play("record_02/噛み合わない記憶と記録");
異変が起きたのは、半年が経過したころだ。
路地裏。満月の光が差し込まないような雑居ビルの間にも、この街の青いネオンの光は遠くから降り注ぐ。
鶴のような形をしたバグたちを倒したリディアは、薄暗闇の中でアデルが呆然と突っ立っているのを見た。彼女は今のバグ退治で少し危ない目に遭った。嘴で肩口を突かれたのだ。普通の鳥ならただの怪我で済む問題だが、バグに関しては違う。ほんの少しの接触でも己の存在に関わってしまうのだ。負傷したアデルを下がらせて敵はリディアが請け負い、その間に治療をするよう勧めたのだが。
「……先輩?」
呼びかけるが、反応がない。普段、こういった声掛けに対する応答が明瞭なだけに、その様子は不安を誘った。
「どうしたんですか? なにか、異常がありました?」
不安に上擦らせながら駆け寄ると、
「ああ……カラスちゃん……」
肩に触れられてようやくアデルは反応した。ぼうっとした様子で顔を上げて、虚ろな青い目でリディアの赤い瞳を見下ろす。
「大丈夫だよ。怪我、ないみたいだ」
「本当ですか? 一応、診てもらったほうが良くないですか?」
だが、アデルの反応は鈍い。了承も拒絶もすることなく、ぼんやりと表の道路を見つめていた彼女は、おもむろに顔をあげてリディアを見た。
「ねえ、カラスちゃん……」
「はい?」
じっとアデルの言葉を待つリディアだったが、
「……やっぱりいいや。なんでもないよ」
そう首を振って、アデルは先にアカシャ・タワーに戻ってしまった。
その後も、アデルの調子は戻ることはなかった。あれだけ闊達としていたというのに、他人と交流することをせず、ぼうっとして立っている姿を見ることが多くなった。それでいて、時折なにかに取り憑かれたように動き出しては、苛立ったり混乱していたりする。
バグ退治についてもそうで、どうにも集中できていない。なにを迷っているのか戦闘中でも動きを止めることもあるし、魔法をミスすることも多くあった。
明らかに尋常ではない姿に、リディアも心配になる。
「先輩、ホントどうしちゃったんですか?」
バグに襲われかけているというのに立ったまま動きもしないアデルを助けた後、リディアは彼女に詰め寄った。なにかに悩んでいるのは分かっていた。勝手に踏み込むのもどうかと思うが、このままでは本当に生死に関わる。いい加減相談してくれ、とリディアは訴えた。
「ねえ、リディア。あんたは自分のこと、思い出せる?」
あまりに奇妙な質問に、リディアは訝った。記憶喪失ならいざしらず、普通自分のことを忘れることなんてまずあり得ないだろうに。
「そりゃあもちろん」
「本当に? 両親のことも、友だちのことも? みんなきちんと思い出せるの?」
「当たり前でしょう。父親の名前はランドール。料理上手で家庭的な人です。母親はエレナで、前に魔女をやっていました。私の目標です。兄弟はなく、私は一人っ子。学生時代の親友の名前はエミィで、お裁縫が得意なんです」
「そうじゃなくて!」
つらつらと喋るリディアを強い言葉で遮って、アデルは激しくストロベリーブロンドの頭を振った。
「いや、そうなんだけど。そういう情報とかじゃなくてさ――」
けれど、彼女はそこで口を閉じてしまった。もどかしそうなその顔は、泣き出しそうにも見えた。
「わたし……私がおかしいの? すごく馬鹿げたことを言っているのか? でも、それじゃあ……」
頭を抱え、絞り出すような声を上げてから、アデルはリディアを力なく振り払って廊下を去っていく。アデルの様子に戸惑ったリディアは、為す術なく彼女を見送った。
それが、アデルを見た最後だった。
アイゼンは、ただ一言、アデルが魔女をやめた、とだけ告げた。理由もなにも語らなかった。自分の意志でやめたのか、アイゼンをはじめとしたお偉方にやめさせられたのか、それすらもわからない。
リディアは、最近のアデルの様子の報告も含めて、アイゼンに理由を問いただしに行ったのだが。
「答える気はない。捨て置け」
銀色の長髪の監督主任は、そう冷たく言い放った。
「役目を果たさない魔女にかまける必要はない。お前はお前の役目を果たせ」
そう言ってリディアを追い払うアイゼンは、アデルのことにまるで関心がないようだった。素っ気ないなんてものではない。まるでもう、この世にいない人間の話をしているような、そんな印象をリディアは受けた。
いくらアイゼンが見た目通りの冷たい人間だとしても――それでも、仮にも部下だった人間のことだろうに。
上司に話しても埒が明かない。そう判断したリディアは、ここ最近のアデルの様子をもう一度振り返った。自分になにか言い残していたりはしないか、と思ったのだ。
思い出すのは、不可解な問い掛け。
――自分のこと、思い出せる?
