十四章



 風鳴りのする峡道は湿気を帯び肌を刺す寒さがこごっている。時おり重なり合った岩の天蓋から水滴が高い音を立てて落ちた。狭い隧道すいどうの前後の出入口はここからは片手で輪をつくったくらいの大きさに見える。その光が差す一方へとゆっくりと歩を進めていた。


 いくらもかからずに外へと足を踏み出し、紫の濃霧漂う森を眼下に捉えた。もちろんいま立っている岩窟の周囲一帯も視界のない霧の中。晴れているが陽は見えず、ただ霞む雲の向こうに空から灰色の紗幕が垂れ下がり地平に近づくにつれて薄らぎ滲んでいた。寒々しく陰鬱な景色をしばらく眺め、次いで頭を今しがた出てきた山に上向ける。荒涼殺伐とした剥き出しの奇聳、それが寄り集まり巨大な大地の突起となっている。地を両手で挟みせり出させたような傾斜のない岩の塊は首を巡らせても全てを収めることはできず、また頂すらも杳として知れない。石巌の山辺でそれらをなんの感慨もなく見渡し、頭を戻して呼笛を鳴らした。


 高く跳躍し、まるで重みを感じさせない駿足で突兀とっこつの斜面を蹴って降り立ったのは初めて目にする者が見ればなんとも奇怪な獣だろう。豺狼やまいぬの頭を持つが体躯は尾まで鱗に覆われ、由霧ゆうむで水気を纏った玉虫色の体表に手をさらりと滑らせると不思議に響く。重厚に、じん、と横隔膜に沈むかねの音がした。撫でられても媚びることのない大きなまるい瞳はしかし、大部分は瞼で覆われており黄味の強い金の虹彩はほんのわずかしか覗いていなかった。それでいいと思う。小指一本分ほどが見えているだけでも魅入られるように美しい瞳は宝玉ほども価値がある。この眼球を手に入れる為に、愚かな人間はいったいどれほど彼の同胞を殺し尽くしてきたのだろう。


 獣は甘え声も出さないが、主のことはきちんと認識しているようで自らの長い尾で軽くこちらの背を叩いてみせた。ねぎらう仕草に微笑む。跨ろうと手をかけたところで、ふと気配を感じて振り返った。


 獣が俄に鱗を逆立てた。ぱきりぱきりと薄膜の重なりを擦り合わせ、すぐそこだ、と伝えてくる。いきり立つしもべなだめ、やぶに視線を向けた。しばらく見つめた先、やがて沈黙に根負けしたかのように動きがあった。



「――――誤魔化せませんねえ」



 苦笑した口振りで草を掻き分けてきた小柄な人影の顔は見えない。全身を黒衣に包み額から鼻にかけては面紗ふくめんで隠れている。ただ紅脣こうしんだけが可笑しそうに弧を描いた。


