『ササキさん』

さくらぎ(仮名)

『ササキさん』

 六年ぶりの教室。僕はその後ろ――入り口の引き戸から入って左側――の掲示板まで速足でくねくねと歩いて行って、そこに貼られたクラス名簿から自分の名前を探す。

 あった。僕の名前。

 僕の名前はあったが、肝心の座席表が無い。

 ふと振り返ると、みんな机で色んな形の「島」を作って、好きな席に座って談笑している。

 ――あ。

 空席がある。

「ぁの、ここ空いとる?」

 僕はその隣の席に座るサカエくんに聞く。

「空いとるよ」

 サカエくんは応える。

「ありがと」

 僕はお礼を言って席に着いた。



 僕は首だけを動かして、教室の中をきょろきょろしながらそわそわする。

 でも誰も何も言わない。

 まるで僕が最初からここに居たかのように、相変わらず談笑しながら先生が来るのを待っている。

 突然ガラァッ!っと音がして、僕が入ってきたのと同じ引き戸が開いて、先生が入ってくる。

 細い黒縁の眼鏡をかけた、カエル顔の男の先生。

 名前はサコハタかサカハタか――たぶん前者。

「おぉ〜ぅし授業はじめるぞ〜〜」

 と、ガニ股のサコハタ先生は皆の顔を見ながら言う。

 みんなはざわざわ言いながら自分の席に着いた。



 授業と言っても、全員が自分の席に座って、各々が持ってきた本を静かに読むだけの時間で、うさぎが主人公の児童書を読んでる奴もいれば、ハードカバーの長編推理小説を読んでる奴もいる。

 サコハタ先生も教卓で本を読んでいる。

 有名なコーヒーチェーンのCEOが『成功する人の心構え』みたいなものを著した、いわゆる自己啓発本。

 僕もこの前借りて読んだ。

 自己啓発本はなんだか胡散臭くて滅多に読まないけれど、でもあれは中々面白かった気がする。

 だから新品で一冊買おうか、今も迷っている。



 「読書の授業」が始まってもうどれくらい経ったか分からないけれど、コロコロコロ……と音がして、僕とサコハタ先生が入ってきたのと同じ引き戸がなんだか申し訳無さそうに開いて、

「すぃませぇ〜ん……遅れましたぁ〜...」

 同じくらい申し訳無さそうな顔をした女の子が、引き攣った笑顔でのろのろと教室に入ってくる。

 サコハタ先生は見向きもせずに読書を続けている。

 皆も目の前の本に釘付けになっている。

 僕は女の子を目で追う。

 その子は僕みたいに座席表を確認することはせず、申し訳無さそうにすり足でくねくねとこちらへ歩いてくる。

 ふと、僕の視線は左を向いたまま止まる。

 ここにもひとつ空席があった。

 さっきは自分の席ばかりに気を取られて気付かなかったけれど、僕のすぐ左隣にもひとつ空席があって、女の子はそこに座った。

 僕は女の子の爪先から髪までをすぅーっと眺める。

 背は僕よりも頭ひとつ分低くて、顔も小さくて幼い。

 瞼くっきり二重で、綺麗な形のアーモンドアイには長いまつ毛を湛えていて、焦げ茶色の綺麗なロングヘアは脇くらいまで伸びている。

 なんだかまるでお人形さんみたいだ、と僕は思った。

「ぁの、…………名前、なんてゆうの?、かな」

 僕は唐突に女の子に聞いて、自分でびっくりする。

 なんか恥ずかしい。

 周りの奴らの視線も気になるけど、もういいや。

「へ? ぁ、私? ……ぅ、ササキです。ササキ・ナナミ」

 と、ササキさんはちょっとびっくりした様子で(当然だ)、しかし何拍か置いて名前を教えてくれた。

「ササキさん。よろしく」

 僕はちょっと嬉しくなって、でもまだちょっとぎこちなく返す。

「ん……よろしく」

 ササキさんもなんだかぎこちなく、でもにこやかに返してくれる。その後鞄から本を出したけど、本屋さんのレジで貰えるカバーが掛かっているから何の本なのか分からない。サイズ的に、文庫本だろうか。

