醜さを愛して

 2


 僕が栞に対して抱いていた感情は、一般的には「恋心」と呼んで差し支えないものだったのだろう。少なくとも、あの時までは。

 4年生の冬、僕は学校に行かなくなった。持病の悪化だった。

 アトピー性皮膚炎という皮膚病で、全身の肌がとても痒くなり、それを掻きむしると赤く腫れあがる。理由は分からないが、11月になって吹き付ける空気もひんやりしてくる頃だった。

 朝起きると首から血が出ていて、鏡でそれを視認した瞬間に異常な痒みを覚えた。かさぶたになった部分を引っ掻きたい欲望に駆られ、頭が熱くなっていった。

 掻きたい。気分も悪い。

 ただでさえ不気味な状態なのに、これ以上酷くしてしまえば人前に出られない。我慢しているとなぜか痛みさえ感じてきて、涙が出そうになった。

 結果、絵の具をぶちまけたパレットのような首でリビングに向かうことになり、ヒステリーになりかけた母親に病院連れて行かれた。

 オネエみたいな喋り方をする皮膚科医の話はまったく入ってこなかった。一定の周期で訪れる強烈な痒みが今まさに来るのではないかと終始不安だった。それに、病院など行ったところでなにも変わりはしない。ステロイドの量を増やされるだけだ。

 結局、母親は「薬で軽微化しても根本的に治らなければ意味が無い」と言って、診察料だけを支払って病院を出た。

 家に帰ってからも、定期的に訪れる痒みが辛かった。

 改めて家の洗面所で自分を見てみると、そこにはおぞましい獣がいた。一夜にして、自分が自分でなくなったみたいだ。開いた傷口は赤黒い液体がこびりついており、頬や額には掻いた跡も残って赤くなっていた。


 絶望していた。

 ただでさえ卑屈な僕だ。外見がいまさらどうなろうと、人の目が怖いのは変わらない。自意識過剰なんてとっくに知っている。でも、ただでさえ醜い外見がさらに悪化したなんて事実、受け入れられるわけがなかった。


 そうして、僕は不登校になった。


 はじめのうちは体調不良でもないのに欠席することを母親が容認せず、乾燥を防ぐワセリンだけ持たされて学校に行ってみたが、明らかにいつもより多く注がれる好奇の視線に耐えられず、挙動不審になってしまった。緊張して汗がだらだら出たり、歩く際に右手と右足が同時に出たりした。人の視線を気にして行動すると、むしろ余計に注目されてしまう。

 幸いにも、放課後の図書室以外では僕はあまり栞と話すことはなく、朝の挨拶や廊下ですれ違ったときに交わす一言くらいしか接点はなかった。けれど次第に図書室にも行かなくなり、栞と話すことはほとんど無くなった。もし向こうから話かけられそうものなら、意図的に避けていた。チャイムが鳴ると一目散に教室を飛び出し、急いで家に帰って、一人毛布にくるまって静かに泣いた。

 身も心も、限界を迎えていたのだと思う。2週間ほどで、僕は部屋から出られなくなった。

 朝起きて学校に行こうとすると、唐突な寒気に襲われる。布団に入って震えていると、次第に落ち着いてくる。存在しない人間の存在しない眼に見つめられる予感がして、吐きそうになる。

 アトピー性皮膚炎で見るに堪えない痛々しい容姿になったのはきっかけにすぎず、むしろそれによる精神的疾患の方が切実だった。何度も正体不明の悪寒に怯える僕を見て母親は本気で自律神経失調症を疑い、僕を別の病院に連れて行った。

 そんな母親の苦労も虚しく、僕の肌と心はいっそう悪化していた。




 転機が訪れたのは、不登校になって1ヶ月経った頃だった。

 うとうとしていた16時頃、インターホンが鳴った。こんな時間の来客は珍しかった。専業主婦である母親の友達が訪ねてくるとしたら、大体12時なので母親の客でもないらしかった。