「何度見ても見事な睚眦がいさいですね」

 うっとりとした語調で話し掛けたが殺気を前にして距離を置き立ち止まる。

「お久しぶりです、胡仙こせんさま」

 恭しく頭を下げた影に胡仙はただ片眉を上げてみせた。

「ヒトは歳を重ねるとれると聞いたことがありましたが、胡仙さまを見ているとその意味が分かる気がします」

「……阿諛おべっかをしに来たわけではあるまい」

 冷めた返事をされて影は含み笑った。

「もちろんです。――お返事を頂戴しに参りました」

「何度来ても同じこと。わたくしのことは放っておきなさい」

「そういう訳にもいかないのです。ぼくだってあなたのご不興を買うのは不本意ですけど、主をがっかりさせるのはもっと嫌ですもの」

「いくら貴様がしつこくとも私は手を組むつもりはない。そっちはそっちで勝手にすればよろしい」

 まあ、と影は悲しそうにしてみせた。

「なぜそれほど泉人と仲良くなさるのです?あなたほど強くて美しく頭の良いヒトが」

「お前の飼い主が欲しているのは睚眦であろうが。捕れぬなら二泉のまわりにでも行くのだな」

 涼やかに一蹴されて人影は胸の前で両手を組んでみせた。

「ぼくたちは協力したほうがいいと、胡仙さまはそう思われませんか」

「思わぬ」

 獣に足を掛けて飛び乗る。居丈高に見下ろした。

「葛斎にも揺さぶりをかけているようだが、まやかしは通じないぞ。飼い主にそう釘を刺しておきなさい」

「…………八馗がどうなっても」

「やってみるがいい。我が兵がお前たちのような傀儡くぐつに負けるわけがない」

 言を遮ると相手は少しむくれた。

「意地の悪い御方。あの女に自分の人形をあげたくせに。あれをこちらにくれればそれなりの恩は返しますよ?」

「無用だ。私は葛斎だからこそくれてやったのだ。これ以上は無意味。二度と来るのではありませんよ。次に来たら殺します」


 言い捨てて獣の腹を蹴る。助走もつけずに高く飛翔し岩棚を鳥のように下っていくのを見送り、人影は嘆息した。頭に被った布を持ち上げて剥いだ。


 夜陰と同じ色の髪がなびいて流れる。白陶磁の肌に浮かべた表情は憂えたかおをしていたが口は微笑みを浮かべたままだった。赤い血色の両眼は一度伏せられ、切り替えるように顔を上げる。風鳴りと同じ音を響かせつつ眼下を眺め渡し、女と獣の姿がもうどこにもないのをおざなりに確認するとかじかんだ指先に息を吹きかけた。






 姜恋は物陰からこっそりと通りの向こうの門を窺った。兵はいるがそれほど多くはない。なんでも族主ときたら監視されているようで落ち着かないと言って衛兵を極力減らし、宛てがわれた女官もことごとく気に入らないらしく追い出しているという噂だ。呆れて物も言えないとはこのこと、と柱の裏で溜息をつく。うららかな陽気にほだされたか、門卒がのんびりと世話ばなしに興じているのを眺め、気を取り直してよし、と小さく呟いた。襟元を整え籠を抱える。至極落ち着いた素振りで通りを横切り、招寧殿の門前に立った。澄まして礼をし、後宮の遣いの者だと言ったら特に怪しまれもせずにすんなりと入れた。


「こんなに無防備で大丈夫なのかしら……」


 心配になりつつも閑散とした前殿を通り過ぎる。人の姿は無かった。この中にいるはずだが、と走廊ろうかを渡っているとなにやら奥の内院なかにわが騒がしい。微かに聞こえる喧騒に導かれるように歩を進めると、角を曲がってきた人影と鉢合わせになった。

「おっと、すまん」

 したたかに鼻をぶつけ慌てて見上げる。自分よりもずっと背の高い男はふらついた肩を支えてくれた。

「ご、ごめんなさい」

「いや、こっちこそ前を見てなかった……あれ?」

 体格のいい男は額に大きな黒子ほくろがあった。その顔が不思議そうに傾ぐ。

「こんなところでどうされた、可敦カトン

「え?」

 姜恋は鼻をさすりながらぽかんと口を開けた。


 広い内院では角族の男たちがせっせと手を動かしていた。三日後に迫った出陣に向けて持ち込んだ武器武具の数を確認し修復あるいは補填していた。輸送するのに結構な時間がかかったが、鏢行ひょうこうによって無事に届けられた四不像しふぞうも泉宮のうまやに全て収容されている。


