今日のくぅちゃん

@nozeki

第1話

風に乗って、馬たちの走る音が聞こえる。

一緒に、人間たちが手を叩く音もかすかに聞こえる。

ここに来てからこれが二回目。

お水もご飯も牧草もないけど、不思議と落ち着いていられてる。

「そろそろかな?」

体重も量ってもらったし、体の検査もしてもらった。

たぶん、もうすぐ先生たちが鞍とゼッケンを持ってやってくる。

この間の試験の時もそうだったから。


「せやなぁ。気持ちの準備はもうでけとるやろ?」

馬房の壁から声がする。

「大丈夫。いつでも行けるから」

「それ聞いて安心したやで。準備出来てへんかったらパドックで慌てることになるやで」

「それはないかなぁ。……壁のおじさんにいっぱい教えてもらったからさ」

「せやったやで。だいぶ話して聞かせたもんなぁ」

「うん、おかげで小林に来るのも大井に来るのも怖くなかったもん」

おじさんは時々こうして話をしてくれる。

わたしがうんと小さいときからずっとそう。


「せや、パドックにはお客さんがようけおる。『みんな』も来てるはずやで」

「じゃあ、なおさらかっこ悪いとこは見せられないよね」

「頑張って走ってるとこが見られたらそれでええんやで。『みんな』もそう思うとるんちゃうか」

「大丈夫。ずっと見守ってくれてた『みんな』に、一番いい結果出してくる」

「そう出来たらええが……」

「おじさんは心配性だなぁ。わたしを誰だと思ってるの?あのお母さんの仔だよ?」

わたしのお母さん。

普段はマイペースだけど、ご飯の時だけは本気だったな。

おじさんが言うにはお母さんも新馬戦で勝ったみたい。

だからわたしだって……。


先生と騎手のひとがやって来た。

わたしにゼッケンと鞍がつけられる。

ハミも口の中に入った。

わたしの中で気合が入る。

きっと人間には気づかれないくらいに。


そうして厩務員さんに曳かれて馬房を出る。

「思う存分、やってくるんやで!」

おじさんの声が後ろから聞こえる。

わかってる。

『みんな』に勝つとこ、見せるから。


大井競馬場。

ここがわたしの走るとこ。

小さいときからおじさんに言われて来た。

試験で来たときはあまり良くわからなかったけど、今日は本番の新馬戦。

だからおじさんに教わったことを色々思い出す。

お母さんと一緒に暮らしてた牧場にも、ひとりで連れてこられた育成牧場ってとこにも、『カメラ』ってものがついてた事。

そのカメラを通して、たくさんの『みんな』がわたしやお母さんや友達たちを見守って応援してくれてた事。

わたしがここで走って勝ったら、みんなが喜んでくれるって事。

牧場のお姉さんも喜んでくれるかな。

育成牧場のお姉さんも喜んでくれるかな。

歩きながらそんな事を考えてたら、パドックに着いた。


パドックには試験のときにはいなかったたくさんの人間たち。

わたしにカメラが向けられてる。

きっと、この人間たちが『みんな』かな。

そう思って、カメラに顔を向ける。

小さな声で「頑張れー」って言われてるのも聞こえる。

「大丈夫。絶対いいとこ見せるから」

胸の中でそうつぶやいた。


「パドック出たらコースと反対側の奥の方を一度は見るんやで。お姉ちゃんもそこで見てるはずやで」

おじさんに言われてた事をもうひとつ思い出した。

わたしの歩いてるとこからは見えにくいけど、奥の方に木がいっぱい生えてるとこがある。

わたしのお姉ちゃんがそこから見るんだって、おじさんが教えてくれた。

だからそっちも見て、こう言った。

「お姉ちゃんの分まで、わたし頑張るからね」


そうしてるうちに合図があって、歩くのを止められる。

近くに先生と騎手のひとが来て、騎手のひとはわたしの背中に乗る。

『みんな』の頑張れって声がよく聞こえる。

そして暗いところを通ってコースに出る。

あとは騎手のひとの言うこと聞いてたらいい。

試験と一緒。人間が多くて少し長く走るだけ。


ゲートのそばまで来て、ゆっくり歩く。

周りの仔たちの顔を見ると、緊張してるみたい。

