ニ 調査

「――さて、そろそろ頃合いかな?」


 日もどっぷりと暮れた後、念のため、周辺の店や人家の明かりも少なくなるまで待った午後11時、僕は借りていた仮眠室を出ると、いよいよ夜のホテルの探索へと向かった。


 静寂に包まれた、誰もいない真っ暗な広い空間……昼間、日の光の下で見せていた顔とはまるで違う、まったく別の建物にいるような錯覚に囚われる。


 オーナーに頼んで非常灯以外の照明はすべて消してもらっているので、明かりと呼べるようなものは真っ暗闇の中にぼんやりと仄暗い闇を作っているだけにすぎない……。


 そんな暗闇だけが支配する世界の中で、ガランとしたフロントを抜け、目撃談のあった廊下へと足を向ける……。


「いた……!」


 すると、すぐに僕の眼は暗い廊下を歩いて来るそれ・・を捉えた。


 聞いていた話の通り、片脚のない、松葉杖を突いた中年男性だ。


 その左脚が膝下からない浴衣姿の男が、コツ、コツ…と松葉杖を一定のテンポで突きながら、ゆっくり、ゆっくりとこちへ向けて歩いて来る……。


 その体は透けているわけでもなく、いたって闇の中でもはっきりと見えて、言い過ぎではなく、ほんとに生きている人間と見分けがつかないくらいにリアルだ。


 だが、それが生者でないことは、そんな人間がこんな所にいるはずないのだから言うまでもなく明らかだ。


 ……いや、逆だな。むしろそれ・・はずっと以前、遥か昔からここにいたのだ。


 ただ見えなかっただけで、昼間だってこの廊下を今のように変わらず歩いていたに違いない。


 それが、夜の帳が下りたことで、僕には・・・見えるようになっただけのことである。


 そう……僕には、この世ならざる者達が見えるという特異な体質がある。


 しかも、くっきり、はっきり、生きている人間となんら変わらないぐらいに。


 まあ、いわゆる〝霊能者〟という類に違いないのだが、ただし、その体質が現れるのは深い闇の中だけのことであり、明るい光の下では相反して、まったく目に見えることがないという、ちょっと変わった条件付きでだ。


 それでも、子供の頃には夜や暗い所で見たくもないものが見えてしまうし、それが生きているのか死んでるのかも判別できないので随分と苦労したものである。


 大きくなるにつれて、この体質との付き合い方にもだんだんと慣れていったが、普通の人達のような日常生活を送るにはやはり支障があり、社会人になってからも、ごくごく当たり前な就職というもままならない状況は続いた。


