血 -ケツ-「鬼門詣り」

 何が真実ほんとうで何が虚偽うそだったのか、その答えは誰にもわからない。




 さようなら…弥吉やきちさん…あなたと出逢えてしあわせでした……


「キヨ!!!」


 弥吉は自身の声で目を覚ました。

 もう稲刈りの時期だと言うのに酷く暑苦しく不快な朝だった。

 から既に二十年近くが経った。

 弥吉はあの日から半月近くの間、殆ど飲まず喰わずのままでキヨを捜し続けたが、とうとうキヨを見つけることは出来ず、野垂れ死に寸前のところを隣の村に暮らす女に助けられた。

 キヨの捜索は弥吉だけでなく村の全ての男達を導入して行われたが、やはりキヨを見つけることは出来なかった。

 それから半年後、弥吉は隣の村の村長の口添えで父親と和解し、元の立場へと戻った。

 さらにその半年後、弥吉は一人の女を妻としてめとった。その女は弥吉を助けた女であり、隣の村の村長の娘だった。

 さらに四年が経った頃、村長である弥吉の父が急死すると弥吉は村長の座を継ぎ、その年に長男を授かった。

 それから弥吉は夫として父として村長として精一杯生きてきた。自身の父親とは異なり妾は迎えず、ただ独りのおんなを愛し、一男二女を授かると、つま共々にそれを愛し、精一杯育てた。

 そして、赤子が惨殺されてキヨが姿を消したあの日から二十年近くが経過したこの年、弥吉はを知る事になる。


「あなた、そろそろ清司きよしに代替わりしてあげたら?」


「あいつはまだ未熟だ。上に立つ者が未熟では村は纏まらんよ」


「あなたはまたそんなこと言って、清司きよしだってもう二十歳はたち過ぎたのよ?あなたもそろそろ隠居したら?」


「まだ四十歳しじゅう前なのに隠居というのもなあ…まあ、後五年もすれば代替かわわってやるさ」


「ふーん、あと五年ねえ……」


 清司は弥吉と妻との間に授かった長男の事である。

 弥吉は自身の就いている村長の座を長男の清司に継がせるかどうか悩んでいた。悩みの原因は清司の素行にあった。

 清司は実直な弥吉とは真逆の生き方をしており、祖父である弥吉の父親と同様に正妻の他に妾を囲いながら尚も他の女に手を出していた。相手が既婚者であっても隣の村の者であっても関係なくそれを行うため、その結果、これまで清司は幾度となく周囲の村の者や女の夫といさかいを起こしていた。

 しかし、弥吉と妻の間には清司以外に息子はなく、二人の娘は既に他の村へ嫁ぐことが決まっているため入り婿を取ることも出来ず、後を継ぐのは清司しか居なかった。それでも弥吉は現在の清司を村長にしてはならないと感じていた。

 もしも清司が村長となればキヨの様な悲しい女が再び出てしまうかも知れない。そう考えると弥吉は清司の女癖の悪さを改めさせるまでは村長の座を譲る事が出来なかった。

 そして、次の新月つきなしの夜には起きた。


「うう…キヨ……キヨ……」


 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…


「キヨ…行くな…行かないでくれ……」


 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…


「キヨ!?…夢か……ん?あいつどこ行ったんだ?」


 夢にうなされた弥吉が目を覚ますと妻の姿はそこにはなかった。

 弥吉は胸騒ぎを覚えて家の中を捜したが、妻はどこにもいなかった。

 その時、弥吉の耳の奥に聞き慣れない音がこだました。

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 その音は湿気を帯びていた。

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 まるで頭の中に直接届けられている様なその音を弥吉の本能が嫌悪していた。

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…


「キヨ!!?」


 気がつくと、弥吉の眼前にキヨがいた。

 それは、あの日初めて見たキヨの一糸纏わぬ姿だった。


「キヨ…その姿……お前、やっぱりあの日死んだのか…今さら俺の前に現れるなんて一体何を……」


 目の前に立つキヨの姿はあの刻のまま一つも変わっていなかった。

 年老いた弥吉の頭の中に深く刻まれたその記憶、それはキヨと弥吉が二人きりで過ごした最初で最後の日の想い出だった。

 あの日、八体の赤子の遺骸が見つかった時に弥吉は自身の兄にこう言っていた。


『兄貴…違う…キヨがこんな酷い事をする筈がない…いや、キヨにこんな事が出来た筈がないんだ!!』


 