 ササキさんは口を横一文字にくっと結んで、めちゃくちゃ真剣な顔でそれを読んでいる。眉間に少ししわが寄っているからなんだか怒っているように見えるけれど、たぶん無意識なんだろう。

 僕は自分の本に視線を戻す。Kという日本の超有名作家が著した、辞書みたいに分厚い新書サイズのファンタジーSF小説。ついこの間買った本で、控えていた二十冊の積ん読本をようやく読み終えたばかりだったから、楽しみにしていたのだ。

 でも続きの一文が全然頭に入ってこない。僕は本を閉じてまたきょろきょろそわそわして、また本を開いて同じところを読むけれど、やっぱり全然頭に入ってこない。

 僕はパラパラ漫画の要領でその辞書みたいに分厚い小説の隅をめくってはまためくり、まためくってはまたまためくりしていた。すると突然左側からガタン!と音がする。ササキさんが立っていて、さっき遅れて入ってきた引き戸の方を一瞬見たかと思うと一目散に駆け出した。

 サコハタ先生は見向きもせずに読書を続けている。

 皆も目の前の本に釘付けになっている。

 僕はパラパラめくるのを止めてササキさんを目で追う。

 彼女はお花を摘みに行こうとしている。僕はそう直感して、思わず席を立つ。今ササキさんに言わなければ、なんだかもうササキさんとは友達になれず終いのままでこれからの学校生活を送ることになる気がする。嫌だ。それは絶対に嫌だ!

 僕はササキさんが駆けて行ったのと同じところを駆けて廊下に出た。あたりを見回すと、ササキさんは今まさにトイレに入ろうとするところで、僕は待ったをかけるように大声で呼びかけた。「ササキさん!!」


 ササキさんは足を止めて、黙って僕の方を見る。

 僕は悪い魔女に睨まれたみたいにキュッッと直立の姿勢になる。僕もトイレに行きたくなってきた。

 ササキさんは僕に向かってすたすた歩いてくる。

「……何?」

 聞かれて、僕は頭が真っ白に沸騰する。

 言うのだ。さあ。

 さあぁ。

「ぁ、あの…………」

 ササキさんはさっき本を読んでいた時と同じ顔で僕を見て、黙っている。

「ぼ、僕と……」

 やばい。

 僕もトイレに行きたい。

 行きたいけど、目の前にはササキさんが立っていて、それは他でもない僕が呼び止めたからで、だから押しのけて行くなんてできないし、かと言ってこのまま震えているのもよろしくない。

「どーしたん?なぁ、顔色――」

 ササキさんが言い終わる前に、僕は言った。

「ぼくと、ともだちになってください!!」



 ササキさんは笑った。

 まるでお人形さんみたいに。

 それから―――――――――沈黙。

 床には水溜り。

 それを見て僕も笑った。

 まるで泣く直前みたいに。

 二人してぺたんと座り込む。

 僕の脚とスラックスがびしょ濡れになって真っ黒になる。

 ササキさんの脚とスカートもびしょ濡れになって真っ黒になっている。

「ふっ……!あはは」

 どちらかが、そんな風に笑った。

 廊下には誰もいない。

 教室からは誰も出てこない。

 なぜなら教室には誰もいないからで、この世界には僕とササキさんのふたりだけ。

「…………あの、さぁ」

 笑ったまま、ササキさんは僕を見て言う。

「うん?」

 僕はササキさんと目を合わせる。

「ナナミ、って、呼んでくれへんかな」

 僕はアホみたいにぽかぁんと口をあけて、黙っている。

「な、……ええやろ。ササキさん……よりは、ナナミ、の方が、落ち着くの。ナナミ、って……呼び捨てで」

 ササキさんはゆっくりとそう言う。

「ん。分かった」

 僕は応える。

「ナナミ」

 僕はその名前を、はじめて呼ぶ。

「ん。ありがと!」

 ナナミはきらきら笑う。

 びしょ濡れなんてどうでもよくなるくらい、その笑顔は眩しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『ササキさん』 さくらぎ(仮名) @sakuragi_43

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