わたしとはずいぶん違うなあ。

「あんな狭いとこ嫌だー!!」って言ってる仔もいる。

確かにゲートは狭いけど、ここから出なきゃレースに出られない。

それがわかってたら嫌だとか怖いとか言ってられないのにな。


わたしには『みんな』がついてる。

牧場のお姉さんも育成牧場のお姉さんも。

そしてお母さんにお姉ちゃんも。

だから今日は負けないの。

歩きながら、そう自分に言い聞かせる。


『ファンファーレ』が鳴った。

ゲートに一頭ずつ連れて行かれる。

人間たちを見てたら、わたしは最後に入るみたい。

最初だって最後だって一緒。

ゲートが開いたら一番に飛び出せばいいだけ。


「やっぱダメ!ゲート怖い!!」

そう言いながら駄々をこねる仔がいる。

……何やってんだか。

ここまで来て怖いも何も、人間は言うこと聞いてくれないんだよ。

大人しく入ればいいのに……。


駄々をこねる仔が連れて行かれて、もう一頭もゲートに入った。

最後にわたし。

コースの外側の柵が近く見える。

「さあ、いつでもいいよ」

そう言った途端にゲートが開いた。


一番に飛び出そうとしたんだけど、少しバランスを崩して左によろける。

すぐに立て直したけど、いくらか置いて行かれた感じ。

でも、大丈夫。

育成牧場の坂道でも、小林のコースでもいっぱい走って来たんだもん。

このくらいならどうってことない。

騎手のひとが行くよって合図をくれたから、馬たちの外側から少しずつペースを上げる。

みるみるうちに何頭かが後ろに流れてく。

ね、大丈夫。

あとは4頭かな。全部抜けるよ。

そう騎手のひとに合図した。

そしたらハミに「行こうか」って返事が来た。

うん、任せて。

コーナーの入り口で手前を変えてスピードを上げる。

目に入るのは前の仔たちの上げる砂の粒。

こんなのに怯んでたらお姉ちゃんに怒られる。

そう思いながら前へ突っ込んでいく。


直線に向いて残りは先頭の仔だけ。

育成牧場の坂道を思い出す。

ここでもう一段上げたらいいんだよね。

騎手のひともムチで合図をくれた。

うん、わかってるよ。

抜いちゃうから。


そのまま先頭に立って、あとは全力で走る。

あんまり全力すぎて「もういいよ」って合図が来たくらい。

当然、みんなぶっちぎってゴール。

お母さん、お姉ちゃん、『みんな』、そしておじさん。

わたし、やったよ!


走り終わったから戻ってご飯だよね。

頑張ったからもうお腹空いちゃって大変なんだ。

厩務員さん、早く戻ろう。

そう言ったのに、わたしだけ馬房に戻れない。

「ちょっとー!ご飯のほうが大事でしょー!!」

そう言って猛抗議してたら、先生と騎手のひとと、前に牧場で見たことあるひとが来た。

厩務員さんがわたしを立たせて、横に人間たちが並ぶ。

目の前にはカメラがある。

ああ、そういうことかぁ。

勝ったらカメラで撮ってもらえるのか。

そしたら『みんな』も見てくれるのかな。

ならいいや。ご飯は後で倍もらうことにする……。


「いやあようやったやで。『みんな』も喜んでたやで」

帰りの車の中。おじさんの声がする。

「少しは恩返し出来たかなあ」

「少しどころやないやで。『みんな』大喜びで泣いてたやで」

「そっかぁ……。なら頑張って良かったかな」

「せやで。お母さんには頑張ったご褒美でニンジンがプレゼントされたらしいやで」

「ニンジン!?わたしにはないの?」

「それは先生次第やで。きっとご飯が増えたりはするんやで」

「ニンジンが良かったかなぁ……」

「この食い意地はお母さん譲りやで。それがワイは嬉しいやで」

おじさん、そう言いながら涙声だ。

……変なの。


あ、わたしの自己紹介、まだだったよね。

クールフォルテって言います。

小さい頃からくぅちゃんって呼ばれてるから、そっちの方がわかりやすいかな。

今の名前、まだ慣れてなくて。


それにも慣れなきゃ、いけないよね。

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