女スパイの誤算

無花果レイ

プロローグ

「私一人でやったの。お金が欲しかったのよ」


 抑揚のない声でそう告げられ、フィル・マクノートンは眉をしかめた。


 目の前にいる女性――秘書のシャーロット・バベッジに、つい二時間前までは微かな好意さえ抱いていた。丁寧で気の利く仕事ぶり。スマートな会話。一歩先を見据えて動いてくれる彼女の事を、この上なく信頼していた。


 さらに、女性としての魅力もフィルを惹きつけた。軽いウェーブが掛かったブロンドヘアーに、知的な瞳。細身のセットアップを着こなすヘルシーなボディライン。


 何よりも、ふっくらとした唇に塗られた紅いリップに目を奪われた。彼女の内側に秘める情熱を表しているのだろうと、感じていたからだ。


 だが、今は全く違う色に見える。


 綺麗に磨き上げられた大窓から差し込む、マンハッタンのビル群のネオンを帯びて、怪しい色を放っていた。


 ――まるで、悪女の印のように。


「どうしてこんな事を……君が」


 セキュリティ会社から緊急の連絡を受けた時、フィルは正直助かったと思った。話の長い得意先との会食を切り上げる口実が出来たからだ。

 だが、一日の役割を終えた無機質な夜のオフィスで彼女の姿を捉えた瞬間、あのままテーブルクロスの花の柄を数えておけば良かったと後悔した。


 開発中の製品データをリークしようとしたのが、シャーロットだと受け止めたくなかったのだ。


「シャーロット、君の仕事ぶりは買ってるんだ」


 ネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ外し、座りなれた椅子に深く腰掛ける。厚みのあるレザーの背もたれに押され、詰まっていた息が一気に漏れ出た。


「給料は見合った分を支払っているつもりだ。アップタウンに住んだとしても、切り詰めなくていい暮らしが出来ているはずだろう?」

「ええ、そうね。お陰様で楽しく過ごせているわ」


「不当な残業だって、強いた覚えはない。あった時は手当を出している」

「私もヨガのクラスに遅れた覚えはないし、会費だって遅れずに払っているわね」


 フィルは、机の上にあった自社のパンフレットをパラパラと捲った。そこには、『美しさは、素晴らしい日々から生まれる』というキャッチコピーが書かれている。


「何か不満があったのか? 業務内容や、人間関係に」

「いいえ、満足していたわ」


 警備員に後ろ手に縛られた手首が痛くなってきたのか、シャーロットはジリジリと腕を動かしながらフィルを睨みつけている。前向きな言葉の中に棘を忍ばせ、皮肉たっぷりに返答するのも、痛さからの苛立ちがあるのかもしれない。


「であれば、お金欲しさに、こんなリスクを取る必要はないだろう」

「そうかもしれないわね」


 フィルも伊達に社長を務めている訳ではない。27歳という若さで、父から大企業『マクノダリア社』を引き継ぎ、未熟だと陰口を叩かれながらも、辛抱強く年上の役員たちをまとめてきた。己の利益しか考えていない株主たちとも幾度と渡り合ってきたのだ。


 そんなビジネスの現場で鍛えた直感が、“彼女は真実を話していない”と警告している。のらりくらりと会話を流して、確信を避けているのは明らかだ。


「『マクノダリア』が嫌いか?」

「嫌いな女性なんていないわよ。私も愛用しているわ、肌が白くなるもの」


「私と馬が合わないか?」

「さぁ? 特に考えたこともないわね。ただのボスだもの」


「誰かに頼まれたんじゃないのか?」


「……さぁ……どうかしら。私のプランよ。私一人で考えて、実行したの」


 今まで続いていたポーズだけのラリーに、急にボールの重さが加わった気がした。彼女の目に焦りの色が見えたのだ。


「素直に話してくれたら、最大限譲歩する。君も、君に頼んだ人物も。なにか事情があったんだろう? 大事にはしない。約束する」


 僅かではあるが、好意を向けていた相手だ。彼女自身に罪はない、と信じたいフィルの希望もそこにはあった。彼女の前に立ち、聖職者のような寛大な眼差しで見つめ、答えるように促す。


「話してみてくれ」

「素直に話したわ」

「いや、君は嘘をついている。誰に頼まれたんだ?」

「誰にも頼まれてないわ!」

「嘘をつき続けるなら、助けられない。本当のことを――」

「貴方こそ嘘つきよ! ……っ!」


 シャーロットが一歩、後ろに下がる。ハイヒールの音が静かな社長室に響いた。


「――……私が嘘つき?」


 フィルの問いかけにシャーロットは答えず、目を瞑り呼吸を整えた後、また最初と同じ抑揚のない声で、言い放った。


「訴えるなり、警察に突き出すなり、好きにして。これ以上、もう何も話す気はないわ」


 一方的に下げられた幕に、フィルもこのままの状況での追求は無理だと悟った。


「ディーン!」


 社長室の外で待機していた護衛のディーン・トヒルを呼ぶ。


「はい、社長」


 素早く扉が開閉して、ディーンが入ってくる。彼は、威圧するようにシャーロットの後ろに立った。


「この件は、私にも否がある。入社して半年足らずの君を信用して、社長室の鍵を預けたんだから。私たちはもっとお互いを知る必要がありそうだ」

「……お互いを知る?」


「ディーン、拘束を解いてやれ」

「了解、ボス」


 拘束が解かれ、シャーロットが手首を擦る。ロープが擦れて痛かったのだろう。一瞬、彼女の眉間に皺が寄ったが、弱みを見せまいと思ったのか、直ぐに元の冷たい表情へと戻った。


「警察に届けますか? それとも弁護士のフォード先生に連絡を――」

「いや、必要ない」

「それなら――」


「私の家に連れて帰る」

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