十四章
風鳴りのする峡道は湿気を帯び肌を刺す寒さが
いくらもかからずに外へと足を踏み出し、紫の濃霧漂う森を眼下に捉えた。もちろんいま立っている岩窟の周囲一帯も視界のない霧の中。晴れているが陽は見えず、ただ霞む雲の向こうに空から灰色の紗幕が垂れ下がり地平に近づくにつれて薄らぎ滲んでいた。寒々しく陰鬱な景色をしばらく眺め、次いで頭を今しがた出てきた山に上向ける。荒涼殺伐とした剥き出しの奇聳、それが寄り集まり巨大な大地の突起となっている。地を両手で挟みせり出させたような傾斜のない岩の塊は首を巡らせても全てを収めることはできず、また頂すらも杳として知れない。石巌の山辺でそれらをなんの感慨もなく見渡し、頭を戻して呼笛を鳴らした。
高く跳躍し、まるで重みを感じさせない駿足で
獣は甘え声も出さないが、主のことはきちんと認識しているようで自らの長い尾で軽くこちらの背を叩いてみせた。
獣が俄に鱗を逆立てた。ぱきりぱきりと薄膜の重なりを擦り合わせ、すぐそこだ、と伝えてくる。いきり立つ
「――――誤魔化せませんねえ」
苦笑した口振りで草を掻き分けてきた小柄な人影の顔は見えない。全身を黒衣に包み額から鼻にかけては
「何度見ても見事な
うっとりとした語調で話し掛けたが殺気を前にして距離を置き立ち止まる。
「お久しぶりです、
恭しく頭を下げた影に胡仙はただ片眉を上げてみせた。
「ヒトは歳を重ねると
「……
冷めた返事をされて影は含み笑った。
「もちろんです。――お返事を頂戴しに参りました」
「何度来ても同じこと。
「そういう訳にもいかないのです。ぼくだってあなたのご不興を買うのは不本意ですけど、主をがっかりさせるのはもっと嫌ですもの」
「いくら貴様がしつこくとも私は手を組むつもりはない。そっちはそっちで勝手にすればよろしい」
まあ、と影は悲しそうにしてみせた。
「なぜそれほど泉人と仲良くなさるのです?あなたほど強くて美しく頭の良いヒトが」
「お前の飼い主が欲しているのは睚眦であろうが。捕れぬなら二泉のまわりにでも行くのだな」
涼やかに一蹴されて人影は胸の前で両手を組んでみせた。
「ぼくたちは協力したほうがいいと、胡仙さまはそう思われませんか」
「思わぬ」
獣に足を掛けて飛び乗る。居丈高に見下ろした。
「葛斎にも揺さぶりをかけているようだが、まやかしは通じないぞ。飼い主にそう釘を刺しておきなさい」
「…………八馗がどうなっても」
「やってみるがいい。我が兵がお前たちのような
言を遮ると相手は少しむくれた。
「意地の悪い御方。あの女に自分の人形をあげたくせに。あれをこちらにくれればそれなりの恩は返しますよ?」
「無用だ。私は葛斎だからこそくれてやったのだ。これ以上は無意味。二度と来るのではありませんよ。次に来たら殺します」
言い捨てて獣の腹を蹴る。助走もつけずに高く飛翔し岩棚を鳥のように下っていくのを見送り、人影は嘆息した。頭に被った布を持ち上げて剥いだ。
夜陰と同じ色の髪がなびいて流れる。白陶磁の肌に浮かべた表情は憂えた
姜恋は物陰からこっそりと通りの向こうの門を窺った。兵はいるがそれほど多くはない。なんでも族主ときたら監視されているようで落ち着かないと言って衛兵を極力減らし、宛てがわれた女官も
「こんなに無防備で大丈夫なのかしら……」
心配になりつつも閑散とした前殿を通り過ぎる。人の姿は無かった。この中にいるはずだが、と
「おっと、すまん」
「ご、ごめんなさい」
「いや、こっちこそ前を見てなかった……あれ?」
体格のいい男は額に大きな
「こんなところでどうされた、
「え?」
姜恋は鼻を
広い内院では角族の男たちがせっせと手を動かしていた。三日後に迫った出陣に向けて持ち込んだ武器武具の数を確認し修復あるいは補填していた。輸送するのに結構な時間がかかったが、
そろそろ昼餉らしいという声に弓絃を張り直していた韃拓は顔を上げ、それからあたりを見回した。走廊の奥から走り込んで来る者をみとめて瞬く。
「ちょっと、楊韃拓!」
肩で息をした怒りの形相の少女を見ておお、と立ち上がった。しばらくその姿を上から下まで見、
