第一話「触」(2)


 あれからもう何時間経ったのか。

 愛情を注ぎ育てたアヒルの一羽を絞め殺し、足を断ち、舌を抜き、手羽先を断ち、内臓を抜き出した。料理としての品格を出すために、余分なものは取り除く。余分な味を出さないために臭みの強い部分は取り除き、添え物として別に料理する。肉は柔らかく、それでいて皮はパリパリに。食欲をそそるものはなにも匂いだけではない。見た目の美を追求することも、この地方の料理の特徴だ。

 家畜達の寝床の横に、灼熱の炉はあった。厨房と寝床の隔たりは、薄い壁一枚だけだ。その貧相な壁よりもよっぽど薄い扉を開けて、寝床の隅に設置してある炉へと肉を放り込む。直火で直接炙るのだが、この炉には扉なんてものはない。そのため睿はせめてお客様に煙が向かないように、この部屋に炉を構えていた。

 本来ならばもっとしっかりとした設備を用意しなければならない。下手をすれば火事、そうでなくても煙の不始末という問題もあり得る。だが睿にはこの設備しか用意することが出来なかった。遠い親戚から貰い受けた中途半端な設備だけで、あとは睿の技術だけでこの世を生き延びなければならなかったのだ。ましてや今、金銭的な負担を掛けるわけにはいかなかった。

 睿はアヒルを絞め殺しながらこれから生まれてくる命のことを考えていた。愛しい妻との間に出来た、まだ姿も見えぬ最愛の存在であった。妻の腹からまだ出ることはないが、確かに宿った命だった。暖かいその存在を受け入れる準備を整えるためにも、今回の上客はなんとしてでも繋ぎ止めなければならなかった。

 その身を焼く炎を育てながら、己の手の内の命の灯を吹き消す。ギリギリと絞め殺すその時も、アヒルは抵抗することはなかった。まるでこんな家畜ですら、この薄い扉を隔てた向こうにいる存在に気付いているかのようだった。我々人間などよりよっぽど、彼等は自然に近いモノなのだから当然と言えば当然かもしれない。

 『龍』は、力の象徴であった。言うなれば神。もしくはソレと等しく、天上の存在であった。

 その姿を見た者は稀で、皆が皆『人でありながら人ではない、霞のような存在であった』と語るという。彼等が現れるのは戦場でも宮廷でもなく、食事場であった。

 龍は『飢えている』のだ。人ならざる神にも等しい力を持ちながら、己の腹を満たす存在を己では遂に手に入れることが出来なかったのだ。龍は、求めている。己の腹を満たす極上の味を。

 味は、材料でも料理法でもなんでも良い。とにかく腹を満たす料理を提供出来れば、その龍の加護を料理人は受けることが出来るのだ。そこにどんな道徳も情も必要はなく、得てして龍という人ならざる存在は、人間の抱く負の感情に強く惹かれるようであった。

 睿は鼓動の止まったアヒルに刃を当てながら、薄い扉越しに龍を見た。睨み付けた。睿は彼からの要求を呑む。だが、その要求がいつか――愛しい存在に向かうであろうことが、何故か理解出来てしまっていた。

 理解は出来ていた。愛する妻を逃がす方法ならばいくらでもあったはずだ。

 まだ温もりの残るその身体から内臓を引き抜く。鼓動の止まった心の蔵をその手に乗せた時、心の芯がすんと冷えたようだった。指先だけでなく胸の奥底まで料理人という存在になったような、そんな不思議な感覚だった。

 声にならぬ悲鳴を上げたかったであろうその舌と共に、添え物のために別の皿に避ける。どろりと置かれた赤の塊が、どくんと震えたような気がした。

「……」

 料理という作業にも、たくさんの工程が存在する。なかには盛り付けるための食器の用意までも含めて『料理だ』という人間だっているだろう。見た目の美を追求しなければならない睿にとっても、その気持ちは大いにわかる。

 そして料理において『味見』という工程も決して怠ってはならない工程だ。それが塩胡椒だけのシンプルなものであっても、高級食材をふんだんに使ったスープであってもだ。

 下処理の終えた肉の塊は、もう炉に放り込んだ。焼き上がるまでの長い時間を、龍達は苦もなく待ってくれるだろう。彼等に『時間』という概念は皆無だ。人とは違う時間を生きる彼等に、ほんの数時間も数日も微々たるものであろう。

 まだ生暖かい、空気に震えるソレに睿は手を伸ばす。鼓動を刻むことすらしない赤に包まれたその臓物は、龍からすれば極上の味となりうるのか。

「極上の味……」

 ごくりと、喉が鳴る。

 ごく自然に湧いたその欲求に、睿は疑問を抱くことすら出来なかった。

 『これはお前の愛を受けた血肉』

 心に浮かんだ声に頷き、既に汚れた己の手で、その臓物をそろりと撫でた。毟った時についた毛がまとわりついたままの指先が、濃密な赤で染まる。ぬめりと滑る感触からは、温もりが消えつつあることがわかった。鼻の曲がるような血肉の香りは、どういうわけか気にならなかった。

