浦賀千賀子の謎

生き馬の涙目という食材は公明正大で神聖なものだとされている。参列者を山ほど集めなくとも心眼馬という特別に改良された品種が号泣すれば十二分に追悼の意を表せる。その涙目が曇るという事は墓場に持っていくべき秘密があるか口封じをされたという事だ。隠れた悪事を暴く道具にもなるため、この食材はよほど高潔な人物でないと使えない。本田宗一郎が病死したという死亡診断書は確定しているので、瞳の曇りは食材の品質管理に問題があるか、デリカット社が事実無根の中傷を行ったとして訴えられる可能性がある。

名誉棄損のそしりは避けたい、さりとて生き馬の涙目は国産でも最高級の薩摩産獅子が馬を惜しげもなく使っている。不良品を認めれば契約農家から風評被害の賠償を求められる。会社としてはどちらに転んでも存亡の危機に関わる。

かといって他殺を断定して探偵を雇ったり警察に相談するなど表沙汰は避けたい。本田宗一郎と近しいデリバリースタッフに内偵をさせることにした。

万が一、何かあればバイトテロで済ませる方針だ。そうとは知らず成田五郎は中目黒にある酒のデリカット本社ビルに向かった。いくら常連客でも親族ではないし警察より優秀なわけでもない。成田は固辞したが黒子に説得された。

クレヤボヤンスの持ち主である成田が最も怪しまれているのではないか。本田宗一郎は酸素欠乏症を患っており成田も同じだ。まず怨恨の線を疑われる。それで五郎は覚悟を決めて真相究明に乗り出すことにした。

黒子は本田のバリウム処置に問題があったのではないかと仮定して関連ある人物を探れと提案した。本社地下に従業員専用のバリウム・クリニックがある。産業医の浦賀千賀子は中途採用されたばかりだ。それ以上の情報は取れない。

そこで成田五郎は受診することにした。検査過程の世間話で背後を探る作戦だ。千賀子はバリウム団地付属病院のブラック体質と安月給に耐え切れず弊社に転職したのだという。そしてもっと条件の良い職場に移りたいと漏らした。

それならばデリカットより厚遇な求人はいくらでもある。診療報酬の多寡などどうでもよく、本当は職務経歴を洗浄したいか、追われる身分ではないか、と五郎は睨んだ。それとなく酸素欠乏症に話題をもっていこうとすると、急に話をはぐらかす。本当は自分から辞めたのでなくバリウム団地にいられなくなった理由を隠しているのではないか。五郎はそう考えた。

気まずい雰囲気のなか、クリニックのドアがノックされ、茶封筒が投げ込まれた。すると千賀子はトイレに行くと言って逃げ出したのだ。

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