兄と学校

 幸助には孝道という兄がいた。

「おまえは、馬鹿なんだよ」

 それだけ言って、孝道は幼い幸助を激しく殴ることがあった。彼は訳もわからず孝道に、よく殴られたり、蹴られたりしていたのだが、母はそれを見ても、喧嘩をとめるだけで、訳は訊かずに、放っておくだけであった。

 孝道は母の見えないところで幸助を殴ることがあった。彼はいつも孝道に嫌味を言われて、殴られていたため、家にいることが怖くて仕方がなかった。それは彼がどうして孝道にたびたび殴られるのか、よくわからなかったからであった。

 幼少を過ぎて、幸助も孝道も、ともに学校に通うようになると、そういうことはなくなった。孝道は学校に通っても友達はできないようであった。弟を訳も言わずに馬鹿といって殴っていたのだから、誰にも彼にも馬鹿と言って喧嘩を吹っかけていたのかも知れない。

 幸助が近所の友だちと遊んでいれば、孝道はこう咎めるのである。

〝あんなわがままとよく遊べる〟

 人が周りで楽しんでいても、孝道は邪険にするのである。孝道はそんな幼少を過ごして、中学にあがった。それからしばらくして孝道は外に出なくなった。


「池田ってタカちゃんのお友だちが、鉛筆を手につき刺したって、タカちゃんが強要したって言う話だけれど――」

 ある日の休日、祖母が昼食をとる幸助に話し始めた。

 しかし幸助は中学のころの兄の人つきあいを、よく知らなかった。友だちはほとんどいないらしくて、いつも遊んでいる友だちは一緒だった。池田はその中でも一番性質の悪いつきあい方をしていた。

「——池田って、あの悪でしょう? 校内でたばこ吸ったり、学校のトイレで酒飲んだりしていたっていう。」

 祖母は父が出て行ってから、孝道の話ばかりを幸助にするのだった。

「孝道が池田に嫌がらせしていたのは事実じゃないかね? 実際に俺もそういうところを見てたし、だけど鉛筆刺したのは自分でやったことで、それを孝道のせいにしたって言うのは、なんか厭らしさがあったと思うけどね? ――だって自分の手に鉛筆刺したのは、池田の勝手だった訳だし」

「そう――。でもタカちゃんその後にまわりから白い目で見られて、相手にされなくなったとかって言うじゃない? 学校に行かなくなったのもそういうことがあったからだったらしいけど――」

 祖母は幸助の前に座り、お茶を入れてからまたはなしを続けた。

「でもそれよりもね。そんなことがあってから、一度登校したのよ? そうしたらあそこの中学の担任なんて言ったと思う? 〝無理して学校に来なくていいんだぞ〟って」

 彼は食事を止めて祖母の方を向いた。

「それははじめて聞いた」

「変な話でしょう? 先生が〝学校に来なくていい〟だなんて――」


 彼は祖母の話を耳にしつつ、その当時のことを思い出していた。

 まだ小学校に通っていて、孝道の不登校をあまり深刻には考えていなかった時のことだった。その日学校が終わって、帰宅の中途で、彼は池田に会った。池田は幸助の下校を待ち伏せしていたらしかった。その時より前から彼は池田の悪行を聞かされていたし、信用のできない人間だとも思っていた。

 というのは、池田は孝道に連れられて幸助の家へ遊びに来た時、池田はからかわれたり、罵られたりしていて、兄の友人たちを追いかけ回したり、とびかかっていたりした。それが何故だか幸助も追いかけまわすようになって、彼が嫌がると、池田は余計にムキになって彼の首根っこを掴んで絞めてきたということがあったからであった。

 池田は誰にとっても、危ない人間だった。酒とたばこもそうだったが、暴力的なふるまいが顕著だった。殊にそれは親から受けるモノの反動だったという噂があった。孝道は時々池田の話をしていたことがあった。

