青嵐

まゆし

青嵐

 制服が夏服に変わった今日、とても強い風が吹いている。屋上に向かう階段をあがっていくと、紺色の学校指定カバンに付けているチャームが音を立てて、子供っぽい濃いピンクのプラスチックでできた石がちょっと光った。

 きっと〝 青嵐〟なんて呼ばれる初夏の風。カバンを足元に置いてフェンスに肘を乗せて頬杖をつき、少しの葉っぱと何色かの花弁が空を泳ぐ様子を見ていた。なんて書けばいいかわからない進路希望用紙のせいで、どんなに強い風が吹いても目の前のもやは消えない。


 屋上から見える景色を視界に入れたままボーッとしていると、風が唸り地面をさらい、私のスカートが音を立ててはためいた。細かいゴミが目に入りそうになり、きゅっと目を瞑る。止んだ間に目を開けると、フェンスを越えたほんの少しの場所に何が落ちている。こんなに強い風にピクリともしない。不思議に思って、近づき手を伸ばしてみたけれど、届かない。何か引っ掛けるものも見渡したけど無い。どうにも気になってしまう。

 見つかったら飛び降りと間違えられて怒られるのも嫌だし、屋上閉鎖なんてことにもなったら数少ない憩いの場がなくなって困る。だけど諦めきれなくてフェンスを乗り越えて、下校中や部活中の生徒にバレないようにしゃがんだ。身をかがめたまま慎重に進んだら、待ってましたとばかりにすんなりそれは私の手におさまった。

「タロットカード……?」

 なんでこんなものが一枚だけ?裏に何か書いてあったりしないかな?ジロジロ眺めていた時。

「何してるんだよ。危ない」

 男子生徒の声がした。反射的に見やると怪訝けげんな顔をしている。あまりにも誰も来ない屋上だから、見つかるとしたら下からだけだと思っていた。しかも、気になってしまって両手でカードを持っていたものだから、下手をしたら遺書でも持ってるのかと思われたのかもしれない。

「あ、ごめんなさい。すぐそっちに」

 カードをブレザーのポケットにしまい、立ち上がってフェンスを掴もうとした時、風が吹く。

「あ……」

 するりと掴もうとしたフェンスが逃げていき、風が私の身体を抱えて奪うようにふらついた。

「危ないって!」

 後に、一学年上だという伏川夏海ふしかわ なつみと名乗った男子生徒がとっさに私の手を握って、そのまま手を引かれてフェンスの外から中に戻る。お詫びとお礼を述べたあたりから、遅れて心臓が音を立てるように激しく動いた。

「落ち着いて」

 そう言われて黙って地面に座りこむと、先輩も隣に座ってくれた。


「なんか、コレが落ちてて気になっちゃって」

「気になってって。何のためのフェンスだと思ってんだよ」

「落下防止です……たぶん」

「うん、そう。たぶん」

「なんだろ、このカード」

「……タロットカード」

「え、それくらいはわかります」


 心なしか、彼の顔色が悪い。このカードを見て青ざめているというかなんと言うか。しかも歯切れが悪い。占い嫌いとかそんな感じなのかな?そう思っていたけれど、彼はカードを一枚取り出した。


「コレって」

THE TOWERのカードだよ」

「絵が、絵のタッチが同じに見える……」

「うん、そうだね」

「先輩が、落としたんじゃ?」

「違うよ。僕はコレしか持っていない」

「ですよね」

 

 伏川先輩は、伏し目がちにゆっくり立ち上がると「気をつけて」とだけ言い残して屋上の扉のほうへ向かい、帰ろうとした。

「待ってください。ちょっと聞いてほしいんです」

 私が引き止めると、複雑な表情でもとの位置に座りなおした。


 ***


 ──私たちは、いつになったら幸せになれるんだろう。


 私たち人間の身体は、大半が水分。それは胎児の頃からで、子どもになって約70パーセント、成人は約60〜65パーセント、高齢者で50〜55パーセント。

 身体と同じくらい、人生が水で出来ていてもおかしくないのではないかしら。怒りや不安、孤独感。悲しみ涙するのは、人生の大半が水で出来ているのと同じではないだろうか。そんなことを考えていたら、ホームルームのチャイムが鳴った。毎日、机に出しては眺め続けるだけの進路希望用紙は期日が過ぎている。