 ただ、誰かが来たとて、僕には関係のない話だ。そう思って再度布団に潜った。

 母親がいつもより2オクターブ高い声で話すのを聞きながら、布団からはみ出した足をもぞもぞさせる。次第に階段を昇る音が聞こえ、部屋のドアが2度叩かれた。


「千尋、お客さんよ」


 オキャクサン、という単語を咄嗟に変換できず、つい反射的に「うん」と返してしまった僕は、開けられたドアの向こうにいた人物を見た瞬間に飛び上がってしまった。


「こんにちは」


 微笑と共に発されたその言葉に耐えきれず、瞬時に布団に隠れた。よりによって、一番会いたくない人間が目の前にいたからだ。


「小野寺さん、プリントを持ってきてくれたみたいよ。千尋もちゃんと挨拶しなさい」


 違う。僕は会いたくなんてなかった。あの時ほど母を憎んだことはなかった。


「……帰ってよ」


 ようやく絞り出した声で言えることはそれだけだった。


「千尋! せっかく来てくれた子に向かって……」


 母親が激昂してうずくまる殻を剥ごうとするので、必死の思いで抵抗する。そのうち、焦った様子の栞の声が聞こえた。


「お母さん、千尋くんも急なことでびっくりしてるだけだと思います。明日、また来ます」


 その場では誰よりも大人だった栞に言われてしまえば母親も諦めるほかないらしかった。


「ごめんなさいね、私からも言っておくわ。ありがとう」


 だが、栞が帰った後でも母親は何も言ってこなかった。きっと、僕に考える時間を与えてくれたのだろう。

 その日の夜、中途半端に目覚めたせいで眠れない僕はひたすらに自問自答を繰り返した。

 僕は誰よりも栞に会いたかったし、誰よりも会いたくなかったのだ。赤黒く染まった自分の首と顔を見つめて泣きそうになるのも、「化け物みたい」と怯えられるのが嫌だったからだ。こんな僕を、彼女に見せたくなかったからだ。ただでさえコンプレックスである自分の容姿が地の底についてしまったら、どうして会うことができるだろう。毒虫になったグレーゴルの気持ちがようやく分かった。


 明け方になってようやく眠れた僕は、夢を見た。

 どこからともなく救世主がやってきて、僕を助けてくれる夢だ。神様みたいなその人は、懐かしい匂いと共に僕の前に現れて、聞き覚えのある声で僕にささやく。


「君はもう大丈夫だよ。私がいるよ」


 そうして、救世主は僕に手を差し出す。救いの手だ。

 柔らかそうな手のひらに自分の手のひらを添えようとする。しかし、あと数センチというところで、僕の手は硬直する。その感情に至った回路は単純でもあったし、複雑でもあった。一見シンプルだけれど様々な言語化しがたい要素を巻き込んで、僕の頭に沸き起こった。

 固まる僕を見て、神様は悲しそうに笑う。夢は、そこで終わる。


 母親の「朝ご飯」と叫ぶ声で目覚めた瞬間、強い喪失感があった。何かを決定的に失ってしまったという感覚だけが異様に残っていて、けれどそれが何か具体的に説明できないもどかしさを抱えて僕は首を掻きむしった。

 ひとつ言えるのは、僕自身の臆病さとか、卑怯さとか、矮小さみたいなものが急激に形を成し、僕の心をすくいはじめた。

 窓から差し込む光がやけに神聖に見えた。


 次の日も、その次も栞は家に来た。初回の訪問以来、母親が2階に上がってくることはなく、基本的には栞がドアの向こうから話しかけてくるだけだった。一切の返答をしない僕に、栞は懲りずに他愛もない話をする。今日の給食が美味しかった、算数の授業が少し退屈だった、先生が些細なことで怒っていた……