「久しぶりじゃねえか。…なんで女官の格好してるんだ?」
「こっそり出てきたから!外朝になんてふつうは出してもらえないの!」
それより、と地団駄を踏みそうな勢いで裳裾を揺らす。
「さっきから出遇う角族みんな、わたくしのことを可敦って呼ぶの!どうして⁉どうせ変な意味なんでしょう。あなたが広めたのね?」
韃拓はもう一度瞼を二、三度すばやく開閉させると、にやりと笑って今日は飾りの少ない姜恋の頭を揺らして撫でた。
「触らないでよ!」
しかし本気で怒っているのを見てとると首を竦め、籠を取り上げる。
「これは?」
「手ぶらじゃ悪いと思って……」
「菓子か」
籠の中には型を抜かれて蒸された色とりどりの甘味が並べられていた。
「嫌いだった?」
いいや、と一つ取ると頬張りながら残りを配下に渡す。
「
姜恋はほっとして胸を撫で下ろすと首を巡らした。
「あの、瑜順は?」
ああ、と韃拓は自房への
「今はいない。出兵の段取りをしてる」
目に見えて落ち込んだのには振り返らず
「戻って来るまでどのくらいかかるのかしら」
「さてな。朝から出てったきりだが」
「あなたと瑜順、別のところに行くのよね?大丈夫なの?」
問われて韃拓は肩越しに顔を向けた。
「どういう意味だ?」
「だから……その、お互いに」
みなまで聞かず、馬鹿馬鹿しいとでもいうように手を振るとそのまま進んでいく。
「だって、あなたたち今までずっと一緒だったし、あなたは瑜順がいないと
姜恋はなおもあれこれと心配事を並べ立てながらついには開けられた
「それに、あなたも密使として桐州に先に入るのでしょ?すぐに頭に血が昇るのに、肝心の抑える人がいなきゃ――――」
背に近づくと、振り向いた彼に急に腕を引っ張られる。何を思考する暇もなく一瞬ののちに反転した体は気がつけば寝台に押しつけられていた。唖然と見返した上にはまっすぐ見つめてくる真顔がある。
「お前、危なっかしいなあ。姫さんてのはお供もつけずに野郎の
姜恋がいとも簡単に組み伏せられたのに心底呆れた調子だった。ゆるゆると状況を把握して声を上げようとした口は易々と大きな手で押さえられ、韃拓は反対の指を立ててみせた。
「なんもしねえよ、騒ぐな。…ま、お前がその気なら出兵前に景気をつけてもいいが」
嫌悪に鼻から荒い息が漏れた。首を
「……離してっ!」
「痛いのはごめんだ。叩かないなら離してやる」
涙目で睨み据えた。「何なの?信じられない。公主に狼藉してただで済むと思うの?」
「お前が勝手に入って来たんだが?」
「それでも、最低だわ!お
「言いつけたところであの太后がお前の為に何かするとは思えねえな」
手が離れる。引き戻し抱き込み思わず床にへたりこんだ。恐怖と安堵がいっぺんに噴き出して涙が零れた。
「ひどい……瑜順ならこんなことしない。絶対に」
それを聞いた韃拓は嘆息するとしゃがんで覗き込む。
「あのなあ、姜恋。お前は隙があり過ぎる。いくらここが泉宮で、お前が公主といってもな、一歩自分の宮から出たらお前はただの小娘でしかないんだ。それにここにいる角族は二百人とも全員男だ。泉人でもない奴らの巣穴に護衛も付けないで入り込むのは無謀過ぎるぞ」
姜恋は言われていることが分からない。
「どういうこと……?でも、同盟したんじゃない。攻撃なんてされるわけないじゃない」
「するわけねえだろ、俺でも分かる。だがな、皆今は出兵前でぴりぴりしてる。俺たちはやきもきはしねえが、どっちかというと気分が揚がる。分かるかこの気持ち。……分かんねえだろうなぁ……」
小童に噛み砕いて説明するのに失敗したかのように
「瑜順に会いたがってんのは伝えとく。――落ち着いたか?」
「あ、あなたが脅かしたのよ。本当にびっくりしたんだから」
生まれたての子鹿のようによろよろと立ち上がり、そのまま隔扇まで進んで開けようとしたころで背後から追い討ちのように声が掛かる。
「下官も一人では来させるなよ。俺は世話役を全部追い出しちまったから、取り次ぎがいねえ。用があるなら門卒に言いな」
「……分かったわよ」
