空っぽチョコレート

ささささ

第1話 朝と黒猫

 はっと目を覚ます。


 鷲見すみれいは目を覚ます。立春を過ぎたというのに今日の朝は布団の中まで冷えている。残酷なもので布団の中にいても寒い、だが外に出てももっと寒い。背丈に若干サイズが合ってないのか指先が冷えている。結局は暦の上で春が来たというだけだ。


 気だるい体を何とか起こす。窓の方を一瞥してみると雪が降り積もっている。

冬の景色。

 

 その中に点々と学生たちが見える。鷲見とは違う学校の生徒だったのでもしかして遅刻しているのではないという焦りはすぐに消えた。学ラン姿の男子生徒たちは服装が真っ黒なのでよく見えやすい。

 女子生徒たちは心なしか普段より闘気を纏っている気がする。これもバレンタインデーという状況が彼女らに意識を持たせたのか、あるいはただ自分にそんなフィルターがかかってしまっているのだろうか。

 たぶん後者である。浮かれているだけである。


 窓を少し開けただけで外の冷気が入り込んでくる。窓を全開にして身を乗り出して、雪がかかるのも気にしないで、すぅっと口から息を吸い込んでみるとそれが肺の中いっぱいに満たされていく感じがする。なんだかおもしろい。自然の恵みを一身に受けている気がして今日の朝はいつもに比べて目覚めが良い。これからはこれが冬の朝の慣例となるだろう。


 すると鈴がなる音がした。かすかな音だ。嫌な予感がして窓からの景色をじっと見て予感が的中していないかを恐る恐る確認する。


 さっきと同じで別の学校の生徒たちが歩いているのが見えるだけ。車が数台走っていて、近所の老人たちが生徒たち話しかけている。


 うむ。平和で至極一般的な冬の情景である。何も心配することはない。

声に出して言い聞かせた。


 そう思った矢先に黒猫が目の前に現れた。本当に目の前である。ここは二階だというのに。

 黒猫は顔にしがみついて離さない。咄嗟にひょうきんな声を出しながらそれを投げ払おうとしたが、あまりに突然の出来事だったので足元に合った教科書の束に踏み入れてしい、体が錐揉みしたかのように捻り、ドンと嫌な音を立てた。

痛い。背中がジンジンする。嫌な予感が的中した。

 そのまま一分くらい背中をさすっていた。幸か不幸かその一分ほどで体はいつも通り(少しは痛みがあるが)に戻った。


 いつの間にか黒猫はいなくなっていた。窓を開けたままにしておいたので部屋の中に雪やなんやらが入ってしまっていた。そこに猫と足跡みたいなものが薄っすら残っている。


 あの黒猫に遭うといつもこうなる。必ず自分の身に不幸もとい転機が訪れるのだ。

俺が幼少期の頃からあの黒猫とはなにかと縁があった。首輪とそこに鈴がつけられているので元は飼い猫だったのだろう。これだと玲二が見かけたときからそれはつけられていたので少なくとも十年以上はつけたままということになる。今も飼い猫で誰かが時折世話をしてくれているのか、猫というものは放し飼いしていても案外心配ないものだし。と思ってもいたが、今は猫が周りに人がいない時には二足歩行で言葉を操り、自分自身にいたずらを仕掛けていると考えている。

 それほどまでにあの黒猫が現れるとその日に想像していなかった展開が訪れるのだ。


 とは言ってももちろんあの黒猫もただの黒猫だ。

見た目には何の変化があるわけではない。同級生が幸せそうにじゃれあっているのを遠目に見て、遠回しにあの黒猫の悪口を言ったら「玲二は余裕がないんだよ」と返された。


 そうただの黒猫だ。

 しかしそれでは自分自身に起こる数々の出来事は何だったのか。


 そう思った時にある考えが浮かんだ。ただの黒猫ではなく自分にとって意味のある存在にするための方法が一つ思い浮かんだ。


 名前を付けてやったのだ。

 その黒猫の名はユピテルと名付けた。ユピテルとはローマ神話の主神、ギリシャ神話のゼウスのことである。因みに英語読みではジュピターとも呼ばれる。ユピテルは本来天空の神で雷などの天候に関する神なので、天候から天気、天気から転機、とあの黒猫が自分にとっての転機的な存在であることを示すために無理やりに意味を持たせた。実際には転機というより不幸の方が近いが。


