第10話 出会い
午後四時の鐘の音がフレデリックの城から聞こえる。と同時に自分の白い馬にまたがり城の下手にある森へとフレデリックは駆け出していた。何も考えず馬が疲れるまでまっすぐに下るとそこは誰にも手をつけられていない森の中へと続いていた。鬱蒼とした森の中にはいると少し湿った空気が鼻を湿らせてくれる。日の光も木漏れ日のように降り注いでいる。踏みしめられた細い獣道を道なりに慣れた仕草で頭上の木の枝を片手で振り払いながらフレデリックはゆっくりと進んで行った。森の中には周辺が木立に覆われた小さな湖がある。湖の上には丸く切り取られたような夕刻の空が広がっている。その場所に馬を止めて座り誰もいない静寂さを感じている時がフレデリックにとっては一番落ち着けるひと時であった。悲しい気持ち絶望的な気持ちそんなものしか味わったことの無いフレデリックだったがそこを訪れるとほんの少しだけ一条の光が差し込んでくるような自分でも不思議な静寂さを味わうことが出来たのだった。今はほんの少しでいい。日が落ちる前にあそこでその気持ちに浸りたいと切望し森の中を進んで行った。
森の中に着いた時かろうじてまだ日は昇っていた。
(あと少ししか時間は無いな。)
そう思い馬をつなぎかけた瞬間ガサガサっとフレデリックの左後ろの木立が動いた。とっさにフレデリックは銃を構える。と次の瞬間一匹のウサギが飛び出してきた。ほっと胸をなでおろしたと同時に同じ茂みから銀色の髪の少女が飛び出してきた。少女の顔を見たとたん「あっ!」と声にならない声をフレデリックは自分の中で押し殺した。少女は今日フレデリックがずっと見続けていた壁の天使像にそっくりの面差しをしていたのだ。
少女は銀色の髪を高く結い上げ白い花を耳元に飾っていた。着物は舞の衣装なのだろうか天女の羽衣のような白く軽い衣を身にまとい薄紫色の生地に金糸銀糸の刺繍が施されキラキラと輝く帯を腰に巻きそこへ舞扇をさしていた。少女も驚いた様子だったがすぐにまっすぐにフレデリックの目を見ると
「驚かせてしまってごめんなさい。」
と言い少しかがんでお辞儀をしながらゆっくりと微笑んだ。溢れるような光がその微笑から零れ落ちるようにフレデリックは感じていた。全ての時間が止まり今日見た壁の天使が自分のもとに舞い降りてきてくれたのかもしれない。現実にはありえないことと頭のどこかでは解っていながらそう信じてみたいフレデリックは初めての自分の感情に戸惑いと恐れを同時に抱いていた。
「そなたは・・・」
やっとのことでフレデリックの口をついて出た言葉だった。少女は臆することなくフレデリックに歩み寄りビロードの花びらのような薄桃色の唇から流れるように言葉を発した。
「旅をしながら舞ををみせている者でございます。紫音ともうします。」
そう言って微笑みながらフレデリックをまっすぐに見つめる紫音の薄紫色をした瞳はこれまで周りにはいなかった人の温かさをフレデリックに感じさせていた。
「もう踊ってまいったのか?それともこれから・・・?」
「はい。すでに村の広場で踊ってまいりました。たいそうな賑わいで皆とても楽しんで・・」
紫音の言葉をさえぎりフレデリックが続ける。
「私にもそなたの舞を見せてはもらえぬか?」
紫音は一瞬驚いた表情をしたがすぐにゆっくりとうなずくと舞扇を手に取った。
「音楽はございませんが私の歌だけで舞いとうございます。」
夕暮れから一番星が空に輝き始める時刻へと移り変わっていた。フレデリックは芝生の上に腰を下ろすとじっと紫音を見つめた。舞扇を広げると同時に紫音の歌声が天高く響き、肩にかけていた薄ごろもがふわりと紫音の体の周りに浮かんだ。
恋いし愛しあの人を
夢見て今宵も幾千里
追うて駈けて行けどもや
姿は今宵も夢に消ゆ
どれほど思いをはせれども
叶うことなきわ我が思い
月明かりがスポットライトのように紫音の舞う姿を白く照らしている。紫音がくるりと回ると瞳が月明かりに銀色に光るそれを追う様に舞扇がヒラヒラと舞い落ちる。
(夢幻の世界とはこのことなのだろうか。)
夢とも現実とも付かない境地をフレデリックは味わっていた。紫音が舞い終わるとフレデリックはすぐには立つことが出来なかった。しばらくしてやっと我に帰ったように微笑んだ。