 だが、ある日、ふとしたことからコペルニクス的発想の転換が僕の中で起きたのだ。


 そうだ! この特異体質を活かした仕事をすればいいのだ! と。


 その後もいろいろ試行錯誤の末、たどり着いたのがこの探偵稼業である。


 闇の中ならば、僕には霊…というか、その土地に残された人の念のようなものを鮮明に見ることができる……言ってみれば、その土地の歴史のようなものだ。


 そして、なんらかの理由でそこに残された強い人の念というものは、時としていわゆる〝心霊現象〟を引き起こす原因となっている。


 だから、その原因を究明し、残された念を解きほぐして薄めてやることで、心霊現象による問題を解決することができる……それが、僕の仕事としている〝探偵〟なのだ。


「やっぱり小学校には不似合いなキャラクターだな……なんなんだろう? いったい……」


 そんなわけで、さっそく僕は原因を探るため、松葉杖の男をじっくりと観察してみる。


 中には敵意を向けてきたり、絡んでくるような念もあるが、そんな例外以外の多くは双方向に無干渉な、ただそこにいるだけの存在である。


 世間一般の人々同様、僕にも自分達が見えていないと思っているのかもしれない。


 松葉杖の男もその例に漏れず、コツ、コツ…とリズミカルな淋しい音を廊下に響かせながら、見開いた眼で真正面を見つめたまま、僕の脇を静かに通り過ぎてゆく……。


 彼だけではまだ原因に結びつくような手がかりは得られない。他のも見てみなくては……。


 どこを目指して歩いているのか? ただただ歩いてゆくその男の曲がった背中を見送ると、僕は別の目撃現場へと向かった。


 次に目指したのは最も目撃談のある二階の角部屋だ。


 だが、階段を上がるとすぐに、僕は次なる想念の残滓を眼に映すことになった。


 ……いや、視覚だけではない。僕の聴覚も、先程の松葉杖同様、その存在をしっかりと捉えている。


 …キィ……キィ……と、暗闇の中に淋しく響き渡る車輪の軋む音。


 それは、包帯ぐるぐる巻きになった患者を載せて、車椅子を押す看護婦さんだった。


 車椅子に乗っているのは、やはり浴衣姿で、その下は全身に包帯を巻いたミイラのような男だ。眼の部分も含めて、顔は全面が包帯に覆われていて見えない。


 どこか淋しげな顔をした看護婦さんの方は、ワンピースタイプの白衣を着て、ナースキャップをかぶるという定番の格好だが、その白衣の肩はパットを入れているかのように大きく膨らんでおり、なんというか、メイドのお仕着せ・・・・みたいで古風な印象を受ける。


「やっぱり病院関係みたいだけど、小学校よりも前の時代の出来事なのか?」


 レトロな彼女の服装にそんな考えを巡らせつつ、僕は脇へと避けてぴたりと壁に背をつける。


 すると、ひんやりとした感覚を背に覚える僕の前を、なおもキィ……キィ……と不気味な軋み音を響かせながら、松葉杖の男同様、車椅子と看護婦さんもそのままのスピードでゆっくりと廊下を通り過ぎてゆく。


 大概、こちらを気にかけていない場合は、ぶつかってもただすり抜けていくだけなので避ける必要もないのだが、やっぱりなんだか気持ち悪いので僕は避けるようにしている。


「あの看護婦さんの白衣がヒントだな……」


 少し取っ掛かりのようなものを感じつつ、さらに真っ暗な廊下を奥へと突き進んだ僕は、いよいよ本命の二階角部屋へ足を踏み入れた。


「うっ! ……この臭いは……」


 部屋へ入るなり、そこが昼間訪れた時とはまったく別の、ある種、時空を超えた〝異空間〟であることがすぐにわかった。


 部屋を満たす重苦しい闇の中には、鼻をつく消毒液の強烈な臭いが充満している。


「…! あれは……」


 その中に、それ・・は直立不動で立っていた。


 先程の車椅子の患者同様、顔も手も包帯で覆われているが、その血や膿で汚れたカーキ色の帯の隙間からは、ギョロリとした白い眼と、焼けただれたような赤黒い皮膚が見えている。


 また、その男はゆったりとした浴衣ではなく、モスグリーンの軍服のようなものをびしっと着込んでいる。


 ……いや、軍服ではないのか? これは……そうだ。戦中に一般市民が着ていた国民服・・・ってやつか?


 何を思ってそうしているのだろう? その男はまるで死後硬直でもしているかのように、身動き一つせずにそこにずうっと突っ立ったままだ。


「でも、なんかだんだんとわかってきたぞ……」


 だが、動かずともその男はいろいろな示唆を僕に与えてくれる……。


 包帯ぐるぐる巻きの患者に古風な看護婦、そして、戦中の国民服……これまでに見かけた想念の残滓達の姿に、朧げながら全体像の掴めてきた僕は、微動だにしないその男に別れを告げると、さらに他の場所も廻ってみることにした。


 その後に見かけたものも、大概は浴衣姿の包帯を巻いた患者達や古めかしいナース服の看護婦であり、たまに国民服を着た者や医者みたいな白衣の人物もその中に混ざっていた。


 これではっきりした……ここで、戦中に何かあったんだ。


 だが、昔は小学校だったという話なのに、ここにいるのは明らかに病院絡みの人々だ。その点がどうにも引っかかる。


「見てわかるのはここまでか……あとは地道に調べるしかないかな?」


 とりあえず見るものはすべて見終わったので、僕は深い夜の海のような暗闇の中、一人…あ、生きてる人間はという意味ね……ともかくも一人踵を返すと、今夜のところは引き上げることにした――。


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