 両親に相談できないわけじゃない。家の玄関を開けたらすぐに「学校どうだった?」とか「ご近所の鈴木さんがねぇ」なんてママの長話が始まる。自分の部屋にいても、ノックと同時にドアが開いて「アイリ!お土産だよ!」なんてパパが言う。やましいことはないけれど、ノックの後に「はーい」って言ってから開けて欲しい。

 だけどね、パパもママも笑っているなら、いいことだって思ってる。決して忘れることができない悲しみの涙の上で、私たち家族は笑って生きるしかない。夢や目標がなくっちゃ生きていてはいけない?そんなことないでしょ。でも、生きているだけで幸せなはずなのに、実は心はがらんとうで幸せだという感覚はない。進路希望の用紙は、嫌な現実を見せつけてくるようだった。


 私は身近な人の死の上に存在した。産まれた時から双子の兄の死と引き換えに、私は生きている。産まれてこの方、誰も責めることの出来ない苦痛と共に生きている。パパとママの涙でできた暖かくも悲しい色をした培養液で育ってきたし、これからもそうだと思う。

 高校入学を控え、なんとなくアルバムを見ていた時。私の体内記憶についてママが書いたらしいメモが挟んであって、幼児期にそんな話をしたんだと驚いた。

「暗いけど、ふたりだからさびしくないね」

「がんばろうね、がんばろうねってお話してたんだ」

「だいじょうぶだよ、だいじょうぶだからねって言われたの」

 そのあとの一言に、自分でも衝撃を受けた。


「どうして、あいりはひとりぼっちなの?あの子はどこにいるの?」


 幼児とはいえ無神経が過ぎる残酷な純真さでパパとママを傷つけて、癒えない傷をえぐった。胎内記憶があるなしは個人差がかなりあるのに、どうして私には残っていて、それを口に出してしまったのだろう。過去の自分を責めることもできず、呆然とメモを握り途方に暮れた。

「お兄ちゃんのこと、お話ししてくれてありがとうね」

 あの時、ママは肩を震わせながら私を抱きしめてくれた。

 私は未熟児だった。でもその理由が、緊急帝王切開になってしまったことだと知ったあの日。パパはこっそり教えてくれた。ママはずっと自分を責めて、パパと産声をあげない赤ちゃんに泣きながら誤ってたって。新生児集中治療室で、私が息をしていることを確認しながら、泣いてたって。パパはどうしていいかわからなくて、ママを守ることしかできなかったって。「いいかい?君の英名はアイリス。花言葉になぞらえてつけた僕たちの希望だよ。生きて、笑顔をたくさん見せて」パパは青い瞳から涙を何粒も何粒もこぼして言った。パパもママがこれ以上悲しんで苦しまないように、強く生きる決心を固めた瞬間だった。

 だから、生きることが目標。当たり前のことを当たり前だと思うのは、恵まれた人たちだと思う。そういう人たちは、死ぬ時も自分で死に方を選べるとでも思っていそうだ。とはいえ「生きる」なんて書けるわけもなく。進路希望の提出用紙は、何日も何日も白紙のまま放っておいた。


 梅雨入り間近の晴れた日、隣の席に転校生がやってきた。

南雲颯星なぐも はやせです。よろしくお願いします」

 転校生にざわつく教室内で、私は声も出せずに口をぽかんと開けた。そんなに珍しいことでもないかもしれない。近所に住んでいた初恋の男の子で、同じ幼稚園に通い、よく一緒に公園で遊んだ。小学生になってからは同性ばかりと遊ぶようになり、少しだけ疎遠になったけれど。お父さんの仕事の都合で小学校三年生の三学期に引っ越して、以来会うこともなかった。