 そろそろ昼餉らしいという声に弓絃を張り直していた韃拓は顔を上げ、それからあたりを見回した。走廊の奥から走り込んで来る者をみとめて瞬く。


「ちょっと、楊韃拓!」

 肩で息をした怒りの形相の少女を見ておお、と立ち上がった。しばらくその姿を上から下まで見、

「久しぶりじゃねえか。…なんで女官の格好してるんだ?」

「こっそり出てきたから!外朝になんてふつうは出してもらえないの!」

 それより、と地団駄を踏みそうな勢いで裳裾を揺らす。

「さっきから出遇う角族みんな、わたくしのことを可敦って呼ぶの!どうして⁉どうせ変な意味なんでしょう。あなたが広めたのね?」

 韃拓はもう一度瞼を二、三度すばやく開閉させると、にやりと笑って今日は飾りの少ない姜恋の頭を揺らして撫でた。

「触らないでよ!」

 しかし本気で怒っているのを見てとると首を竦め、籠を取り上げる。

「これは?」

「手ぶらじゃ悪いと思って……」

「菓子か」

 籠の中には型を抜かれて蒸された色とりどりの甘味が並べられていた。

「嫌いだった?」

 いいや、と一つ取ると頬張りながら残りを配下に渡す。

蜜餳あまいのは貴重だ。もらっとく」

 姜恋はほっとして胸を撫で下ろすと首を巡らした。

「あの、瑜順は?」

 ああ、と韃拓は自房への門窗いりぐちを開けながらのんびりと答える。

「今はいない。出兵の段取りをしてる」

 目に見えて落ち込んだのには振り返らず欠伸あくびをしながら階を登る。ともかくもそれに追い縋りつつ更に、ねえ、と呼びかけた。

「戻って来るまでどのくらいかかるのかしら」

「さてな。朝から出てったきりだが」

「あなたと瑜順、別のところに行くのよね?大丈夫なの?」

 問われて韃拓は肩越しに顔を向けた。

「どういう意味だ?」

「だから……その、お互いに」

 みなまで聞かず、馬鹿馬鹿しいとでもいうように手を振るとそのまま進んでいく。

「だって、あなたたち今までずっと一緒だったし、あなたは瑜順がいないと駻馬あばれうまみたいだし」


 姜恋はなおもあれこれと心配事を並べ立てながらついには開けられた隔扇とびらを続いて入り、無意識に閉めた。


「それに、あなたも密使として桐州に先に入るのでしょ?すぐに頭に血が昇るのに、肝心の抑える人がいなきゃ――――」


 背に近づくと、振り向いた彼に急に腕を引っ張られる。何を思考する暇もなく一瞬ののちに反転した体は気がつけば寝台に押しつけられていた。唖然と見返した上にはまっすぐ見つめてくる真顔がある。

「お前、危なっかしいなあ。姫さんてのはお供もつけずに野郎の房室へやに入るもんなのか?」

 姜恋がいとも簡単に組み伏せられたのに心底呆れた調子だった。ゆるゆると状況を把握して声を上げようとした口は易々と大きな手で押さえられ、韃拓は反対の指を立ててみせた。

「なんもしねえよ、騒ぐな。…ま、お前がその気なら出兵前に景気をつけてもいいが」

 嫌悪に鼻から荒い息が漏れた。首をよじって唸り拒絶の意を表すとゆっくりと手を退けられて思わず咳き込む。すぐさま身を起こし拳を振り上げたが細腕は難なく掴まれた。


「……離してっ!」

「痛いのはごめんだ。叩かないなら離してやる」

 涙目で睨み据えた。「何なの?信じられない。公主に狼藉してただで済むと思うの?」

「お前が勝手に入って来たんだが?」

「それでも、最低だわ!お祖母ばあさまに言いつけてやる」

「言いつけたところであの太后がお前の為に何かするとは思えねえな」

 手が離れる。引き戻し抱き込み思わず床にへたりこんだ。恐怖と安堵がいっぺんに噴き出して涙が零れた。

「ひどい……瑜順ならこんなことしない。絶対に」

 それを聞いた韃拓は嘆息するとしゃがんで覗き込む。

「あのなあ、姜恋。お前は隙があり過ぎる。いくらここが泉宮で、お前が公主といってもな、一歩自分の宮から出たらお前はただの小娘でしかないんだ。それにここにいる角族は二百人とも全員男だ。泉人でもない奴らの巣穴に護衛も付けないで入り込むのは無謀過ぎるぞ」

 姜恋は言われていることが分からない。

「どういうこと……?でも、同盟したんじゃない。攻撃なんてされるわけないじゃない」

「するわけねえだろ、俺でも分かる。だがな、皆今は出兵前でぴりぴりしてる。俺たちはやきもきはしねえが、どっちかというと気分が揚がる。分かるかこの気持ち。……分かんねえだろうなぁ……」

 小童に噛み砕いて説明するのに失敗したかのように項垂うなだれて頭を掻いた。立ち上がり水差しから適当に注ぐ。溢れたのも気にせずぞんざいに飲み干す喉の動きを姜恋は何か違う生き物のごとく凝視した。口を拭った韃拓は再び見下ろした。

「瑜順に会いたがってんのは伝えとく。――落ち着いたか?」

「あ、あなたが脅かしたのよ。本当にびっくりしたんだから」

 生まれたての子鹿のようによろよろと立ち上がり、そのまま隔扇まで進んで開けようとしたころで背後から追い討ちのように声が掛かる。

「下官も一人では来させるなよ。俺は世話役を全部追い出しちまったから、取り次ぎがいねえ。用があるなら門卒に言いな」

「……分かったわよ」

 不貞ふて腐れてぼそりと答え、足音も荒々しく出て行ってしまう。そんな姜恋を見送って韃拓はやれやれと溜息をつき、髪を掻き上げた。



 咀嚼できない心を持て余しながら元来た道を門へ向かって足早に歩く。韃拓に言われて急にすれ違う男たちがなんだか怖くなってしまい、顔は平気なふりをして内心怯えながら進んだ。何人かに不思議そうに具合を問われたが曖昧に受け流し、そうして前殿まで戻ったところで本来の目的の人物を見つけ思わず駆け寄った。


