子って感じだね。そういえば、部屋ではどんな話をしてたの?」
「色々だよ。今日行ったところの感想とか、将来のこととか。僕が抜けたときは、ちょうど好きな女の子の話をしてたな」
「男の子でも恋バナするんだね。私の部屋の子たちも、2番目に好きな男の子の話をしてたよ」
「2番目? 1番目じゃなくて?」
「1番好きな人の話をすると、被ったときにまずいからね。2番目だったら気兼ねなく話せるでしょ?」
「なんだか、腹の探り合いみたいだ」
「実際そうだよ。男の子は1番目に好きな子を言うの?」
「いや、正確には男子は1番目に好きな子を、『強いて言えばちょっと気になってる子』みたいな言い方で名前を出すんだ。あくまで本気じゃないですよって」
「男の子は素直で可愛いね。ちなみに千尋くんも名前を出したの?」
突然の質問にドキッとしてしまった。確かに名前は挙がったが、あれは僕からではなかった。それに、栞に恋をする資格なんてないこと、僕が一番知ってるじゃないか。
「ううん。僕は何も言ってないな」
「つまんないよー。ちなみに、私の好きな人、知りたい?」
「えっ……」
顔が見えなくても分かる。今の栞は、すごく意地悪な顔をしている。僕が答えを出す前に、栞は息継ぎした。
「えっとね、松本くんだよ」
全身に走った緊張感は、一気に弛緩した。出るべき名前が出た、という感じだった。
彼女の言う松本くんとは、クラスで最も人気の高い男子で、サッカークラブでキャプテンをしているらしい。算数が得意で、いつも100点をとっている。栞と話しているところもよく見るので、噂では2人が付き合っているんじゃないかという噂さえ流れていた。
なんというか、嫉妬すら起こらないような人間だ。
「……そうなんだ。人気だもんね、松本くん」
「人気だよね。だって女子の恋バナで名前が挙がらないもの」
「え? なんで?」
「言ったでしょ、女の子は2番目に好きな人を言うの。だから、クラスで人気な人ほど名前が出なかったりするんだよ」
「ってことは、松本くんは2番目に好きってこと?」
「それは、内緒」
薄く笑う栞の息づかいを感じた。安心したような、謎が増えたような、おかしな心持ちだった。
次第に沈黙が増え、騒ぎすぎて先生が乱入した101号室から聞こえる怒声に2人で怯え、それすらも落ち着くと互いに部屋に戻った。とげとげするような、ふわふわしたような気持ちを抱えて未だに恋バナを続ける彼らの輪に再び加わった。
「なあ千尋、聞いてくれよ。平山の気になる人、あいつらしいぜ」
興奮した様子の大和が言う。
「意外だな。平山はもっと落ち着いた子が好みかと思ってた」
「さあ、これで3人全員白状したぞ。あとは千尋だけだ。もう分からないなんて言わせないからな」
わくわくした目で3人がこちらを見てくる。少しだけ息を吐いてから、僕は呟いた。
「そうだな、強いて言うなら、僕は……」
ちょうど、日付が変わった。
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