十九、のち

衣川自由

十九、のち



 足元に気をつけつつ、ゴンドラの中へ入り込んだ。外観は鮮やかな青色で、中身はクリーム色だ。所々に微妙な汚れがあった。

 清掃は行き届いているのかもしれないけれど、なにかが擦れたような黒ずみや年季の入った黄ばみは落とし切れないのだろう。端が破れたシートに腰を下ろし、ぐるりと一周、内部を見回す。天井の蛍光灯からジリリと小さな音が聞こえた。


 俺はそのまま窓に目を向け、ゆっくりと上昇していく世界をぼうっと眺めた。すぐそこにあった木の葉が徐々に目線から離れていく。数分経てばすっかり木のてっぺんまで丸見えになった。風が吹いたのか、ゴンドラが揺れて思わず「うおっ」と声を出す。

 今さらちょっと怖くなってきたけれど、ゴンドラは止まらない。深い藍色の空へ目掛け昇っていく。

 大観覧車という名前の通り、この観覧車は国内でも随一の高さを誇る。一周にかかる時間はおよそ十九分。スマホを取り出して時間を確認すると、十九時ちょうどだった。


 ふと足元を見た。このゴンドラは床がシースルーになっていて、地上の景色がそこからも楽しめる。高所が苦手な人からすればただの拷問かもしれないけれど、少なくとも俺は特に苦手ではない。明かりの消えた園内をじっと見つめて、深い息をひとつ吐き出した。


 遊園地自体はもう閉園している。それではなぜ俺がこの観覧車に乗ることができたのかというと、実はちょっとしたオカルト的現象が起きたからだ。


 数日前、俺のスマホに一件のメールが届いた。メッセージアプリではなくメールなんて今時珍しいこともあるものだ、と怪訝に思ったことを覚えている。見知らぬフリーアドレスから届いたそこに載っていた文章は、たった一行。


『十九日の約束、忘れないでよ ミチル』


 一見すれば出会い系サイトの迷惑メールだ。けれど俺には、このメールの差出人らしき『ミチル』に心当たりがあった。加えて『十九日の約束』というものにも覚えがある。だいぶ迷ったのち、言われたとおりにここへ足を運んだ。

 少し前までは随分と寂れていたというのに、この観覧車のおかげで活気を取り戻した地元の遊園地。時間指定はなかったけれど、俺はさほど悩みもせず、十八時の閉園後に門の前へ立った。

 けれどそこには錠が下ろされ、簡単に開けられるような状態ではなかった。

 やっぱり悪戯と偶然が重なっただけか、と踵を返したとき、背後でなにかが落ちる音がした。振り返ってみると、ついさっきまでしっかりと繋がれていた鎖が解けている。


 いったいなにが、と考える間もなく、今度は重い門がひとりでに開いていった。ギギギ、と鈍い音を立てて完全に開かれた園内への道は、真っ暗でなにも見えない。

 一歩後ずさったものの、俺は内心のどこかで、この奇妙な現象に心を奪われていた。恐怖とはまったく違う、呼吸が乱れるほどの高揚感。どちらかというとホラーは苦手なのだけど、幽霊が現れても仕方がないと思った。

 だってこんなにも、美しい夜だ。

 

 そうして踏み入った園内は人ひとりおらず、不気味な静けさに包まれていた。動かないメリーゴーランド、停車したジェットコースター。まだ少し甘い香りが漂うポップコーンスタンドやカフェテラスなど、なにも面白くない光景を眺めたままひとり歩き回る。

 途中発見した自動販売機は稼働していたので、ホットコーヒーを購入した。隣のベンチでひと休みをして、目の前に聳え立つ巨大な円を見上げる。


 わかっていた。俺が今日、例の約束を果たすには、この円を描かなければならないのだ。

 コーヒーを握ったまま向かった搭乗口はやっぱり不自然に開いていて、俺がゴンドラの前に立つと、パッとあたりが明るくなった。がこんっと大きな音を立ててゴンドラが動き始める。程なくして回ってきた青い箱の中へ、俺は意を決して乗り込んだ。


