食罪人

けい

第一話「触」(1)


 極上のお客様が感嘆の声を上げたのは、睿≪ルイ≫が手に持った厚口刃で肉の足を叩き切った時だった。

 灼熱の炉で直焼きにされたこの肉の正体を知っているのは、料理した≪手に掛けた≫睿だけのはずだった。

 明暗爐のための設備に視界を遮る扉なんてものはなく、睿の目の前でこの肉は命を焼き、削ぎ取られていったのだ。

 本来使うはずのアヒルならば、この工程の前に足も舌も手羽先も全て取り除かれているのだが、この極上のお客様が求める食材は違う。生物本来の見た目≪カタチ≫をそのままに、焼き、断ち、喰らうのだ。

 心を掻き毟る“悲鳴”を殺すために舌は抜いた。喉の奥から引き抜いた愛を語るソレを、添え物として別に料理する。

 極上のお客様がこだわるのは、その料理の美と、酷だ。

 “彼等”がこの小さな店の常連となってからというもの、睿の愛を注いだものは全て等しく肉となった。

 四羽のアヒルに、一頭のブタ。これらは最終的には食材としての使用を考えてのものではあったが、愛情がないというわけではなかった。丹精込めて育てた、いわば子供のようなものだ。それが今はもう、残り一つの血肉を残すのみだ。

 お客様に料理を提供する料理人として、睿は彼が望む全てを差し出した。丹精込めて育てた肉に、与えられた“刃”が確かな働きを見せ、そして睿が職人の技で極上の料理へと昇華させていたのだ。

 都の方では宮廷料理とされるこの地方の料理だが、睿の腕は確かに“高貴なお客様”の心を掴むだけの技術を持っていた。貧困層出身である睿には、この小さな料理店を維持するだけで精一杯で、愛しい妻が身体を切り売りしてようやく、この唯一にして極上の上客を繋ぐことが出来ている状態だった。

 縁起物として、そして何より妻が好きな色である赤を基調とした店内は、シンプルでいて狭苦しい。大きな円卓を置いたおかげでその一卓のためだけの店になってしまっているが、その通りなのでもうこの際何も思わない。

 入口から入ってすぐに円卓、目隠しのための壁を挟んで厨房と、お世辞にも広いとは言えない空間に、今日も極上のお客様は座っていた。




 “彼”は『龍』であった。

 人ならざる、高貴なる気配を漂わせたその“男”は、息子とも娘ともつかないなんとも言えない“子供”を連れて、“二人”でこの店に現れた。この店に来るまでの間に他にも料理店はたくさんあったはずだ。人里から離れたこの土地よりも、少し山を下ったところにある都には、それこそ料理店なんて腐る程あるのだ。

 しかし、彼等はここを訪れた。それは人で言うところの『金持ちの道楽』で、『人ならざるモノ故の道楽』は人知を超えたものであった。

 その日、山の中にある店の前に睿は出た。それは何かの導きであるかのように。滅多に来ない客のために、愛しい妻は料理の仕込みを終えた鍋を見ていてくれていた。都での商いが許されるには、睿は資金も生まれも足りなかった。それでも睿は、富や名声より大事な愛という宝物を手に入れていた。

 暖簾越しに見た妻の艶やかな黒髪が微かに霞んだのを、睿は鮮明に覚えている。それは一瞬の出来事で、目の錯覚か、それとも少し疲れが出ただけだと、その時の睿は思っていた。人ならざるモノが現れた兆しなど、微塵も疑わなかった。

 その男は宮廷の者とも見違える程の、豪奢な身なりをしていた。帝なんて存在は文字通り雲の上の存在であったために、睿は顔も知らない。だがきっとこの男は、それらと同じ程の位ではあろうと半ば本能から感じ取った。

 男は中年の気品ある顔を貼り付け、その口元には薄い笑みを携えていた。この大国の人間にしては少し背があるように見える。子供を連れた男が店の前、睿の目の前に立つ。

 少し緑の色合いに染まった髪は短く切りそろえられており、年齢のためか少しばかりふっくらとした体格をしている。比較的小柄な人間の多いこの大国では平均的な身長である睿とは、やはり少々差が開いている。見下されるような視線を露骨に感じ、睿はどう反応するか対応を決め兼ねる。

 お客様として扱うには些か不愉快なその視線に顔を上げた時、睿の目に飛び込んできたものは、男の柔和な微笑みであった。

 男は穏やかに微笑みながら、その細められた目で睿を見ていた。見ていただけだった。それなのにその瞳は、まるで睿のことなど――人間のことなどどうとも思っていない、侮りきった天上の光を湛えていた。