 僕は物音をなるべく立てずにそれらの話に耳を傾けた。「栞と会いたくないという気持ち」を、「栞と話したい気持ち」が上回り始めるまで、2週間かかった。


 栞が毎日僕の家に通い始めて2週間経った金曜の夜、僕は唐突に涙を流した。なぜ泣いているのか僕も分からず、だんだんと嗚咽も我慢できなくなった。


「どうしたの? 千尋くん、大丈夫?」


 僕らを隔てる木の板の先から、焦った声が聞こえた。数秒間、すすり泣く声を響かせ、しょっぱい唾を飲みこんで言った。


「……ありがとう」


 きょとんとした彼女の顔が目に浮かぶようだった。


「よく分からないけど、よかった。どういたしまして」


「栞は、どうして毎日来てくれるの?」


「どうしてかぁ。考えたこともなかったな。たぶん、千尋くんだから、だと思う」


「……?」


 彼女の「はっ」という息づかいが聞こえ、矢継ぎ早に第2の理由が継がれた。


「も、もちろん先生にプリントを頼まれてるからっていうのもあるよ。千尋くんが来なくなって1ヶ月経った頃から先生に頼まれて私が来るようになったの。事情を聞いて、委員長である私が適任だと思ったみたい」


 なんだそういうことか、と納得した。そりゃそうだ。そういう正当な理由なしに僕の家なんかに来るわけがないのだ。大して失望もしなかった。むしろ「千尋くんだから」という不明瞭な理由よりもよっぽど分かりやすくて良い。危うく勘違いするところだった。


「でも、千尋くんじゃなかったら毎日来ないと思う。今日だって本当はプリントなんてないんだけど」


「え?」


「私もね、寂しいんだ。図書室で過ごすあの時間が、好きだったから」


 僕も同じだ。週に一回程度のあの時間に、僕はすくわれていた。それは間違いない。


「それに、千尋くんがいないと本の話をできる人もいないし。感想を言いたい本、いっぱいあるんだよ」


 衝動的に、体が動いた。気づいた時にはドアノブを握っていて、大げさなくらいに力をこめて右に回した。勢いよく開けすぎたせいで、ドアにもたれかかっていた栞は思わず背中から倒れた。

 驚きのあまり声も出ずに床に横たわった栞と、瞬間的に目が合った。見下ろす形になっていた僕はしゃがみこみ、吸い込まれそうな翡翠の目を見て言った。


「ごめん。それから、ありがとう」


 繰り返し発した言葉はいずれ陳腐になってしまうけれど、それでも何度でも言いたかった。

 それにしても、あんなに驚きと困惑を両の瞳に宿した栞を見たのは、後にも先にもあれだけだったかもしれない。


「大丈夫だよ、千尋くん。君は大丈夫」


 寝転んだまま、神様みたいに優しい表情で言った。


 *****


「別にそこまで酷くもないんじゃない?」


 首筋からあごのあたりまで見回した栞がそう言うから、信じられなくて鏡を見に行った。拍子抜けするくらいに、皮膚の状態は改善していた。じっくりと見れば何らかの異変が起こっていることには気づくが、遠目から見れば分かりにくいくらいにまでは治癒していた。


「分からないんだ。薬も使ってないし、不健康な生活しかしてない。なのに、いつの間にか良くなってる」


「それは、ここ最近のこと?」


「そうだと思う。それこそ、栞が来るようになって……」


 言いかけて、途中で気づいた。朝起きて血が出なくなったのも、床に散乱した皮膚片の量が明らかに減ったのも、ここ2週間くらいだ。

 そうだったのか、そういうことだったのか。


「信じられないよ。だって、この前までは自分でも見てられないくらいすさまじかったから。栞にだけは、見られたくなかった」


「開けてくれないのはそういうことだったんだ。でもね、仮に千尋くんの外見が今と変わってしまったとしても、私はずっと友達だよ。だって、中身は千尋くんに変わりないじゃない。それなら問題は無いでしょ」


 ニキビができたのを気にするのは自分だけだ。同じように、最初から自意識に操られていただけなのかもしれない。あるいは、栞なら僕が毒虫になってしまったとしても変わらず話をしてくれるだろうか。

 結局、僕は冬休みが明けると同時に学校に復帰した。皮膚は以前と変わらないくらいにまで回復し、痒みを感じることも少なくなった。母親も医者も驚いていた。

 すべて、僕の神様のおかげだったとだけ言っておこう。

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