咀嚼できない心を持て余しながら元来た道を門へ向かって足早に歩く。韃拓に言われて急にすれ違う男たちがなんだか怖くなってしまい、顔は平気なふりをして内心怯えながら進んだ。何人かに不思議そうに具合を問われたが曖昧に受け流し、そうして前殿まで戻ったところで本来の目的の人物を見つけ思わず駆け寄った。
「瑜順!」
名を呼ばれたほうは驚いて振り返る。
「姜恋さま?なぜこんなところに」
次いで姿を検分し、わずかに顔をしかめた。
「どうなさったのです、その格好は」
「ぬ、抜け出して来たの……」
呆れた雰囲気を醸し出されたのに縮こまる。
「最近、宮に来れないほど忙しいと聞いて、あと少ししたら出兵だし、顔を見ておきたくて……」
「まさか、お独りで?」
頷いた。上目遣いに見やると、彼は最近はいつも向けてくれていた柔らかな顔をしていなかった。
「姜恋さま。いくら高貴にお育ちあそばされたといえど、やって良いことと悪いことの区別はもうついて良いお歳では?」
「分かってるけれど」
微かに息をついた。「韃拓には会いましたか?」
「会ったわ。それであの人、ひどいのよ」
懸命に訴えた。思い出したらまた泣けてくる。話を聴きながら美青年は頭痛を耐えるように
「あれもすることが荒いのは認めますが、あなたもあなたです。外朝のこんな場所にやってくるものではありません」
冷たく叱られしょげかえって俯く。しかし瑜順は厳しい言とは裏腹に、予想外にも行動力のある娘だと半ば感心した。太后府を
出口に
「韃拓の言っていたことは理解できましたか」
まるで教師のようだと姜恋はおずおずと見上げた。
「邪魔をしてしまったのは分かったけれど……そんなに悪いことだったのかは正直よくは。武器を手入れしているだけに見えたの。それにちょうど昼餉時だったし」
瑜順は今度ははっきりと溜息を漏らした。足を止めて向き直るとどうしたものか、と目を泳がせる。
「……いいですか、姜恋さま。戦というのは人と人との殺し合いです。このことは?」
出し抜けな話題に目を瞬かせながら頷けば続く。
「出兵したら死ぬかもしれない。もう故郷には帰れないかもしれない。怪我を負って歩いたり走ったり馬に乗れなくなるやも。そういう不安は誰しも少なからずあります。出兵前は特に、最も気を張っている時期なのです」
「あの人はぴりぴりしてるって言ってたけれど、わたくしにはそうは見えなかったわ」
いつもどおりでむしろ朗らかなようだったのは気のせいなのか。
「角族は泉人とは戦についての捉え方が多少異なります。もちろん不安もありますが、それ以上に武勲武功を挙げるのに夢中になる。気が
腑に落ちずに首を傾ける。
「だから、わたくしが来てはいけなかったの?」
そのこととどう関係があるのか。大きな黒目で無垢に見つめられ、腕を組んだ瑜順はさも言いにくそうに顔を逸らした。
「……男というのは、気が高じればそれを昇華させる対象を探すものです。興奮すれば血を見たくなるし、女人を抱きたくなる」
聞いて一気に赤面し、それから
「あ、あなたも……そうなの?」
「獣のように思われるのは心外ですが私も男ですから。……いちおうは」
ですから、と手で道の先を示した。
「不用意にこんなむさ苦しい場所に、しかもお独りで来られて万一のことがあっては大事です。ここにいる族兵は皆姜恋さまのことは存じておりますから手は出しませんし、そういう目で見ることもないでしょうが、それでもお忍びで御成りになるのにおすすめはまったく出来ません」
「ねえ、じゃああの人が女官を追い出したのもそうなの?」
「あれはまた別の理由だとは思いますが……そこは文化の違いもあるかと。族領では
いまだ事の重大さが身に迫って感じるのが追いつかないまま、姜恋は、そう、としか返せなかった。門扉のすぐ側まで共に歩いてきたところで振り仰ぐ。
「……もう一つだけいい?兵たちに可敦と呼ばれるのだけれど、可敦とはなに?」
問えば瑜順はようよう微笑んだ。
「当主の
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