アルバイトを始めたら急にモテ出した件について

アールグレイ

(1)アルバイト先

10月に差し掛かり、すっかり気温も落ち込み、街にはコートを羽織る人もチラホラ出てきた。


そんな夕刻。


「アイッ!!」

たるんだ体をした男性の掛け声と共に、パン!と破裂音が辺りに響き渡った。


ここは都内にある『ノワールキックボクシングジム』。


ジムの会長は黒木さん。黒木道場、ではおしゃれじゃないという理由で、黒を意味するフランス語の’ノワール’をジムの名前に採用したそうだ。


そしてここは、俺のアルバイト先でもある。



「お疲れ様でした!相変わらず凄いキック力ですね。ぶっ飛ばされないように必死でしたよ」

「そうですか?ありがとうございます!」


ミットを打ち終わった疲労から、ハアハアと肩で息をしながらも嬉しそうにされている会員さん。


「ええ。もっと踏み込みを斜め前にしたら、次は本当に飛ばされてしまうかもしれません」


踏み込みか。そう呟くと、早速鏡の前でシャドーボクシングにてフォームを確認し始めた。


こうやって、お客さんに喜んで貰えるようにコメントをすることが重要だ。昨今の情勢というか、スパルタだけでは客離れが酷く、適度に負荷を掛けつつも自信を付けてもらうことが重要だと研修にて伝えられた。

自分の時とは、大分毛並みが変わったなと考えさせられる。


ただ、それが不満なのかと聞かれればNOである。誰かが嬉しそうにしている顔を見るというのは純粋に嬉しいものだったから。


「おおーい!村瀬。ちょっと来てくれ!」


一息つこうとしたところで、会長からお呼びが掛かった。


「どうしました?会長」

「いや、急で悪いんだけど、この後に無料体験が入ってる事を忘れていてな。お前、担当してくれんか?」

「構いませんが何故ですか?」


そう。いつもなら会長自ら行っていることだ。体験さんとしても、その方が良いのではないだろうか。


「これを見ろ」


会長は無言でスウッと、俺の眼前にタブレットが差し出す。内容は無料体験のお問い合わせメールだった。


成程な、と少し読んだところで直ぐに理解した。


「25歳。性別は女……若い女性ですか」

「そうなんだよ!頼むよ村瀬。俺が若い女を前にすると極度に緊張すること、お前も知っているだろ?」


それでよく客商売をやっていられるな。とも思ったが、無理もないか。それこそ会長が現役の頃は、ジムに女性は一人も居なかっただろうから。


最近でこそ、フィットネスを取り入れるジムが増え、爆発的に女性会員さんも増えたのだが……

このジムは未だに男性の会員さんが9割以上。残りは会長と同い年位のマダムだが、週に1回、1時間だけ開催しているフィットネスクラス会員様の為、普段はいない。


「しかし、この雪谷椿姫ゆきがやつばきさん?よく来る気になりましたね」

「いやー、実は結構前にさ。知り合いのHP制作会社をやってる友人に依頼して、エスイーオー対策?って言ったかな。まあ、女性にもインターネットで検索して貰いやすいようにしたんだよ。なんだかんだ言って、今のままだとジム経営苦しいからさ」

「それが実を結んだと?」

「知らんけどな。もしそうなら、今後はもっと若い女からの問い合わせが増えるのか。対策考えないとな。ハアーッ」


ハアって……まあいいや。アルバイトとして、会員になって貰えるように勤しむだけだ。


そんな様子を遠めに眺めていた、タイ人トレーナーのサポン先生(日本語は怪しい)。

「カイチョウさん、レンジ、ファイトねー」

と無邪気な笑顔でエールを贈ってくれていた。


雪谷さんか。どんな人だろう?

そんな事を考えながら、ふと入り口の方を眺めていると、一人の女性がガラス張りのドアに手を掛けようとしていた……

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