 睿はいくらか躊躇してから、その極上の血肉を摘み上げる。臓物はお客様への献上品だ。手をつけるわけにはいかない。これは味見だ。味見。味見。味見。

「味見……味見……」

 ぷらんと摘まみ上げた筋繊維を、生のまま戴く。ずるりと麺をすするようにして一本。ちゅるりと口元で暴れた先端が、睿の純白を汚した。

 強烈な生の味がした。

 主人の狂気に染まった行動に、家畜達は怖れ慄き、壁際の寝床へと身を寄せ合った。彼等は動物。気付いたのだ。主人がこれまでの『人間』ではなくなってしまったのだと。

 龍は人を『特別な存在』に変える。龍の寵愛を一身に受けるそのたった一人の人間は、人の世では革命を起こし、天上人となり、魔物となり、人ではなくなるのだという。龍にとっての『特別』が、人間にとっての『利』であるという保証はない。

 扉の向こうの存在に意識を飛ばしながら、睿は愚かなつまみ食いを続けた。炉の中の肉がパリパリに焼き上がるまで、その行為は続けられ、炉からズタズタに引き裂かれた胴体を取り出しながら、睿はこれまで感じたこともない興奮に身を焼かれていた。

 純白の衣を汚しながら、それでも睿は厨房にまるで何事もなかったかのように戻ると、無心で料理を仕上げていく。隣室に漂うどす黒いモノには、気が付かないふりをし、扉を閉めて蓋をした。吐き気を催す邪悪なる空気も、燻ったまま爪を研ぐような煙も、怯え切った家畜達の言葉なき声も。

 メインのアヒルを取り巻くように、饅頭や餃子、添え物を飾り付けていく。設備も食材も足りないこの店での、最高級のもてなしであった。

 隙間風が吹く窓からは、未だ陽の光が差している。龍の待つこの店に、現世の時が流れるはずもなく。妙に疲れることのない身体を引き摺って、睿は極上の料理を円卓に運ぶ。

 彼等は店の中央の円卓に座ったままだった。まるでそこが彼等の為の舞台だとでも言うように。その円卓を中心とした空間と成り果てていた。美しい妻の姿は、どういうわけか目に入らない。

「これはこれは……素晴らしい」

 男は、龍のものとも人のものとも思えぬ唸り声を上げ、そして取り繕ったかのようにそう述べた。歪に歪んだ口元は、既に人ならざるものへと変貌していることにも気付かず、己の食欲を満たすであろう極上の料理を目の前に、子供のように瞳を輝かせている。

 そんな男の隣の席で、本物の子供は対照的に、哀し気に睿を見るのだった。

 龍は人とは程遠い存在だ。それは人だけではなく、この世に存在するあらゆる動植物からとも遠い。天から与えられしこの命の理から、彼等は著しく離れている。

 龍は子を孕まない。自らの分体とも兵隊とも呼べる存在を産み出すことは容易いが、己の血を分けた存在を産み出すことは容易ではなかった。龍の愛は愚かしい人間のみに注がれるために、龍という種同士での子を成すということは、極めて稀なことであった。

 これは天から与えられた一種の罰なのだろう。その昔、力を持ち過ぎた龍という存在を危険視した天界の神は、愚かなる種族である人間へその歪なる愛の矛先を変えた。愛は文字通り、矛であった。人の身体に龍の種子は宿らず、そして耐え兼ねた身体が崩壊する。そこに雌雄は関係なく、龍に見初められた人間は一様に死を迎えた。

 永い永い時のなかで、龍は悟る。人の愛し方を。愚かで愛しい人間の身体を貪りながら、それでいて自らの身体を痛めぬように。愛はいつしか食欲へと変わり、本当の意味で人を愛する龍などいなくなってしまった。

 龍は、子を成すことが出来なくなった。とてつもない長寿を誇るその存在も、いつしか終わりの時が来るのだ。それを彼等は、おもしろおかしく迎えようというのだろう。

 そんな彼等に、どういうわけか、子供がいるのだ。欲望に染まりきった赤の瞳には、子供への愛情なんてものは感じられず。大きな愛らしい瞳には、何の感情も浮かんでこない。だが、その子供は飢えていた。瞳に感情が湧かなくても、腹の底から滴る飢えからの雫が、子供の口から零れていた。

「極上の味ですな」

 龍が肉を頬張りながら感嘆の声を上げた。

 それはそれは美しい、肉であった。丹精込めて育てた一羽のアヒルが、酷く歪んだその口へと運ばれ、そして飲み込まれる。睿が手に持つ刃など、彼等には最初から必要なかった。

 だが、彼等は睿に手間を掛けさせた。己の愛情を注いだ肉に、己で刃を突き立てることを望んだ。元から料理人が皮を削ぎ落す料理ではあったが、それですら異質な工程であるかのように。

 これから“毎日”幾度となく聞くことになるその言葉に、睿は知らず知らずのうちに頭を垂れていた。

 それは無意識からの敬服であるはずだった。しかし、睿の心に渦巻いている感情は龍への服従ではなかった。

 『これはお前の愛を受けた血肉』

 その言葉が呪詛のように、睿の胸で炎を宿していた。

 いつか来るであろうその時を想いながら、手に持ったままでいた厚口刃を握り締めていた。手についたままの血肉の香りは、睿の鼻には届かなかった。

 いつか来るであろう贖罪の時に、睿はこの刃を握ったままでいたいと、そう願っていた。

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