第36話 温もり
そう言って、メレンケリは彼と別れると建物の外へ向かう。
時刻は午後八時を回っており、空は既に暗く星が瞬いていた。『石膏者』だけの仕事だったときは、もっと明るいときに帰ることが出来ていたが、グイファスの監視役になってからは、日が完全に落ち切ってから帰る日が続いている。
昨日まではそれがとにかく嫌で仕方がなかったが、今日はその気持ちが薄れている。
(帰ろう)
メレンケリは、ゆっくりと歩き出す。その歩みは、いつもよりも数倍軽かった。
軍事警察署から離れ、明かりが煌々としている街中を歩く。普段は、気持ちがそちらに向かなかったが、今日は
メレンケリの帰り道には、飲食店が多く立ち並び、その多くがテラスを設けていて、外で食事を楽しんでいる人々の姿が目に映った。
家族と夕食を共にする人。恋人と会話を楽しむ人。友人とエッラ(ビールのこと)を飲み、何かを語り合う人。
秋の寒空の下であったが、それを感じさせない。それは色々な人たちが、誰かと一緒にこの時間を楽しんでいるからだろう。
「……」
メレンケリは立ち止まると、少しの間だけその様子を眺める。すると不思議と今日のことが思い出され、胸がほわっと温かくなるのだった。
彼女は再び歩みを進め、丘のふもとへ来ると、自分の家を見上げる。きっと母が夕食を用意してくれているのだろうが、彼女と共に席に着く者はいない。
彼女の家では、リフィルとトレイク、妹のスミナルは食事を共にするが、ガイスとメレンケリは一緒には食べない。同じ時間帯で食事をとる場合は、別のテーブルで食べるのが暗黙のきまりとなっていた。
家族の間でも、右手の力について気を付けているのだ。それなのに彼は、戸惑うことなくメレンケリの手を掴んだのである。
メレンケリは徐に自分の両手を広げてじっと見た。
(誰も恐れて触れてこなかったのに……)
メレンケリはまだドキドキしていた。グイファスが自分の左手首を
彼女が石にする力が宿るのは右手だけ。
だが、「触れられたら石になる」という認識だけある人たちは、彼女に触れようとは決してしない。それはマルスも例外ではない。
(家族も危ないからと、私には触れない。唯一、妹だけは私に触れようとしてくれていた)
だが、それを見ていた父が注意し、妹も彼女に触れることはなくなった。
(人肌を感じたのなんて……、私が記憶にある中で初めてじゃないかしら……)
家族で抱きしめ合うこともなければ、人と握手をすることもない。
人々はいつもメレンケリと一定の距離を保っていて、近づくことはない。
そして大体人肌に触れるときは、決まって「誰かを石にするとき」である。そのときの人肌というのは、あまり記憶に残したくないものである。
恐怖に飲まれる人の肌というのは、汗でぬめりとしていて、ひんやりと冷えている。そしてまるで自分の身を守るかのように固い。そういう肌と言うのは触れても気持ちがいいものではない。
(でも、あの人の手は違っていた)
左手首を触ったときの手は、固くて乾いた手だった。大きくて、温かくて、優しい。そして手袋越しに右手を触ったときの手も、同じように温かかった。手袋越しに伝わってく体温。それはメレンケリが右手で初めて触れた、恐怖心のない手だった。
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