 出来る筈がないではなく、出来た筈がないと弥吉は言った。

 弥吉のこの言葉は確信に満ちていた。なぜなら、弥吉は前日の昼間に赤子が消えた時刻も、赤子がはりつけにされたであろう深夜も、赤子の遺骸が見つかった朝も、その直前までずっとキヨと共にいたからである。

 赤子が消えたあの日、弥吉は早朝にキヨを社から連れ出した。それは、連れ出したと言うよりは連れ去ったという方が正しかった。

 その日、弥吉は眠っていたキヨを起こさぬように社へ忍び込むと、用意した布製の袋にキヨを無理矢理詰め込んで問答無用でキヨを連れて村を出た。それは、幾度となく申し込み続けてきた駆け落ちに対して良い返事を貰えなかった弥吉が取った最後の手段だった。

 この弥吉による強引な駆け落ちにキヨが応じ、二人は子供の頃によく遊んでいた隣の村と自分達の村の狭間にある洞穴ほらあなで想いを遂げた。

 次の日、弥吉は改めて駆け落ち先を探すための資金として私財を纏めに一度家に戻った。その際、前日の早朝から弥吉が居ないことを案じていた兄と鉢合わせになり、そこで初めて前日に赤子が消えた事を知った弥吉が自身の潔白を説いている最中に社で赤子の遺骸が見つかり、兄に連れられるかたちで弥吉も社へ行ったのである。

 この時、弥吉はキヨが無実である事を知っていたが、駆け落ちしようと共に村を出ていたというその事実を言える筈がなく、尚且つ村人達の怒りの矛先がキヨへと向いていた事を感じた弥吉はキヨの元へと走る以外に出来なかった。

 弥吉が社から洞穴へ戻った時には既にキヨの姿はそこになく、おびただしい量の鮮血が辺りを赤く染めていた。その鮮血がキヨの血であることは明らかだった。

 そして、洞穴の外にも残されていたその鮮血を辿った先は滝壺だった。

 弥吉はキヨが何らかの理由で滝壺へ身投げしたと感じていたが、生きていることを信じてその日から半月近くの間ずっとキヨを捜し続けた。だが、キヨの亡骸すら見つけられずに弥吉は倒れ、それを終えた。


「キヨ…どうして…なぜ俺を置いて独りで逝っちまったんだ?」


 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 キヨは何も答えなかった。

 ただひたすら湿気を帯びた嫌な音が谺した。

 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 永遠にも思えるが弥吉とキヨを包んでいた。


「キヨ…後を追えなくてすまなかった…俺を殺しに来たなら早くしてくれ……」


 弥吉がそう呟いた瞬間だった。


「んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!」


 目の前に立つキヨの口からけたたましい赤子の泣き声が発せられた。

 一切表情を変えず、一切口を動かさず、微動だにしないままにキヨの発する赤子の泣き声は、時間の経過と共により一層激しくなっていった。


「キヨ!?どうした!?なんだ!?いったい何が伝えた…っ!!!」


 弥吉は直感した。

 その瞬間、キヨの姿は消え、弥吉はあの社へ向けて走っていた。


「やめろ!!」


 社へ着いた弥吉は思わず叫んでいた。

 そこには弥吉の妻がいた。妻はあの日と同じ大木に赤子を縛りつけ、釘を打ち込んでいた。


「あらあなた、そんなところで何をしているの?ちゃんと寝てなきゃダメじゃない…それに、やめられるわけないじゃないの…まだなのに…鬼門参りは八体の赤子を捧げなきゃいけないのよ…そうしなければ願いは叶わないの…ふふふふ……」


「お前、何を…!?」


「ふふふ…あの時もね…こうして八体捧げたら願いが叶ったのよ?」


「ま、まさかあの時も…!?」


「ふふ…そうよ…お陰で私はあなたと結ばれたのよ…ふふふふ…鬼門がひらいて鬼が願いを叶えてくれたの……」


「お前…!?」


「でも、あなたはもう要らない…清司きよしのために消えて……」


 弥吉の妻がその行為を続けようとしたその時だった。


「んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!」


「なっ!?なんで!?もうとっくに死んでいる筈なのに!!あっ!…ぐぇ…がはっ…」


 ザシュ…ビシャ…ザシュ…ビシャ…

 弥吉の妻の手元で磔にされていた三体の赤子の遺骸が一斉に泣き声を発し、それに驚いた弥吉の妻は足を滑らせ、手にしていた二本の釘が喉元へ深く突き刺さった。


「あが…ぎげ…ぎい……」


「んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!んぎゃあ!」


 辺りには赤子の泣き声がこだましていた。

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