「瑜順!」

 名を呼ばれたほうは驚いて振り返る。

「姜恋さま?なぜこんなところに」

 次いで姿を検分し、わずかに顔をしかめた。

「どうなさったのです、その格好は」

「ぬ、抜け出して来たの……」

 呆れた雰囲気を醸し出されたのに縮こまる。

「最近、宮に来れないほど忙しいと聞いて、あと少ししたら出兵だし、顔を見ておきたくて……」

「まさか、お独りで?」

 頷いた。上目遣いに見やると、彼は最近はいつも向けてくれていた柔らかな顔をしていなかった。

「姜恋さま。いくら高貴にお育ちあそばされたといえど、やって良いことと悪いことの区別はもうついて良いお歳では?」

「分かってるけれど」

 微かに息をついた。「韃拓には会いましたか?」

「会ったわ。それであの人、ひどいのよ」


 懸命に訴えた。思い出したらまた泣けてくる。話を聴きながら美青年は頭痛を耐えるように蟀谷こめかみを押さえていたが、ひととおり喋り終わると頷いた。

「あれもすることが荒いのは認めますが、あなたもあなたです。外朝のこんな場所にやってくるものではありません」

 冷たく叱られしょげかえって俯く。しかし瑜順は厳しい言とは裏腹に、予想外にも行動力のある娘だと半ば感心した。太后府をおとなった時といい、ふつうの公主なら気絶してしまいそうな場面で逆に啖呵たんかを切れるとはなかなか大したものである。


 出口にいざないながら問う。

「韃拓の言っていたことは理解できましたか」

 まるで教師のようだと姜恋はおずおずと見上げた。

「邪魔をしてしまったのは分かったけれど……そんなに悪いことだったのかは正直よくは。武器を手入れしているだけに見えたの。それにちょうど昼餉時だったし」

 瑜順は今度ははっきりと溜息を漏らした。足を止めて向き直るとどうしたものか、と目を泳がせる。

「……いいですか、姜恋さま。戦というのは人と人との殺し合いです。このことは?」

 出し抜けな話題に目を瞬かせながら頷けば続く。

「出兵したら死ぬかもしれない。もう故郷には帰れないかもしれない。怪我を負って歩いたり走ったり馬に乗れなくなるやも。そういう不安は誰しも少なからずあります。出兵前は特に、最も気を張っている時期なのです」

「あの人はぴりぴりしてるって言ってたけれど、わたくしにはそうは見えなかったわ」

 いつもどおりでむしろ朗らかなようだったのは気のせいなのか。

「角族は泉人とは戦についての捉え方が多少異なります。もちろん不安もありますが、それ以上に武勲武功を挙げるのに夢中になる。気がたかぶるのです。狩りの前はいつもそう。我々は狩猟を主として生きてきました。獲物を捕らなければ生活に関わり、長じれば生命いのちに関わります。ですから皆必死になる。それは獲物が人でも同じです」

 腑に落ちずに首を傾ける。

「だから、わたくしが来てはいけなかったの?」

 そのこととどう関係があるのか。大きな黒目で無垢に見つめられ、腕を組んだ瑜順はさも言いにくそうに顔を逸らした。

「……男というのは、気が高じればそれを昇華させる対象を探すものです。興奮すれば血を見たくなるし、女人を抱きたくなる」

 聞いて一気に赤面し、それから青褪あおざめた。半歩、距離を取る。

「あ、あなたも……そうなの?」

「獣のように思われるのは心外ですが私も男ですから。……いちおうは」

 ですから、と手で道の先を示した。

「不用意にこんなむさ苦しい場所に、しかもお独りで来られて万一のことがあっては大事です。ここにいる族兵は皆姜恋さまのことは存じておりますから手は出しませんし、そういう目で見ることもないでしょうが、それでもお忍びで御成りになるのにおすすめはまったく出来ません」

「ねえ、じゃああの人が女官を追い出したのもそうなの?」

「あれはまた別の理由だとは思いますが……そこは文化の違いもあるかと。族領では婢女はしために手を出すのは特に咎められることではないので。下僕と女官の違いをうまく飲み込めない者が中にはおりますし、それが原因でなにか国交に摩擦が生じてはいけませんしね。下官は男で十分手がまわります」

 いまだ事の重大さが身に迫って感じるのが追いつかないまま、姜恋は、そう、としか返せなかった。門扉のすぐ側まで共に歩いてきたところで振り仰ぐ。

「……もう一つだけいい?兵たちに可敦と呼ばれるのだけれど、可敦とはなに?」

 問えば瑜順はようよう微笑んだ。

「当主のさいのことを敬意を込めてそうお呼びするのです。――――さ、迎えが来ておりますよ」




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