 小学生の好きになる対象は、かなりの高確率で彼のような運動神経の良い子だと思っている。勉強ができても授業で目立つことは少ないし、先生の言うことをきちんと聞く子も目立たない。体育の授業が一番注目を浴びるし、運動会で一位をいくつも取ったら、すぐ人気者になれる。キャーキャー言う女の子たちを見て「私はもっと前から好きなのにな」と思ったりもした。

 でも、黒板の前に立つ彼は、あの頃の面影を少し残したまま右手に杖を持っていた。

 休み時間になるとワラワラとクラスメイトが集まってきて「お前、あの南雲だよな?」「俺のこと覚えてる?」などと盛り上がっている。やっぱり私だけじゃなかった。彼のことを覚えていたのは。私の通うこの高校は、私立高校でも幼馴染みたいな付き合いの長い同級生は多い。

「この杖、どした?」

 誰かが言った。

「ちょっと前に交通事故巻き込まれてさ、左足うまく動かなくて。リハビリ中なんだ」

 彼の一言で、一斉に静まり返った。


「なんか、ごめん」

「あ、悪い。気にしないで。まだ歩くの遅いけど、普通に遊びに行けるし。親父の転勤でまたこっちに帰ってこれたし、五年ぶりに変わったところがないか見て回りたいな。あの駄菓子屋ってまだやってんの?」

「お、やってるよ!何なら今日寄ってくか?」

「いいね~俺も全然行ってねぇー」

「つか、駄菓子自体食ってねぇな」

「星野!オマエも行かね?」

「え?」

「オマエら、家すぐ近くだったじゃん」

「そうだけど……」

 急に話を振られて、言葉が出てこない。結局、まごまごしているうちに今日は男子だけで遊びに行くということになっていた。


 幼稚園の頃、「あいり、はやくんのおよめさんになりたい」と言ったことがある。「うん、ぼくもあーちゃんとけっこんしたい」柔らかそうな頬っぺたを赤くしながらモジモジと答えてくれるような、ちょっと引っ込み思案な優しい男の子だった。「あーちゃんは、ぼくのおひめさまだから」そう言っていた。

 小学校では別々のクラスで、お互いの家は近いのに、話すことも少なくなった。私はずっと好きだったけれど、彼はどうだったのかは、わからなかった。

 今は隣同士の席なのに、なんて呼びかけるかも悩むし、どうしゃべったらいいのかわからない。脳内に靄があるせいで視界が悪くて、どうしたらいいかわからないことだらけで色んなことが嫌になる。時間に流されて、惰性で生きている感じがぬぐえない。


 引っ越しの日は梅雨の時期だった。その日も雨で、見送りに行くと青い傘を手に持った彼が私に渡した「あーちゃんへ」と書かれた紙袋には、中に男女が天使に見守られている綺麗な絵柄のカード一枚と駄菓子屋さんにあった玩具の指輪が入っていた。あの時、彼はどんな表情をしてたかな。何か言ってたっけ。思い出せない。


「あ、えっと。あー、星野、さん」

 昇降口で彼は私を見かけると、戸惑いながら声をかけてきた。

「呼び捨てでいいよ。南雲くん」

「うん」

「もう高校生だしね。小さい頃みたいに呼び合いにくいよね」

「そうなんだよな。あのさ、前の家ではないけど、うちまたあの辺だから一緒に帰らない?」

「うん、いいよ」


 彼は普通に歩こうとしたけれど、思うように左足がついてこないようで「やっぱ、いいや。ひとりで帰るよ」と杖にすがるようにして立ち止まり、もどかしそうに俯いた。「気にしない。生きててくれて、良かった」嘘でも気遣いでもなく、心の底から出た言葉。彼は私の兄のことを覚えていたのか、顔をあげて私を見て、小さく「うん」と頷いた。幼稚園の様子が思い出されて、懐かしさで胸がいっぱいになる。

 離れていた間どんな生活をしていたかとか他愛ない話をしながら、一緒に歩いてた。彼の話を聞いているうちに頭の中の靄が晴れていくような感覚があって、帰宅後すぐに進路希望用紙を取り出して軽やかにペンを走らせる。私は、何度でも、恋をする。