 さっきのドンという音を聞き、今更かと思うが妹のりんが様子を見に来た。

 部屋の戸を少しだけ開けて、その隙間から訝しげな顔をしながらこちらを覗いている。中学三年生のためまさに受験まで目前という時期なので自分もそれなりに注意を払って家では生活しているが、さっきの音と床でうろたえている音が向こうに響いたのか気に障ってしまったらしい。


「……何?さっきの音」

 目を細めて床に座っている俺を見ながら言う。

「いやあ、あのユピテルが突然目の前に出てきてさあ」

「えぇ本当!お兄ちゃん今日はバレンタインデーなのについてない日になるかもね」

 なんだか小馬鹿にしたような言い方をする。

 顔にしわが寄った。


 倫子はユピテルという超人的な存在を信じている。猫なので超人ではないかもしれないが。


 先ほど説明した通りユピテルは自分以外にとってはただの黒猫であり、そこらの猫と何ら変わりない。しかしどうやら鷲見家の者にはユピテルとして転機を運んでくるようだ。倫子も実際にユピテルに遭った日には肩が重くなるらしい。

そこから色々と気になりだし親にもユピテルのことを話すと父母どちらもユピテルについての苦労話を話してくれた。


 母は、父と結婚する前は普通の父の周りによく見かける黒猫として見ていたそうだが、結婚した頃からユピテルとしてちゃんと見るようになったらしい。これでは鷲見家を呪う邪神だ。

 父については玲二と同じく幼少期から他の猫と識別していたらしく、今の俺と同様のことを俺の父方の祖父母に聞いていたらしい。

 猫の寿命は十五年が平均らしいので、祖父母が見ていた個体と同じであることはないだろうが、祖父は俺がユピテルと名付け、見かけた日は散々だと話したら、「ユピテルは長生きしとるんやなあ」と言われた。なんだか本当に長生きしているように思えた。

 また倫子の話によると倫子の同級生の友達にもユピテルを信じている者がいるらしい。転校生で、ユピテルについて騒いでいる倫子の話を興味深々に聞いているうちに意気投合して仲良くなったとか。

 名前は何だったかなあ……。かし、とかだった気がする。


「そんなこと言って、受験の日に出たら知らないぞ」

 倫子の下卑た顔を何とかしようと思って言ってみる。

 すると倫子の顔がすっと無表情になって目が半月切りの人参みたいに鋭くなっていた。ドアノブに手をかけてすぅっと戸を引いて部屋から出ていったが、戸が閉まりかけた時ドアノブを強く引っ張って音を立てて出て行ってしまった。


 売り文句に買い文句ということで言い返してみたが少々気に障らさてしまったようだ。この時期には無神経だったかもしれない。後で謝っておこうかと思ったが必要はないだろう。案外そういう子だ。

チョコも貰えるだろう。


 楽観的でなんにでも寛容というわけではなく言い過ぎてしまったのだろうとわかり、反省しているなら特に気にしない妹である。そこそこ賢い。まあ、謝罪は必要ないとか考えていることすら気づかれれば話は別だが。

 チョコは貰えないかもしれない。


 顔を洗って着替えているときには倫子はもう学校に行った。倫子と同じ中学校に通っていたのでかつては毎朝六時頃には起きていたはずなのだが今では遠い記憶の彼方にある。倫子が俺と同じ高校に入学すれば今の朝は同じく彼方に見送ることになるだろう。


 食事を取る。制服は学ランで家の中くらいゆとりのある格好をしておきたいのだが、母が「玲二は遅いから」と言って後回しにしていた。


 朝食を終えて直ぐに歯を磨く。急がないと電車に間に合わない。


 玄関から出る。家の中には暖気が漂っていたので外はいつもより寒く感じる。

 起きた時やったみたいに口から冷気を吸ってみたが歯磨き粉のスースーした感じが残っているので口内が少しピリッとした。

 白い息が視界を覆った。

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