「すばらしい舞であった。」
そう言ってゆっくりと立ち上がると紫音の方へ歩み寄った。
「礼を言うぞ」
フレデリックは少女の手をとった。その手に触れたとたん先ほどまで暖かくフレデリックを見てくれていた紫音の瞳が曇りつないだ手をそっと解いた。
「あなたさまは・・・」
と言いよどむ紫音の姿にフレデリックは言い知れない不安を感じた。
「どうしたのだ?私が・・・どうだと言うのだ?」
紫音はためらったような表情をみせうつむいた。
「どうした遠慮することは無い。申してみよ。」
紫音は面を上げるとフレデリックにその眼差しを向けた。その瞳には今にもこぼれそうな涙がたまっていた。
「あなたさまはずっとこれまで・・・ひとりぼっちでいらしたのですね。」
フレデリックは差し出していた手を降ろした。驚きというよりも衝撃が胸のうちを走る。誰にも言われたことが無かった一言が一番言って欲しかった一言。今まであきらめていた溢れる感情が胸の奥底から湧き出てくるような苦しい気持ちが渦をなしてフレデリックの中で交錯していた。フレデリックは思わず一歩紫音の方へ歩み寄った。その瞬間紫音がすっと後ずさる。と同時に後ろの茂みから黒鷹が飛び出してきた。
「紫音!」
と叫ぶと黒鷹は紫音の前に楯のように立ちはだかり左手で紫音をかばいながら自分の剣に右手をかけた。思わずフレデリックも後ろへ飛び去り銃の方へ右手を乗せる。すでに天高く上った月が二人をこうこうと照らし出した。その月明かりの元対峙する二つ影が長く湖の方へ延びている。
黒鷹は相手の高貴な服装と赤黒い半面あざの特徴からすぐにフレデリック太子ではないかと気が付いた。
(まずい!)
咄嗟の判断で黒鷹は剣をおろし自分のマントの中に紫音を抱えこむようにようにして二人ともどもフレデリックの前にひざまずいた。かがみこんだままの姿勢で黒鷹は言った。
「服装から高貴なご身分の方とお察しいたします。私どものようなジプシーがご無礼な態度をとりましたことお許し下さい。この者は未だ幼く世情を解っておりませぬ。ご無礼がありましたことをどうぞご容赦願いましてお捨て置き願えませぬでしょうか?」
そこまで言うと面を上げフレデリックの目をまっすぐに見据えた。黒鷹の漆黒の瞳が月明かりに照らされ真剣のようにフレデリックに突き刺さってくる。フレデリックも右手を銃からはずすと黒鷹をまっすぐに見つめた。いいような無い悔しさとねたみがフレデリックの心の底から沸きあがってきた。かばってもらっている少女に嫉妬しているのか?少女との話をさえぎったこの少年を妬んでいるのか。自分でもわからないくらい激しい感情が一気にわきあがってくる。やっとのことでフレデリックが口を開けることができたのは継承者たるものという唯一プライドの支えによるものだった。
「舞を見せてもらったまでのこと無礼ではなかろう。よければ我が城までそなたらを呼びたて褒美を取らせるがいかがか?」
黒鷹がフレデリックをまっすぐに見据えたまま続ける。
「いえ。このものの舞に対するお情けがございましたら本日のことはご内密にお見捨ておき願いとうございます。高貴な方との許可の無い接触は罰せられる掟。あなた様がかばってくださったとしても公に知れることとなればあなた様がご存じないところで後々官僚の方々に我らが捕らえられることは必須。」
黒鷹のもっともな説明にぐっと息を呑みフレデリックは続けた。
「よく世の仕組みがわかっておるようじゃ。この少女の舞のすばらしさに免じてそなたの申す通りにいたそう。見つからぬうちに去るがよい。」
「ははっ。お情け感謝いたします。」
黒鷹が深く頭を下げると次の瞬間紫音をマントにくるんだまま抱え込みきびすを返し茂みの中へ飛び込んだ。あっと言う身のこなしの早さにフレデリックは驚くがすぐさま追って茂みに入ったときにはすでに二人の姿は見つけることが出来なかった。
フレデリックのひとつだけになった影が湖面にゆらめいて細く長く映し出されていた。
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