愛しの罵詈雑言

絵空こそら

愛しの罵詈雑言

 塾のある日は寄り道をする。舗装されている道路を逸れて林道へ。速足だったのが段々小走りになっていき、最終的には走る。湿った土でローファーが滑るけど、脚は動くのをやめない。早く、速く、吐き出さなければ。

 ぱたりと二つに折れるように開く扉を開閉するのももどかしく、身体を箱の中に押し込み、力を入れて後ろ手に閉める。荒い呼吸のまま、緑色の受話器を手に取った。

「ふざっけんな!何考えてんのよ、あの女!」

 第一声がそれ。ははあ、今日はそう来ましたかと冷静な私が呑気に批評をしている。その間も口と頭が分離してしまったように、ほとばしる悪態は止まらない。

「いつもいつも厭味ったらしいのよ、あんぽんたん、おたんこなす、ばっきゃろー!あいつもあいつで気色悪い!あほ!エロ本と現実を混同してんじゃねー!ばばあも、一歩間違えりゃあセクハラなんだよ!気分の悪い!世は令和なんだっつうの!」

 はあ、はあ、と肩で息をして、受話器を元に戻す。乱暴に置いたせいでがちゃんと大きい音がした。公共物だからって構うもんか、どうせ壊れている。

 私は暗い電話ボックスの中にしゃがみこんだ。こんなことをして、気持ちがすっきりするわけじゃない。一瞬スカッとしても、後には澱のような罪悪感が残る。それでは何故こんなリスクがあり、幼稚で虚しいことをしているのか。答えは単に、吐き出さなければはちきれそうだから。喉まで出かかった本音を留めて、留めて、留めておくと、顔から下に全部溜まって、次第に破裂しそうになる。本音を言える人なんていない。誰も信じてないから。だから無機物に向かって定期的に暴れる。反抗期も思春期もなかったことになっている私は、そういう行為でバランスをどうにか保っている。

 私は深呼吸をした。もうすぐ迎えの車が、塾近辺に到着するだろう。その前に戻らなければ。そう思って立ち上がろうとしたとき、

「ひでえ罵詈雑言」

 ほんの微かにそう聞こえた気がした。私は息をのむ。咄嗟に辺りを見渡すが、薄暗い窓から人の影は見えなかった。その他音が聞こえる場所といえば……。

「誰?」

 私は受話器をとって言った。耳に押し当てたスピーカーから、「やべっ」という声が確かに聞こえた。

「誰かきいてるの?ねえ!」

「……」

 受話器は沈黙を貫く。私の心臓はどくどくと鳴った。盗聴されていた?さっき自分が垂れ流した悪態を思い出して、あれがもしどこかに公開されたらと思うと眩暈がした。

 それ以上に、こうして盗聴犯に存在を示してしまったのは、失敗だったかもしれない。盗聴器がとりつけてあるということは、相手にはこの場所が知られているということ。近辺は人通りがほとんどないから、もし犯人が近くにいて口封じに殺しに来たら、助けを呼べる算段はない。そう考えたら、怖くて、受話器を取り落としそうになった。逃げたほうがいい、絶対。今すぐに。でも走り出そうとした瞬間、今度ははっきりと聞こえた。

「ばれちまってはしょうがねえ」

 男の声だ。

「おいお嬢ちゃん、この前も来てたみたいだが、勝手に使ってもらっちゃ困るぜ。この公衆電話は俺とツレ専用なんだよ」

 それじゃ公衆電話の意味ないじゃん、スマホでやれよと思ったけど、盗聴魔を刺激しないようあえて押し黙る。

「その公衆電話は俺のところにしか繋がらねえ。勝手に改造したが、文句も言われねえ。まあ今のご時世誰も使わねえんだろう。ともかくそこで騒いでっと俺んちに響くからよ、せめて声のボリューム落としてくんねえかな、近所迷惑になっからよ」

 私は顔が熱くなった。私の赤裸々な本心は、無機物に吸い込まれていくと思っていたのに、あろうことか知らない人に、その人の家屋を突き抜けて更に知らない人に、筒抜けだったってことか。

 私は恥ずかしさで何も言えず、そのまま受話器を置こうとした。すると引き留めるように男が言った。

「あと、そういう本音は、身近な奴には聞かせてやれよ。あんただって、本当は知ってほしいから、こんなことしてるんだろ」

 少し優しい響きだった。でも、優しそうだからって何?私は何も信じない。他人に私の何がわかるっていうの。ガチャンと受話器を置いて、外に出た。中のくぐもった空気から抜け出ると、まるで別の世界のようだった。暗がりの中を駆ける。こんなところ、もう二度と来るかっ。


 男は、少女の走り去った音をきいて、苦笑した。

 男がその公衆電話を利用していたのは遠い昔のことである。辺鄙な場所に建っている公衆電話を改造し、自分と恋人専用の連絡手段にした。違法中の違法だが、そんなことを気にしない程度に男は若かった。

 恋人は完璧なひとだった。ひとつも愚痴を零さず、受話器からはいつも甘く優しい言葉が流れた。男はそんな彼女を愛したが、彼女は段々と連絡を寄越さなくなっていった。

「なんだって、隠したがるんだか。汚い気持ちなんて、生きていれば湧いてくるのが自然なのに」

 男が黒電話の受話器を置くと、奥の部屋から怒声が響いた。

「あんた、またでかい音でテレビ見て!近所迷惑だって言ってるだろうが!さっさと風呂入って寝ちまいな、このボケ老人!」

 お前のほうが近所迷惑だよ、という言葉は飲み込んで、男は「はいはい」と降参の体で返事をした。今はこの罵詈雑言が、何よりも愛しい。

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愛しの罵詈雑言 絵空こそら @hiidurutokorono

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