「パパ、ママ。相談したいことがあるの」

 三人揃った夕食の時、私は話を切り出した。

「実は、進路のことなんだけど」

「大学!大学に行くべきだよ!」

「パパ。アイリの話をちゃんと聞いてあげて」

「残念。僕が素敵なプリンセスに出会った話をしてあげたかったな!」

 パパはチャーミングにウインクをした。その話は何度も聞いたけど、嫌じゃない。アメリカから日本に留学してきて、同じキャンパスでママに出会ったパパの話。パパにとっては、ずっとママはプリンセスなんだって。

 今も彼にとってのプリンセスに、私はなれるんだろうかなんて考えもよぎってしまった。本当は涙の培養液から出たくないのに、もう出なければいけないのかもしれない。

「何にでもなれるさ!アイリは僕たちの希望なんだからね」


 翌日、登校してまっすぐ職員室に向かった。

「提出が遅れてすいませんでした」

「今度から期限はちゃんと守ってね」

「はい」

「がんばれ」

 担任の先生は、差し出した進路希望用紙をさっと見てから笑顔で応援してくれた。悩みに悩んだことを見透かされたようで、気恥ずかしかったけれど時間をかけて決めたからには頑張る。生きる他にも目標ができた。私が生きている間、一つでも失う命を減らす手伝いがしたい。憧れを手に入れたい気持ちは、恋に似ている。

 だから、何度でも恋に落ちる。


  ***


「先輩、このカード。私、見たことがあるんです。まったく同じもの」

「え?」

「もらったことがある。だけど、いつの間にか消えてたの。引き出しにしまったつもりが、失くしちゃったって思ってた。失くしたんじゃなくて、どこかに行っていて帰ってきたんだと思う」

「……」

「私、コレいらない」

「うん」

「……気をつけてくださいね」


 先輩の持つカードは恐ろしい絵柄で見ていられなかった。タロットカードの持ち主たちを見えない糸が縁という、それらしい意味を持った言葉を口実にして操ろうとしている。気味が悪くて昇降口横にあるごみ箱の前で力を入れて破り始めると、THE LOVERS恋人のカードは悲鳴のような音を立てた。私は聞こえないふりをして、醜く散り散りにして捨てた。


 ***


「幼稚園の頃のこと、覚えてる?」

「よく一緒に遊んだよね。小学校になってからは話すことも減っちゃったけど」

「それはまぁ。でも……」

「うん?」

「俺、変わっちゃったけど」

「うん」

「身体、こんな風になっちゃったけど」

「うん」

「また、あーちゃんって呼んでも良いかな?」

「……変わってないなぁ」

「え?ダメってこと?」

「なんていうのかな~。あんまり、は変わってないよ」


 彼は私のわざと少しずらした会話の歯車をうまく嚙み合わせることができないようだった。私は、カバンに付いているチャームを彼に見せる。


「かわいい指輪でしょ?」

「それ、ずっと持ってたの?」


 捨てられなかった。塗装が剥げてもマニキュアで色を塗ってみたりコーティングしたりして、ずっと大事にしていた。お姫様の指輪。

「うん。でも、一緒にもらったカードは失くしちゃった。ごめんね」

「いいよ。あんなの」

 今日もまた、青葉の上を吹きわたる風が吹いて、私のカバンにつけてある指輪が揺れて赤い光が乱反射する。彼の頬に赤みがさして見えるのは、あのピンク色の石のせいだと思うことにしよう。今の私は、ちょっと幸せ。幸せってこうして少しずつ感じていくものなのかもしれない。その場に流される惰性も悪くないし、幸せになりたい気持ちは、ちょっと欲張るくらいがちょうどいい。

 ──きっと、私たちは、小さな幸せを集めて生きていく。


 あの時、青色の傘を持った男の子が「迎えに来る」と言うから。

 桃色の傘を持った女の子は「約束だよ」と言って、顔を隠した。


 花嵐の季節が終わったら、青嵐は彼を連れてきて、私の目の前にある靄を散らして過ぎていく。手をつないでゆっくり歩くと、長く伸びたふたつの影がくっついたり離れたりしながら、ついてきた。


 もうすぐ梅雨がやってくる。



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青嵐 まゆし @mayu75

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