Perspective 2
「ふぅ……」
一人息を小さく吐いて、スマートフォンの真っ暗な画面に映る自分の顔を眺めながら、海風に梳かされた前髪を整えつつ電車を待つ。私の毎朝のルーティーン。
三日前に入れ始めてまだ目に馴染んでいないゴロゴロとしたコンタクトの感覚。
そして、昨日まであったおさげの存在がもの寂しさを感てしまう。
今日から高校生として初めての授業が始まる。
中等部から高等部に上がってから、制服もボレロにジャンパースカートの冬服から、胸元と後ろ襟に小さく校章のが入るデザインのクラシカルなセーラー服になった。
小学生の時の私がこの駅で本を読む綺麗なお姉さんが来ていたというだけで憧れて、橘華に入ろうと思ったきっかけの服。これを着ただけでわたしは高校生になったんだと実感させられる。
家がある宮内串戸から学校のある西広島まで大体、三十分くらいの電車通学だ。
私がこの学校を受けるといった時、家族はいいとも悪いとも言わなかった。
お父さんとお母さんは無理に私立なんか行かなくてもセーラー服の着れる公立校はいっぱいあると説得された。それでもやりたければ行ったらいいと。
けどおじいちゃんは私が電車通学することに大反対で、もし痴漢にでもあったり、危険な目にあったらどうする。なんてすごい剣幕で私に言い寄ってきたけど、どうしてもあそこの学校がいいと押し切った。
勉強もちゃんと頑張るためのカリキュラムもあるし、特進と呼ばれる選抜クラスに入ると将来の選択肢も広がるし、公立校よりも先に大学に行くために考える時間も多くなるからと、小学生が考えられる最大限の言い訳を用意して、戦った。
結局最後はおじいちゃんも折れてくれた。私の事を考えてくれていたんだろうし、おじいちゃんも昔は私学の男子校に電車で通っていたようで、電車通学は大変だとしきりに聞かされた。
代々続く酒蔵の跡取りとして生まれたおじいちゃんは宮内串戸じゃなくて、ここからさらに一時間弱ほど遠い、川西という山口県の小さな無人駅から毎朝通わされていたというから、その大変さは計り知れないものなんだと思う。
けど、私が中等部の入学試験に合格した時には、これからの通学中に本を読む時に必要になるだろうから。と、古いけどとてもよく管理された桜の花の染料で染色された和紙を使った栞を私にくれた。
なんでこんなガラでもないような物を持っているのか、気になって聞いてみたものの、年甲斐もなく照れくさそうに笑うだけでちゃんとは教えてくれなかった事を思い出す。
『間もなく一番線に七時、三十八分発。普通白市行きの列車が参ります。』
機械的なアナウンスと共に顔を上げると、ちょうど私の前を黄色の列車が滑り込んでくる。
おじいちゃんがはっきりと十八のあの時が初恋だったというように、私も今恋をしているのだと思う
。
彼は私の変化に気づくだろうか。きっと気づいても話かけてはこないのだろうけど、それは私も同じだ。私も声をかけられない意気地なしなのだから。
ドアが開く。私の前に並んでいた人達がまだ空いている椅子を争うように座るなか、私は入ったドアとは反対側のドアの背かけに体を預けて本を開く。
すると私に気付いた向かい側の男の子がしきりにスマホを触り出す。
中学生の時より少し伸びた前髪が彼の瞼を掠めてうざったそうに払う姿を本越しに盗み見る。
始めて彼と出会ったのは五年前だった。
橘華のオープンスクールに行った帰り道、駅へと向かう途中に夕立にあった日。
他の子達は親と一緒に傘に入ったりしていたけれど、一人で参加していた私は雨に濡れつつも駅舎まで走り抜けた。
駅のホームでぐしょぐしょになった小さなハンカチでしきりに、髪を拭うに濡れ鼠のような私に、何も言わずに水色チェックのハンドタオルを渡し、気恥ずかしそうに別の車両に飛び乗った男の子。
