時は巡って
竹宮千秋
Perspective 1
休み明けで、まだ覚醒しきっていない目尻を擦りながら、車窓から春の瀬戸内海の上る朝日をおぼろに眺める。
これが、中高一貫校に通って四年目の朝のルーティンになっていた。
元々自分が行きたいわけでもなかったが、母方のおばあちゃんが強く希望したのだ。
それを叶えようとしただけに過ぎない。
としても今日は金曜日だ。今日一日乗り切れば週末になるというささやかな解放感だけが心の依り所だった。
自分のおばあちゃんはとても聡明だったのを覚えている。何を聞いても適切な答えが返ってくるし、手先も器用で、マフラーやセーターといった防寒着なんかはなんでも作ってくれていた。
聞けば、母方は元々地元の有力な土建業を営んでいて、その時代には珍しく一人娘だったおばあちゃん自身も広島市内の有名な伝統ある私学の中高一貫校に通っており、
そこで色々な礼儀作法なんかを学んだし、年相応の恋も出来たと昔、優しい笑みを浮かべて私に言っていた事があったのを思い出す。
六年前の事だ、その祖母の体には癌が見つかった。
ステージは3ということで、かなり進行が進んでいたため、家族でどうするか相談しながら夜を明かした事があった。
結局、私達家族は延命治療を希望した。
しかし、おばあちゃんはそれを強く拒んだ。
「色々な管につながれて生きながらえて、金を食う位なら、私のまま美味しいものを私の口で味わいながら死んでいきたい」
そういって、おばあちゃんが私に初めて見せた強い気迫の迫った真剣な顔が今でも忘れない。
結局、一年後、祖母の希望通り延命をせずに最後はモルヒネを投与されつづけ、 終末期の癌患者用のホスピスでモルヒネによる偽りの静寂の中で、苦しむ事なく亡くなった。ある意味では幸せな最期だったのかもしれない。
亡くなる三週間前の事だった。私が小学校からお見舞いにと電車に乗って30分程乗ったところにある駅から、バスに乗り換えて十五分。
瀬戸内海を望める終末期病棟の一室で、おばあちゃんに言われた一言。
「将来の事が決まってないなら、広島聖望を受験しなさいな」
と、いつものように穏やかな声でそう言われた。
小学校5年の段階で、将来の夢が決まっているようなキラキラした子供ではなかったのだから行くことには反対は無かったが、一つだけ気になる事があった。
なぜ、他の中高一貫校ではなく、聖望なのか。ということだ。
聖望は5つある広島市内の男の行ける私学の中でも真ん中のクラスだった、大変というわけでもないが、簡単というわけでもない。平均より少し上といったランクだ。
それなのに、その事をたずねる前に祖母は鬼籍へ入ってしまった。
私に大切な人からもらったと言っていた学業成就のボロボロのお守りと、「なぜ聖望なのか」という疑問を私に残して笑顔を浮かべて旅立った。
結局その答えは分からないまま、四年の月日が経った。
一年間熱心にみんなが遊んでいる時に塾で勉強を重ねた甲斐あって、特に何の問題もなく聖望に入学した俺は、今日までずっと、一時間半の通学をしている。
毎日、本を読んだり、適当にスマホで惰性のままに続けているソーシャルゲームに興じたり、その日ある授業の小テストに向けてパラパラと単語帳をめくるだけの時間。
――だけど、四年間欠かさず胸が躍るような唯一の楽しみがある。
『間も無く宮内串戸。宮内串戸です。降り口は左側です』
その時の始まりを告げる電車の無機質なアナウンスと共に窓を向いていた自分の視線は無意識にドアに向かう。
これから通勤するであろうサラリーマンや、オフィスカジュアルなOL、広島市内の公立高の制服を着た学生達の中、一人だけ異なるセーラー服を着た女の子に目が奪われる。
セーラー服の胸元に碇とも羽ペンともとれる校章が遠慮がちに刺繍されたオールドスタイルの制服に、薄紅色のスカーフ。広島の中高一貫校で、亡くなった祖母の母校である『広島橘華』の高等部の制服だった。
さすがに祖母のころと比べると現代的な制服に変わったらしいが、それでも他の公立校に比べるとどうしても前時代的に見えてしまう。
そんなクラシカルな制服を綺麗に着こなし、肩の位置で切りそろえられた綺麗な黒髪、そして、中等部の時までは、淡い水色の大きなセルフレームの眼鏡をしていた綺麗な双眸を持った女の子。
どうやら、高等部に上がるタイミングでコンタクトにしたらしい。
眼鏡に低い位置で揺れるおさげだった時も可愛かった。他の人は気づいていない魅力を自分だけが分かっていると思っていた。
けれど、春休みが終わり、高等部に上がった彼女は真新しい制服にも負けないほどに一層綺麗になっていた。俗にいう高校デビューというやつだろうか。
誰かに彼女の可憐さを気づかれる前に声を掛けられない自分は意気地なしだ。
そんな自分を呪う。大嫌いだ。
だけど、そんな自分を変えられるほどの勇気はない。
制服の衣替えや、学年章を変えるように簡単に変えれたならどれだけ楽だっただろうか。
もやもやと自分の気持ちを隠したまま、向かいの背かけに背中を這わせて、文庫本本を開く彼女の立ち姿を、スマホを見ているフリをしながら横目で見る。
今日は、学校の図書館の隅でほこりをかぶっているような岩波文庫の堅苦しそうな新書を読んでいるようだ。
正直彼女の読んでいる本は雑多で統一性がない。二日に一回のペースで本の表紙が変わるくらいには速読派のようだ。
