嘘つきカウント

衣川自由

嘘つきカウント


 わたしはどこにでもいるごくごく普通の女子高生、だと思っていたのだけど、どうやらそれは思い込みだったらしい。


「おはよう、四宮」

「おはよう」


 後藤くんとこんなやりとりをするけれど、今は朝ではない。教室の中には他に誰もいないし、窓の外は眩しいばかりの朝陽ではなく燃え上がる夕陽で染まっている。

 つまり夕方だ。今日の授業はもうすべて終わった。こんなタイミングで「おはよう」と挨拶を交わすのはおそらく、わたしと後藤くんが今日のうちではじめて顔を合わせたのが今だからだろう。

 アルバイトの出勤時とかには、いつ何時でも共通して「おはようございます」が挨拶だったりする──それと同じだ。


「このクラスの日直、週交代だったっけ?」

「どうして?」

「四宮が毎日日誌やってるから」

「わたしは今週も先週も、そしてたぶん来週も日直よ」


 わたしがそう言うと、後藤くんは顔をしかめた。彼の言いたいことはわかっている。日直の仕事を毎日押し付けられているなんて、と持ち前の正義感と立派な自立心が刺激されているのだろう。押し付ける方を詰問したいし、押し付けられる方──この場合わたしなのだけど──を激励したい。後藤くんはそういう男だ。

 そしてわたしはそんな後藤くんが大嫌いだ。


「何か御用でしょうか」

「いや、御用は特にない」

「そう」


 それならわたしの前の席に座らず、ガチャガチャとうるさい装飾品がたくさんついたリュックを背負って今すぐ出て行ってほしいところだけれど、日直を断れないわたしに人を拒絶する言葉など吐けるわけもない。黙って日誌に目を戻し、黙々と続きを綴っていく。

 どこかの部活動の掛け声と、時計の針の音。それから後藤くんが始めたスマホゲームの音が教室内に響く。ストーリーものなのか、たまに入るナレーションがあまりにいい声で、わたしの集中は呆気なく奪われた。


「おっ? 何? 四宮もこのゲーム興味ある?」

「興味はないかな」

「じゃあ俺には?」

「もっとないかな」

「食い入るように見つめてきたのに?」


 返事ができず口を閉ざすと、後藤くんは「面白いのに」と笑いながらゲームに意識を戻した。

 確かに、ナレーションに気を奪われてはいたけれど、わたしが見ていたのはスマホではない。スマホよりもほんの少し、彼の体寄りに浮かぶ──『76』という数字だ。

 ちなみにこれは「おはよう」の時点では『75』だった。たぶん、わたしにしか見えていない。

 そしてこの数字の意味を、突如すべての人の胸にこれが浮かんで見るようになった先週のうちに、わたしはすでに理解していた。

 日直の代行を頼みにきた同級生の数字がカウントアップされたからだ。


『四宮さん、ごめん。今日病院に行かなくちゃいけなくて、日直代わってくれないかな?』


 放課後に友達とカラオケに行く約束をしている彼女のカウントは、この言葉のあと、『189』から『190』に上がった。わたしはすぐに事を理解して、思わずちょっと笑ってしまった。

 つまり、嘘をついた回数だ。

 彼女の『190』が多いのかどうかはわからない。十七年という短い人生にしては多いのかもしれないけれど、教室内にはもっと多い人もいる。一歩外へ出れば、わたしより年下で信じられないような回数を掲げている人もいた。それぞれ違う人生を歩んでいるのだから、嘘をついた回数なんて、環境や状況に応じて差があって当然だろう。


「あ、負けた」


 ボソッと呟いた後藤くんの胸元にある『76』をじっと見つめる。動かないので、スマホゲームでは本当に敗北したようだ。まあ、そんなことで嘘はつかないと思うけれど。


「終わった?」

「え?」

「日誌」

「あ、いや。もう少し」

「そっか」


 後藤くんはぐっと背を伸ばして、窓の外へ視線を向ける。梅雨の晴れ間の空気はほんの少し湿り気を混じらせていて、ひんやりと心地いい。柔らかい風が彼の癖毛を散らかしていく。もう帰り際なので気にならないのか、弄ばれた髪をそのままに、彼は気持ちよさそうに目を細めて黄昏空を眺めていた。