「アイツは食事もろくに与えられていなっかたし、池田の母親はしょっちゅうアイツを殴ったり、外に締め出していたりして、その度に悪さをして、迷惑がられていた、な――」

 そしてそんな男が幸助の目の前に現れて、彼のことを待っていたのである。

 彼は怖かった。そろりそろりと池田の立っているところのわきを抜けて行こうとしていた。池田がいつ走り出して私に突っかかってくるやも知れないと、すぐにでも走りだせるような恰好で彼は池田を睨んでいた。池田は一瞬構えたようになった。幸助は一瞬ひるんだように後ろへ一歩下がったが次の瞬間には池田からこう切り出していた。

「兄ちゃん――」

 幸助は瞬間、池田の声を聞いてその場から走り出そうとした。が、その声色の弱々しさを感じて立ち止まった。

「兄ちゃん、——元気してるか?」

 彼は池田から変な、意外な言葉を聞いたような気がしていた。

 けれども彼は池田を警戒して本当のことを言うつもりがなかった。

「いつもと変わりませんよ。孝道は――」

 幸助がそう言った後、池田は何かを彼に伝えようとした。乾いた唇を開いて、口を丸く開けて、火傷したような右手の甲を突き出して幸助に何かすがるような姿勢になっていた。しかしそれ以上に何か言葉にはならないことを池田は知っているようでもあった。

 少しの沈黙があったからか、今すぐにでも立ち去りたい気持ちからか、覚えていなかったが、幸助はそれだけ言って立ち去ろうとした。

 しかし池田は幸助の後ろからさらに言葉をつないだ。

「——そうか、それならいいんだ。兄ちゃんによろしくな。」

 幸助が振り返ると池田はもう走り出していってしまっていた。


 

 祖母は幸助の食べ終わった食事を片付けた後も孝道の話を続けた。

「それからあの担任こうも言ったのよ〝分かってるだろうな〟って」

 その教師の言葉は明らかに悪意があっただろう。

 けれどももともと孝道がいけないということもあった。幸助は幼いころの兄を思い出しながらそう思った。兄は勘違いされるような言動をとっていただろうし、もしかしたら池田の言っていることは本当だったのかもしれない。

 池田には本当の意味では友だちがいなかった。からかわれることで、人との関係を保とうとしていたからである。人を追いかけまわしたり、飛びついてつかみかかったりして暴れるのも、おそらく人と関わりたいがために気を引こうとしているのである。

 そして孝道もそれを面白がってからかっていたことも事実だった。

 

 ――孝道の担任も、校長もあの事件からすぐに中学からはいなくなったと聞いていたけれども、幸助は教師もともに孝道に嫌がらせをしていたという話を聞いたのは初めてだった。

 孝道のいた中学は孝道がいたころが一番荒れていた時期だった。有害図書や生徒の喫煙など、非行の蔓延で校舎の施設が所々で使用禁止になり、部活動をしている生徒たちは更衣室から締め出された。

 保護者の中でも部活動をする生徒たちの外での着替えや、校舎の便所で着替えを余儀なくされていたりと、学校の対応を問題視していた。生徒側の抵抗も強くあり、校門を爆破するなどの電話や学校側への嫌がらせ、生徒の授業時間中の俳諧が目立つようになったりして地域からも対応を迫られる事態に発展していた。

 普段から勝気な振る舞いで孤立していた孝道のことであるから、池田の事件以来、学校側に睨まれてしまったのはわからない話ではない。

 実際に臭いものには蓋と言うような教職員側の対応が、孝道が不登校に至る原因なったことも想像に難くない。孝道は完全に悪者として扱われたのだろう。担任の教師は学校に行こうとしている兄を、行かせなくしてしまったのだから――。


 幸助はしばらく考えてから言った。

「それでああなったの? でも後のことは、アイツ自身の問題だった訳でしょう?」

 祖母は目を細めて頷いたが、こう言い返してきた。

「だけど、それがなかったらタカちゃん、しっかりしていたのよ?」

 幸助は祖母のその言葉を素直に受け入れていなかった。――やはり孝道は孝道で悪いのだと思っていた。

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