あるときはライトノベルのような本、またある時は太宰や坂口、梶井基次郎のような人間臭い作風の古典小説を、そしてある時は現代作家のミステリーや伊坂幸太郎や石田衣良といった自分のようなさえない若い男達が悩みもがくような群像劇を。
とにかく統一性がない。
ただ、一度として、単語帳の類を開いている姿を見たことがない。
彼女はいつ勉強しているのだろうだとか、きっと電車の中で勉強する必要がないくらい普段から真面目に勉強しているのだろうとか、それともはなから勉強する気がないだろうかとか、そんなどうでもいいことばかりが頭に浮かんでくる。
どうでもいい妄想とも呼べる事で時間を費やしていると広島駅に近づく度に車内の密度が上がっていく。
決まって私達は出入り口とは反対側、三両編成の三両目、その前側のドアに向かい合わせで立っている。
この近くて遠い、二人の間合いの間に、出入り口から乗る人波に押された大きなエナメルバッグをもった高校生が私達の間に割ってくる。くそっ、邪魔だ。でかい図体しやがって……。
そう心の中で毒づいてスマホ越しに見る彼女は表情を崩さず本に集中していた。
急にスイッチの入った車内空調の風に彼女の前髪がたなびく姿もとてもおぼろげで可憐に見える。
電車は広島方面へ廿日市、五日市、新井口と広島市内に近づくにつれさらに車内の密度が上がり、向かいの彼女の姿が完全に見えなくなった。
『次は西広島、西広島です』
密度が最大になった電車の中で、降りる準備を始める。一時間弱の電車もこれで終わりだ。自分と彼女は同じ駅で降りる。駅を挟んで東西に学校があるからだ。聖望は市内がある東側、橘華は山側の西側にある。
駅のホームで見納めだ。また今日も難解な授業を右から左に通過列車のように聞き流す一日が始まると思うと憂鬱で仕方がない。
ゆっくりと電車が減速し、ホームへ止まり、空気の抜けるようなコンプレッサーの音と共に反対側のドアが開き、人をかき分けて降りたった時だった。
「すいませんっ!降ります!」
澄んだ声で申し訳なさそうに彼女が声をあげ、人をかき分けながらホームになんとか降り立つ。
そして、いつものように、本を仕舞いつつ改札口に歩くのが目に入る。
そしてそれを何をするわけでもなく、一定の速度で歩く彼女の後姿に目線を釣られて、人波にさらわれて姿が見えなくなった後、いつも通りスマホで飽きたゲームを起動させようと視線を下に落とした時だった。
ホームに綺麗な桜色のラミネートされた栞が落ちていた。
拾い上げると同じような紙で元の持ち主の名前を同じような色の紙を上張りされた後に、小さいけれど綺麗な達筆な字で『玉村 侑奈』と書かれている。
どうやらそれが自分が四年間想いを募らせている人の名前らしい。
なるほどあの子にはぴったりな名前だ。と思うのも束の間、俺は駆けだした。
改札へ向かう人の間を縫って彼女の元へと走る。
きっと四年間毎日、この栞を使っていたのだ。恐らく彼女にとって大事なものに違いない。
「っつと――。すいません!」
手に持ったスクールバックが追い抜いたサラリーマンのに当たってしまったのを謝りつつ先を急ぐ。普段使っている改札と反対側の改札に走る。
こんな事なら体育の時間の持久走で、もっとまじめに走っておくんだったとか、短距離もそんな速くないし。と自身のどうしようもない振り返りをしながら、連絡通路の階段を駆け下りると、彼女と同じようなセーラー服の女子たちの中でもはっきりとわかる彼女の後姿があった。
もうすぐ改札をでようとしているところだった。
「あ、あの!」
諦め半分で大声で呼び止めても彼女が止まる気配はない。
どうしようか僅かに逡巡して、心を決める。
「――た、玉村侑奈さん!」
僅かに上ずった声て彼女の名をフルネームで叫ぶ。
周囲の人の視線が一気に寄せてくるのを感じる上に、
初めて異性の名前を大声で叫んだということもあり、顔が紅潮して熱くなるのを感じる。
走ったせいか、彼女の名を呼んだせいか、心音も早鐘を打ち、止まってはくれない。
その中で、ビクンと何かに打たれたように動きを止めた女の子が一人。
この栞の持ち主で僕の想い人だ。
「あ、あの、この栞。落としたと思って……」
遠慮がちにそう伝え、手に持った栞を彼女へ差し出すと、僅かに首筋に朱が差した彼女がこちらを向いて視線が交錯する。
眉が少しへの字に釣りあがっていて、一瞬身構える。
「私の名前。大声で呼ばないでください。同級生だっているんですから……」
少し絞った声、けれどはっきりと不機嫌を示すような棘のある声色で呟くように言われる。
「ごめん……。でもたぶんいつも持ってるから大事な物だ――」
「――でも」
自分の言葉を遮って、への字の眉が緩み彼女は破顔する。
「でも、嬉しかったです。これ、こんなボロボロでも私にとっては大事なものだから」
手に持った栞が彼女の手に渡る時、僅かに柔らかな感触が人差し指に触れ、電撃が走ったような感覚に襲われた。
「だから、ありがとうございます」
丁寧に頭をぺこりと下げられて、髪の毛がふわりと逆立つように揺れる姿に見惚れているうちに、彼女は改札を抜けていくのが見えた。
先程よりは明るい足取りで、ロータリーのスクールバス乗り場へとかけていく彼女の後姿。
僕の心音はさっきよりピッチが速くなっていた。
いつまでも落ち着く事のないままに、熱い頬の熱を感じながら、ただその場に立ちつくしていた。
脳裏から僕に向けられた澄んだ笑顔が離れることがないままに、始業時間を迎えていたのだった。
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