9:さかしまに星は降る
魔王が描いた流星には、始まりがあった。
「じゃ、ササッっといくヨ」
「え? なにルナ、なんで頭をおさえつけるの? え⁉ 顔が近……ちょっんんん!」
夜の闇すら届かない、密繁の向こうに潜む魔城。
傲岸な玉座の主たる『黒緋の舌渦』。
北限にて、神の権威を伺う邪悪の極北。
口を開けば川が逆巻き、舌を打てば血の山河を築く、非情無比の魔族の王。
かの根源は、舌渦の名が通り。
赤く、黒く。
けれど、塗り潰すような輝く緋に濡れた、長い舌にある。
であるのだから、
「っぷはぁ……! いきなり口塞いで舌をねじ込むとか、私、初めてなのに……!」
「あれヨ? ちょっと足りなかったかヨ?」
「なに、足りないって! ちょ、またぁんんんんん⁉」
深い深い接吻で、直接に邪な力を流し込んでいく。
無力な人類がいかに手足を暴れさせようと、ささやかな抗いにすぎない。
かくて、黒き流星は生み出された。
「アイちゃぁん……鎧、凄いことになってますぅよ……」
「わあ! カッコいいヨ、アイ!」
「あとで覚えておきなさいよ、ルナ!」
人の心を塗りつぶし、青天を切り裂かんがために。
※
谷底で騒がしい夜明けを見上げるユーイは、疲労に眉を下げていた。
小脇には、ぐったりと動けなくなった白トカゲを抱きながら。
「ここまでかよう」
脅威の排除に問題はない。
このまま人知及ばぬ魔王領まで逃げ込めば、かの巨魁が打ちのめしてくれる。
しかし、まだまだ遠い。
この、小さな相棒の体力が持たないだろう。
「魔王サマとアイちゃんがガチャガチャやっていたけどよう、ダメだったかあ」
目論見は達せられない。
少女に懐いた彼をポコポコに合流させ、その穏便な個性に人格の主導権を取らせる、という算段だ。
封じられるほどの森の脅威が、近しい隣人となる。
そんな甘く煌びやかな期待は、けれど叶えるに難しいようだ。
「仕方ないよう。淡い夢は、次の機会さあ」
谷上では、夜通し凶暴な竜を相手する探索者たちがいる。
谷底の自分とトカゲから目を逸らさせようと奮闘する彼らも、もう限界であろう。
失着を認めるに、このあたりが頃合いだ。
成せぬ最順手に固執しても、一つとして得るものはないのだから。
この子を尋常ならざる竜の形をした『アレ』に返し、自分は全力で魔王領へ駆け込む。
計画を立て直し。
しんどいと息をつき。
けれど、成さねば暴竜が人の村を呑み込むのだから。
緩く覚悟を結び、トカゲの頭を撫でる。
頭上の喧騒を、確かめるように見上げ直し、
「……なんだあ?」
竜が、その身を『く』の字に折り、吠え猛っていた。
聞く者の肌を叩くほどの声圧は、威を持たず、絶叫の如く。
ユーイは食い入る。
両脇を岸壁に削られた、狭い空の隙間を。
黒い流星が、凶獣の首根っこをしたたかに打ち据える、その一時を。
※
「オジサン! 大丈夫⁉」
「アイちゃん?」
流れ星は、まっすぐに相棒のもとへ降り注いできた。
ユーイは、目を丸くするしかない。
剣の才覚あれど、未だ途上にあった少女が。
剣の理に外れた巨大な敵を叩き殴り。
宙を舞って、空を切って、谷底に現れた。
それも、
「なんだあ、その恰好」
何よりも大切にしていた、家宝である白塗りの鎧ではなく。
邪まな趣きに満ちる、禍々しいまでの黒鎧を纏っているのだから。
「……おう、魔王サマの仕業か」
「私が決めたことだから! 説明はあとで! 一緒にきて!」
「ああ? なにする気……って、待て! 鎧のトゲが刺さるよう!」
困惑するおっさんだったが、問答無用とばかり身体は抱きかかえられた。尖った金属にあちこち苛まされながら、宙に吸い込まれるよう飛び上がった。
浮き上がる内臓に出かかった声をこらえ、小脇のトカゲを抱き直す。
谷を飛び越え、空が広がる。
見えるのは、昨日にユーイたちが踏破した岩山を背負って、身悶えする竜の姿。
「効いているよう、アイちゃん!」