ハンドタオルの隅に小さく、T.Tの刺繍が施されていたのをみて、どんな名前の男の子なんだろうかと百面相のように顔色を変えながらしきりに考えていたことが懐かしい。
中等部一年生の時のまだ残暑も残った二学期の初めごろ。
私がたまたま寝坊して、いつもより一本遅い電車に乗った時、同じ駅の反対側にある広島聖望の制服を着た少し大人びた彼がいたのを見つけた時は、驚いた。
しばらく会わなかった彼は少し大きくなっていた。
男子三日あわざれば。なんていうけれど、本当に大人びて見えるようになっていた。それから二年半、出会った時は私と同じくらいだったのに、気がつけば私が少し見上げるくらいに大きくなっていた。
ほんとに男の子の成長は早いななんて思う。
今もまだであった時の澄んだ少年だったのに、いつの間にか『男の人』に見えるくらいには成長していた。
その日以来、親の駅の送りも適当な理由をつけて断るようになって、次の日からわざとゆっくり駅まで行って一本遅い電車に乗るにもなった。
彼にいつかハンドタオルを変えそうと心に決めていまだに私のカバンの外ポケットに入ったままだった。
彼はいつも気怠そうにスマートフォンをいじったり、少し寝癖の跳ねた頭のままで単語帳を開いたりしている。
けど、そのおかげで中学二年に上がってすぐの頃、単語帳の隅に太いマジックで、『棚倉珠樹』と書いてあるのを見つけられた時は少しだけ嬉しかったのを覚えている。
そして、今、真新しい聖望の高等部の制服を着た珠樹くんの姿はとても凛々しく見える。
本の内容なんて全然頭に入らないくらいには、彼の事が気になり、視線を殺して物憂げな彼の姿を盗み見る。
同じ電車に乗ってから、毎日のようにハンドタオルを変えそうと思っているのに、その機会が現れない。
きっと彼も、私にハンドタオルを貸したことなんて、もう覚えていないのだろう。
それに、私があの時の女の子だとは思っていないのだろうと勝手に思う。
元々目が悪かった私は、いい機会だからと中等部入学前に水色のセルフレームの眼鏡を掛けるようになった。それと共に、少し背伸びしたくて髪を伸ばすようになった。
彼といつかであった時に大人な私でお礼を言いたかっただけの単純な理由だ。
けれど、やめた。私が一歩を踏み出すために。
突然髪をバッサリ切って、眼鏡もやめた私の事は、彼の瞳にどんな風に映っているのだろうか。
高校デビューしたとでも思っているだろうか。それとも失恋でもしたと思われているだろうか。それともそもそも彼にとっては私なんかただの景色の一部なのだろうか。
でも、どう思われてても関係ない。
今日こそは、彼に気付いたもらうために。
少し背伸びして書店で買った、全く頭に入って来ない堅苦しい新書の文章に目線を上滑りさせながらその時を待つ。
電車はやがて人が多く乗る駅へと滑り込み、多くの人を吸い込んでいく。
ボックス席も、ドラマで良くみるような都会の電車のような向かい合った座席もいっぱいになり、押し込まれるように私達の間に何人も流れ込んでくる。
正直この時間は好きではない。今ちょうど入ってきた大きなエナメルバックを担いだ学生は邪魔だとさえ思う。
けど、この時間のおかげで私は本の事を気にせずに彼の事をよく観察できるのは有り難かった。
中学三年の夏休み明けから、急激に背の伸びた彼は、人込みの中でもよく見えるようになっていた。すぐに大きくなる男の子はずるい。
私なんか中学校二年生からほとんど伸びなくなったのに。と、言ってもしょうがない小言が湧いてくる。
目を離しているうちに、いつの間にかスマホを仕舞いこんで、もうすぐ降りる駅だというのに目を瞑る眠たそうな彼に図らずも不意に視線を奪われる。
ひとり頬を上げる自分を気持ち悪いと思う私を乗せて、電車は私達の学校がある最寄りの西広島駅のホームに速度を落としながら滑り込んでいく。
『西広島、西広島です。お出口は左側です』