「この店で食事をしたいのですが、お願いできますかな?」

 男はそう一言言って、睿が返事を絞り出すのを待ってくれた。睿が気付いたことに、男も気付いているようだった。彼は『人ではない』と。

 男の隣、手を繋がれた子供が真っ直ぐこちらを見ていることにも睿は気が付いていたが、返事を返すだけで精一杯であった。彼等は人ではない。

「ちょうど仕込みは終わっております。どうぞこちらへ」

 暖簾を手で押し上げながら、お客様をお通しする。厨房の中から愛しい妻が顔を出して笑顔で挨拶を告げようとし、その途中で彼女も気付いたようで声を震わせた。

 恐怖に染まったその顔が、格別に美しいと思った。その時はそう思った自分を恥じたが、きっと――男もそう思っていたに違いない。

 卑しい生まれ故の長年の苦しい月日により、その美貌には多少の陰りはあるかもしれない。それでもその陰すらも色気と見紛わせる、絹を思わせる白肌に、強い意思を感じさせる瞳。そして艶やかな長い黒髪が、男の視線に晒される。その視線か、それとも言い知れぬこの男の気配にか、妻は身体を庇うように両腕でそっと自身を抱き締めていた。

 男の隣で子供がぐいと彼の腕を引っ張る。余程お腹が減っているらしい。子供も豪奢な身なりをしている。好きな色なのか、赤の刺繍の入ったその衣装は、その細くしなやかそうな体躯に良く似合っていた。子供は高身長というわけではなさそうで、おそらく十代半ば程度の年相応らしき身長をしている。顔が小さく愛らしい目をしているためか、性別が読み取れない。

 男と子供を店の中心の席に座らせ、睿は厨房に向かう。何かに導かれるようにして外に出たのだ。料理支度の何も出来ていない。仕事着に着替えるために厨房の奥の扉を開けて、店と続きの居住スペースに足を踏み入れる。

 昼間のこの時間に、ここの扉が開かれることは稀である。唯一の開かれるタイミングは、店に客が来た時だ。その意味するところを理解している“同居者”達は、物言わぬその瞳に一様に恐怖の色を浮かべていた。

 睿は居住スペースに四羽のアヒルと一匹のブタを飼っていた。店と同じく広くはない室内。夫婦のための寝室と、家畜のための寝床しかない質素な空間は、色彩に乏しく所々に隙間風すら吹いている。家具は最低限、厨房は店のものをそのまま使うために必要はない。そもそも繁盛もしていないのだから問題なかった。

 夫婦と寝食を共にする家畜達は、料理の材料に他ならない。客が入る時間に扉が開かれるということは、この空間から材料として出されることを意味していた。愛情込めて育てた家畜達には、睿の考えていることも伝わっているのだ。そして家畜等もまた、抵抗することはないのだった。

 着替えだけ済ませて厨房に戻る。料理を提供する者として、最低限の身だしなみは必要だった。汚れのない純白の装いが、これから汚れていくことになる。油に、血に、臓物に汚される。それこそが料理人の仕事だ。短い黒髪が料理に入り込まないように、頭にも白を纏う。純白に覆い隠される黒髪を、妻はいつも褒めてくれていた。

 料理人の装いとなった睿を見て、妻はその魅惑的な唇を噛み、男はわざとらしいまでの拍手で迎えた。子供はただ、こちらを見ている。鮮やかな深紅の色の瞳からは、不思議なまでに感情が見えない。性別と同じくその心の奥底までもが、霞がかっているようだった。

 愛しき妻は平民の装いをさせていても美しいと思う。それは睿だけでなく男もそうであったようだ。蔑みではなく情欲の色が、その瞳に浮かんでいる。子供の横で浮かべるには、場違いな笑みを男はしていた。

「私に君の料理人としての魂を見せてくれ」

 場違いな笑みを浮かべたまま、男はそう言った。場違いな笑みを貼り付けた口元の上で真っ直ぐに睿を見据えたまま、心を、脳を直接握り締めるかのように言った。

 言葉というものには力があるらしい。男の言葉は睿の心――男の言葉で言うところの『料理人としての魂』というものだろうか――を滾らせ、そして埋め尽くした。ぐちりと、血肉が悲鳴を上げた音が響いた。

 てっきり己の胸の内からの音だと睿は思ったが、ふと手元に目を落とすと、そこには酷く汚れた爪痕のついた、白く繊細な手があった。男への恐怖のためか傍に寄り添っていた愛しき妻の手を、睿は気付かないうちに強く強く――爪痕から血が滴るまでに握り締めていたのだ。

 それは愛であり、恐怖であり、そして――魂の叫びであった。その様子に男は満足そうに微笑み、そして注文を伝える。

「君のその手で絞め殺したアヒルを。血肉に染まった君の料理を食べさせてくれたまえ」

 睿の鮮やかに染まった手と同じ色の瞳で、男はただただじっと、睿を見詰めていた。その視線は手先から離れることがないというのに、まるで胸の奥底まで覘き込まれるような冷たい気配を感じさせる瞳だった。

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