「ええ! 私が、魔王カルナカンの代行をするわ!」
つまり、あの竜を殴り飛ばして大人しくさせる。
ついでに、弱らせることでこちらに懐いた幼体を人格の主に据えさせる。
「おう、頼もしいよう」
自信に満ちた声だし、前哨戦の形勢を見るに、実効性は高い計画だ。
けれど。
「それなら、俺は要らないんじゃないか?」
どうして、腕に覚えはあれど、人の域を踏み外していない射手が必要になるのか。
朝の凛とした風に髪を遊ばせながら、ユーイは肩をすくめて問いかける。
答えは、自身に裏打ちされた圧ある声。
「さっきは不意を打てたから! 正面からじゃあ、受け身を取られるでしょ!」
「ああ? じゃあ、俺に囮をやれってか?」
「射かけて、注意を引き付けるだけだから!」
「だけって……」
言いたいことはわかった。
そのうえで計画に致命的な欠陥があって、
「しかしよう。アイちゃんと一緒の状態で注意を引いても、仕方ないだろうさあ」
「大丈夫! 私に考えがあるわ!」
だけど平気だから、と無理押しが返ってくるのだった。
※
アーイント・ゴルドラインはまっすぐに、空へ黒線をひく。
肩に、子犬ほどのトカゲを乗せ、抱えながら。
目指すのは、ポコポコと名付けられた怒り猛る竜ならざる竜の、白色の眉間だ。
「そうね! さっきの一発で警戒心バチバチよね!」
脳に最も近い、生物の弱みだ。
だからこそ、反射に近い動きで避けるし、守る。
巨体で頑強。
体を捻るだけで急所は遠ざかり、前足を掲げるだけで城壁となる。
アーイントが、いかに威を持とうとも。
魔王に流し込まれた力を発しようとも。
風を切って、空を裂いて迫ろうとも。
致命の一撃を容易く拝領するほど、野生は寛大じゃあない。
まっすぐに迫れば、二つの前足が城門となって受け止め、払い落すだろう。
幾度と繰り返そうが、変わることはない。
だから搦手を放った。
一矢が。
ただ、一矢が。
上天から放たれ、鱗の隙間に潜りこんだのだ。
「カンペキ!」
異物の入り込みに驚いた竜が体を起こし、それが城門に隙間を穿った。
かぎ爪光る太い指が緩んで開いて。
黒色の流星には、それだけで十分なのだ。
※
弦の揺れる得物を構えたまま、射手は見る。
巨魁を『邪悪』が打ち据え、怯ませたのを。
体をさかさまに、地表を『見上げ』ながら。
「やったかよう、アイちゃん」
風鳴に踊りながら、口の端を満足げに持ち上げる。
アイが正面突破は難しいからと取った次善策は、単純なものだった。
尋常ならざる力を得た鎧によって、ユーイを投擲。
隔絶した射手の力量でもって、対象の注意を引きつけ。
一発くれてやった後で、中空のユーイをキャッチする、というもの。
「まさか、生身の人間をぶん投げるなんてよう」
もともと思慮の浅いところがあったが、ここまで乱暴乱雑な手順を踏むか、と呆れて笑う。
あまりに雑な計画だったため、修正案を出して、今の形になっている。
眼球ですら鏃を弾く相手の視線を集めるに、ただ射掛けても無意味だ。
だから、鱗の隙間を逆撫でに狙うために、竜を飛び越すよう軌道を描かせた。
見事に一矢は、頭を守ろうと持ち上げた前足の付け根、その稼働を確保するためにわずかに浮きあがった鱗の隙間を貫いた。
目論見は、寸分の違いなく成された。
あとは、
「へっへ、やったなあ、アイちゃん!」
「オジサンこそ!」
「ガタイ相当のでかい鱗だからよう! 熊の目を抜くより簡単さあ!」
落ちるに任せている人の身を、魔王の使徒より拾い上げてもらうばかり。
壮年は、駆け付けた少女に勢いよく受け止められると、
「あ」
「うん? なんだ、アイちゃん……いや、速くないかよう?」
「やば、止まらない!」
「ああ⁉ 待て、俺は生身……!」
断末魔の尾を引きながら、岩山へもろともに流星していくのだった。
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