「……遅いぞ、ミチル」

「それはこっちのセリフ。いつまでたらたら歩き回るのかと思ったよ」


 正面のシートに座る女は唇を尖らせた。


「これ以上遅いようなら寝ちゃおうかと思った」

「相変わらず早寝か。まだ十九時だぞ」

「いつもなら寝てるって知ってるでしょ?」


 ミチルは笑った。不健康な肌が蛍光灯に照らされて、余計に青白く見える。垂れ目はコンプレックスらしいけれど、吊り目の俺には羨ましい。優しく垂れた目元は人を穏やかな気分にさせてくれるものだ。


「あ、今ちょうど四分の一だね」


 ミチルがそう言ったので、再び窓の外を見てみる。昔よく行っていたレストランが見えた。煌々と明かりを灯している。まだ繁盛していたらしい。そんなことを考えていると、ミチルはふいに呟いた。


「こういうのを『綺麗』っていうのかなあ」


 香るはずもない、甘くて蕩けそうな懐かしいにおいが鼻を掠めた。


「さあな。夜景ってのは、残業するサラリーマンたちによって作られてるなんて皮肉を言われたりもするものだし。感じ方は人それぞれだろ」

「そのサラリーマンをやめてどれだけ経つんだっけ?」


 首を傾げたミチルはゆっくりとした仕草で前髪を耳にかけた。伏せられた目元で長い睫毛が揺れる。

 やがて窓越しに視線が交わって、なにも答えない俺に再び訊いた。


「ねえ。どれだけ経つの?」

「……うるさい」

「ほら、窓に映る自分を見てみなよ」


 見たくない。けれどそう言われるとなぜか目を向けてしまうのだから不思議なものだ。

 向こう側には、すっかり小さくなった街並みと濃紺の空。けれど意識して見ようとすれば、そこには紛れもなく、俺自身の姿がある。


 ああ、汚い。隣にいるミツルがあまりに白い肌をしているせいか、浅黒く血色の悪い自分の顔が余計惨めに見える。中途半端に伸びた髭やくっきり浮かぶ隈。薄汚れた廃人のような顔面が、無情にもはっきりと映し出されている。