 わたしは正直、彼の胸に数字があることに、最初は驚いた。

 誰だって嘘はつく。けれどわたしは、その薄い唇が偽りの言葉を紡ぐ瞬間を想像できなかったのだ。

 わたしの中の彼を勝手に神格化させていたのかもしれない。誰にでも優しく、人当たりがよく、適度に冗談も言える。まるで他人との共存のプロだ。後藤くんが誰かを悪く言うのも、誰かに悪く言われるのも聞いたことがないし、誰と一緒にいても不自然さがまったくない。


 こんなにも潤った人間関係を築いておいて、毎日必ず、ひとつ以上の嘘をついているだなんて信じられない。

 一般的に見れば、おそらく、彼の嘘をついた回数は少ない方だ。日直を押し付けてきた彼女と比べたら100回以上も少ない。


 けれどわたしは、この数字が見えるようになってからというもの、必ず彼のカウントアップを目撃している──それはつまり、彼は毎日必ずひとつ、わたしに対して嘘をついているということだ。

 人と会話をするとき、必ずしも相手を視界に入れているわけではない。実際さっき「おはよう」と挨拶を返した際、わたしの視線は日誌に注がれていた。だからわたしは、彼のカウントがアップされる瞬間を目にしているわけではないのだ。会話の中のどこに嘘が混ざっていたのか、わからないときもある。


「でも、今日は違う」

「え? 何が?」


 うっかり声に出してしまったようで、急に話し始めたわたしを、後藤くんは不思議そうに見た。

 少し伸びた茶髪。根本に地毛の黒色が混じっている。衣替えをしたばかりの半袖から筋肉質な腕が伸びて、わたしのペンを指先でクルクルと回す。頬杖をついて、どこか愉快げに口元を歪めていた。

 きっと、わたしにしか向けない表情だ。

 そんな馬鹿みたいな期待をしてしまう自分が恥ずかしいのに、わたしの口は勝手に動いてしまう。


「御用、あったんでしょう?」


 後藤くんは今日、わたしに用事があったはずなのだ。わたしの目に狂いがなければ、そして数字への解釈に間違いがなければ、彼はさっき嘘をついた。

 こうして日誌を書くわたしの元で、先週も、先々週も、彼は嘘をついた。


「どうしてそう思うんだ?」

「後藤くんが嘘をついているように思えるから」

「嘘をついているように『見える』の間違いじゃなくて?」


 え?

 ぽかんと彼を見つめると、口元の歪みはさらに大きくなって、それはもう嬉しそうにまなじりを下げた。

 見える、と言っただろうか。そして彼は今、わたしの目ではなく、胸元を見ている。一歩間違えればセクハラになるのだけど、今はそれどころではない。まさか、という疑念に襲われて、わたしも彼の胸元を注視した。


「俺の御用は、四宮への告白なんだけど」


 え?

 ぽかんとした、という表現以外が見つからないのでさっきと重複するけれど、わたしはまさしくもう一度ぽかんとした。

 彼のカウントは動いていない。嘘ではない。

 嘘ではない?


「え、わ、わたしに?」

「そんなに驚くことか? これだけ毎日通ってたんだから、四宮もちょっとは気付いてただろ?」

「そ、そんなの気付くわけないじゃない」


 ハッとして彼の顔を見た。にやにやと悪戯に笑っている。ああ、やってしまった。というか、やっぱりそうなんだ。

 じゃああれも、これも、それも、全部バレていたということか?

 つまりは今日の──


「今日は二回か。毎日毎日、お前、嘘つきだよな」


 夕方でよかったと思う。きっとわたしの顔は今、燃え上がるように真っ赤だ。


「……後藤くんだって嘘つきじゃない」


 せめて胸のうちで吐く嘘はカウントされない仕様でよかった。もしもそれまでカウントされていたら、いったいわたしはどれだけの大嘘つきになっていただろうか。

 そんなことを考えて、あんまり恥ずかしいものだから、とっくに埋まりきっている日誌に目を落とした。 

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