アナウンスの後、ドアが開き、たくさんの人が降りていく中で、私も本を慌ててカバンに仕舞い込みながら出入り口を降りて、改札へと向かう。
この時間だけは、彼の事なんか考える余裕もなく、少し必死になる。
私より大きな人達をかき分けながら降りるのはなかなか骨が折れる。
私と同じ制服を着た子達や、通勤途中の大人の人達の人波に逆らわずに、階段を上り、連絡通路を歩く。
「あっ……」
カバンについている通学定期のパスケースに手を伸ばした時だった。
カバンのチャックを閉め忘れているのに気づいた。
さっき本をしまう時に慌てていたせいだと、次は気をつけようを自戒して、改札を目指す。
今日も彼にはなんにも言えなかった。
結局、どれだけ外見を変えようと、中身まではそう簡単には変えられない。
地球の気候が変わるくらい、誰にも気づかれないようなスピードで変えていけばいいともっともらしい言い訳を頭の中でこねくり回しているとき時だった。
「あ、あの!」
少し高い、声変わりしたてのような男の子のようだ。
誰かを呼び留めているように聞こえた。誰かの落とし物か何かを拾ったのかもしれない。きっと心の綺麗な男の子なんだろうと思う。
その声を聴きつつ、少しだけ早足で改札へと向かう。
彼の生活リズムに合わせたせいで、学校に着くスクールバスの時間に余裕がなくなっているからだ。
今日は一時間目がいきなり私の嫌いな数Aの授業だなぁ。とか、当たられたら嫌だなぁ。とか、そんな学生なら私以外でも考えるだろうことを思い浮かべていると、
「――た、玉村侑奈さん!」
私のフルネームを呼ぶ中世的な男の声が駅舎に響く。
その瞬間、びくんっと私の足が固まった。
きっと金縛りっていうのはこういう状態の事なのかもしれないと、やけに冷静な頭の思考を断ち切って、すこし固まったままの踵を返して振り向いた。
「はぁ、はぁ――っ」
肩で息をしているせいで、僅かに揺れる前髪を気にしながら、私を見つめる男の子。
その手には、私が大事にしている桜色の栞の持っていた。
「あっ……。それ、私の」
思わず声が漏れる。
どうやら、私の落とし物を拾って、肩で息をするくらいに走って私の落とし物を持って来てくれたようだった。
「あ、あの、この栞。落としたと思って……」
見た目は少し大人びても中身はあの時と変わっては居ないようだった。
その事が私の心音を加速させてゆく。
それなのに、
「私の名前。大声で呼ばないでください。同級生だっているんですから……」
天邪鬼な私の心は素直になってはくれない。
申し訳なさそうな彼の顔に心が痛い。
私があと一歩素直になれたなら、こんな冷たい言葉なんか出なかっただろうに。
もう少し心の準備ができていたならば、ちゃんと笑えたのに。なんて今考えてもしようがない後悔が胸の奥に湧いてくる。
「ごめん……。でもたぶんいつも持ってるから大事な物だ――」
「――でも」
だからこそ、このチャンスに、ありったけのの気持ちを乗せる。
「でも、嬉しかったです。これ、こんなボロボロでも私にとっては大事なものだから」
そういって、頭を下げて彼の手にある栞に震える手を伸ばす。
栞に手が当たると共に少し硬い節に手が当たり、ちゃんと男の子の手なんだと、私の心音がまた少し早くなる。
その事を、珠樹くんには気づかれたくなくて、私は駆けるように改札を抜け、エンジンの掛かったスクールバスへと飛び乗った。
どうか、私の心音が早鐘を打っている事を珠樹くんに気付かれていませんように。と信じてもいない神様にささやかな願いを込めて。
私の跳ねる心音をバスのエンジンがかき消していく中で、さっき渡してもらった栞をほのかに握り込む。
今度こそ、いつの日かハンドタオルをちゃんと返そうと心に誓って、いつものように素直になれない私を乗せたバスは学び舎に向かって走り出す。
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