「まるでお化けだね」


 お前が言うか、と返してみると、ミチルは声をあげて笑い、滲んだ涙を拭った。

 じっとミチルを見つめていると、もう一度ゴンドラが揺れた。どうやら今日は風が強いらしい。


「もうすぐてっぺんだ」


 ほら、と促されて窓の外を覗き込む。よく晴れ渡っているようで、都会にしては星がよく見える。やっぱり、ひどく美しい夜だ。

 濃紺の中でひときわ目立つ球体。ミチルはガラスに人差し指の爪先をあてて、それを指した。


「これで約束は果たせたね」


 柔らかく口元を緩め、ミチルはそう言う。

 それはこちらのセリフのような気がした。

 あの日、満月が見たいと言ったのは、ミチルの方なのだから。


「今この街で、一番月に近い存在だよ。わたしたち」

「まあ、そうだろうな」


 飛行機やヘリコプターが飛んでいる様子もないので、紛れもなく、今の俺たちはこの街でもっとも月に近い人間だ。

 はっきりと浮かび上がるクレーターを目でなぞり、ミチルの息遣いにだけ耳を傾けた。それはとても静かで──いや、わかっている。

 傾けたところで、なにも聞こえはしない。


「足元には人工的な美しさが広がってるわけだけど。ほんの少し顔を上げるだけで、もっと綺麗な光景があるんだから、たまには上を向くのも大事だよね」

「なんだよ急に。ロマンチストかよ」


 揶揄わないでよ、と照れ臭そうにミチルは頬を染めた。明るすぎる月がその表情をよく見せてくれる。目元のささやかな黒子さえ、俺の目には焼き付くように鮮明に映った。

 やがてギギッと鈍い金属音がして、ゴンドラが頂上へ到達したことを知る。


「十九分」

「は?」

「この観覧車が一周回るまで、十九分らしいよ」


 知っている。それがどうしたのかと訊いたとき、ふと、身体が降下していくのを感じた。頂上を過ぎ去ったからだろう。

 もっとも月に近い時間なんて、ほんの刹那だった。

 俺はゆっくりと顔を覆った。髭がちくりと手のひらを刺す。

 ゆっくりゆっくりと降りていく感覚がひどく怖くて、泣き出してしまいそうだった。


「それでいいよ」

「え?」


 脈絡なくそう囁いたミチルの顔を見上げる。けれどそのとき、ふっとゴンドラ内の明かりが消え、途端にあたりがよく見えなくなった。当然、ミチルの表情もわからない。


「観覧車に乗ってるみたいに、登ってるときはわくわくして顔をあげて、降りていくときは現実に戻っちゃったりさ。そんな人生でいいんだよ」

「……嫌だ。そんな人生、高低差が激しすぎて苦しいだろ」

「浮き沈みなんて激しくてなんぼじゃん。そうやってこれからも、人間らしく生きてよ」

「……そもそも例えが無理矢理すぎる」


 そうかな、と言ったミチルの顔は見えないけれど、笑っているような気がする。


「がんばろうって意気込んだ次の瞬間、やっぱり無理かもって泣きたくなったり、そんな自分が嫌でどうしようもなくても、呼吸だけはやめない。そんな君をさ、わたしはすごく尊敬する」

「そんなの、みんな同じだろ」

「そうね。みんな同じ。わたしからしたらさ、君も、君にひどいことを言った元上司も、今どっかでセックスでもしてる女も男も、みーんな同じ」


 ミチルは大袈裟に腕を広げる。風は止んだのか、ゴンドラはもう揺れない。


「同じように『生きる』ことをやめない選択をしてるすごい人たちだよ」

「生きてるだけですごいってか。よく聞く綺麗事だな」

「綺麗事を続けられるってのは十分にきれいなことだよ」


 なにを言っているのかまったくわからない。わからないのだけど、じわじわと熱を帯び始めた目頭を、咄嗟に抑え込んだ。


「君には、きれいなままでいてほしいんだ」


 ──とんだ迷惑だ。


 きれいでいることを先にやめたのは、ミチルの方。

 自分がさっさと投げ出したことを、俺に求めるというのか。見返りもなしに、俺はミチルの望みどおりにしなければならないのか。

 ミチルの願ったとおりに、生きなければいけないのか。


「そうだね」

「はあ?」

「なんの見返りもないけど、君にはわたしの望みを叶えてほしいし、叶えてくれるって知ってる」


 だって、と笑った。


「君がわたしの望みを叶えてくれなかったこと、一度もないでしょう?」


 近づいてきた地上の街灯で、ミチルの顔がようやく見えた。やっぱり悪戯に笑っている。俺は昔からこの表情に弱い。

 まったく、なんて狡いやつだ。


「十九分、経っちゃうね」

「……ああ」

「知ってる? 同じ日付で満月が見られるのって、十九年後らしいよ」


 ふふっと今度は甘く笑って、ミチルは俺の頬に手を添えた。

 あたたかくも冷たくもない。触れられた感覚すらないのに、なにとなく持ち上げられたような気がして、俺は顔を上へ向ける。ミチルは頬を緩めたまま俺を見つめた。

 そうしてそっと唇を落とす。味も、やっぱりしない。


「今日、この観覧車で過ごした一分一分を、毎年思い出してよ。そうしたらきっと十九年なんてあっという間でしょ」

「無茶言うな。一分ごとの記憶なんて、今このときですら思い出せねーよ」

「いいや。君ならきっと覚えていられる。君がわたしとの時間を一秒たりとも忘れるとは思えないからね」


 自意識過剰、自惚れ女。そんな悪態が口から出ている間、目からは同じ数の雫がぼろぼろと溢れていった。

 いつの日かそれを拭ってくれた細い指は、もう触れてくれない。確かに見えても、覚えていても、役目を果たしてくれない。


「ほら、地上だよ」


 最後の一分。伝えたいことは山ほどあるのに、肝心なときに言葉が出てこない。


「ミチル、俺……」


 俺の言葉を遮って、ミチルは再び俺に口付けた。熱なんてあるはずもないのだけど、俺は確かに「あたたかい」と思った。

 あたたかくて、甘くて、死んでしまいそうなほど苦しい一分間のキスだった。


「言えなかった一分は、十九年後に思い出してよね」


 ああ、やっぱりなんて狡いやつなんだ。

 これでは少なくともあと十九年、綺麗事を続けなければならない。観覧車一周分の歳を取った満月の夜、今日言えなかった言葉を伝えるために。

 俺はすっかり冷めきったコーヒーを片手に、青いゴンドラから降りる。目の前に広がる世界は、まだほんのりと甘やかさを感じられる、美しくて寂しい夜だった。


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十九、のち 衣川自由 @ziyuuhamudai

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