――両親のことも、友だちのことも? みんなきちんと思い出せるの?
「あれはいったいどういう意味なんだろう……」
当たり前のことを尋ねるアデルの真意が解らなかった。
リディアはもう一度家族のことを思い浮かべる。両親の名前。親友の名前。父は憧れで、母はリディアの目標で、親友は――。
「あ、れ……?」
名前は思い出せるのに、他のことが思い出せないことに気がついた。例えば、父との会話。母に憧れたきっかけ。親友との楽しい日常――。
魔女になってからの日々は、一部始終を思い出せるのに。
「まさか、先輩が言っていたのって、これ……?」
家族のこと、友人のこと。自分の人生を形成する大事な人たちのはずが、単なる記号のように感じられ、その存在感もまるでなくなってきてしまっている。そしてそれは、自分自身の輪郭さえも曖昧にしていった。
突如生まれた、拭いきれない不安感。
アデルが感じていたものが、これだとしたら。
不安に駆られて、リディアは自分自身のことについて調べはじめた。両親の経歴。通っていた学校。だが、両親は実在していても、彼らの間に子どもは存在していなかったし、学校の生徒名簿に自分の名前はなかった。友人のエミィの写真はあったが、知った顔なのに知らない人間のような印象を受けた。
「そんな、ばかな」
噛み合わない記憶と記録。
まるで、自分の周囲が幻でできているような。
それでいて、世界から自分だけがぽっかりと抜け落ちてしまっているような。
そんな不確かさが、リディアを不安定にしていった。
「私が、おかしいの……?」
呟いて、それがかつてアデルが呟いていた台詞であると気付く。
「先輩は、どうなったんだろう?」
浮かび上がった疑問。そこに正解があるような気がして、今度はアデルのことを捜し始めたが。
「アデル・オウルのことは捨て置けと言ったはずだ」
リディアの行動からなにかを察したのだろう、アイゼンが釘を刺しにきた。リディアがあの白い部屋に呼び出されているため、リディアのほうが釘を刺されに来た、という感じだが。
「……何故ですか」
「魔女は魔女の役目を果たせ、とそう言ったはずだ。いなくなった魔女のことなど、気にかける必要はない」
あまりに冷たい物言いに、リディアの眉が顰められる。本当にアデルのことはどうでも良いのだろうか。――それとも、アデルのことを探られると不都合の悪いことでもあるのだろうか?
「……では、自分のことは? 私の過去――記憶と記録がちぐはぐな理由をご存知ですか」
「アデル・オウルに妙なことを吹き込まれたか……」
鉄仮面のようだったアイゼンの表情が苦々し気に歪んだ。リディアに対する煩わしさと都合の悪さ。それらが混ぜ合わさったような表情だ。
「お前の過去については、お前がよく知っているはずだ」
「……どういう意味ですか?」
煙に巻くような発言に問い返すが、アイゼンは心当たりがないなら良い、と取り合わない。
「とにかく、余計なことは考えず、バグ退治に専念しろ。さもなければ、お前も、アデル・オウルと同じ道を辿ることになる」
黒い眼差しが、リディアを射抜く。牽制の意味が籠ったその眼は、ナイフのような鋭さでリディアを役目に縫い付けようとしていた。
しかし、リディアはそんなアイゼンの視線を振り払い、その日、
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