十章



 軒車くるまが用意され、案内されたのは昨夜と同じく外朝の最も奥の太后府。ということは葛斎はまだ執務中らしい。瑜順は今回は丁寧に迎えられて小さめの一室に通された。


 灯火の少ない私房ししつ、左右の壁一面は書棚が整然と並んではいたが隙間もないほど埋め尽くされ、入りきらない分がその下に積んであった。奥には黒地に金の細線で左右対称に描かれたやはり獣面紋の壁、そして手前には既に呼び出した本人の姿があった。大卓の上は決裁を待っている紙文と印をし終えたものが山をつくっている。


「よく来た」


 昼間見た時より幾分砕けた格好の葛斎は肩に羽織った暗色の褂裴うわがけに腕を通した。膝をつこうとした瑜順を制し胸の前で両の指を組む。

「一度おぬしと二人で話しておきたくての。おそらくこれから忙しくなるゆえこうしてゆっくりする時間もそうあるまい」

 言いつつ脇台の上に置いてある盆から煙管きせるを取り上げた。「うか?」

「いえ。頂いてきました」


 そう、と頷き煙を吐き出す。瑜順は辛抱強く彼女の発言を待った。


「……言いたいことがあるのじゃろう?好きに申せ。ここにはわらわとおぬししかおらぬ。何を言っても不問に処す」

 それで口端を上げた彼女を、居住まいを正して真っ直ぐに見据える。

「では……おそれながら、太后さま。私たちをお試しになりましたね?」

「――続けよ」

「淮州で我々に起こっていたこと、あなたはすべてご存知だったのでは?郷里に入れないのも、襲われたのも、関で追われたことも」

「何故そう思う」

「はじめ私は、淮州軍が動かないのは封侯に事が露見するのを恐れてのことだと思っていました。しかし昼間の話では侯も私たちのことはよく思っていない様子。それならば堂々と軍を動かしても差し支えないはずです。なにより泉主が動きを黙認していたわけですし、我が主の言った通り、後ろ盾を得ているならばもっとあけすけとして良いようなもの。それがまるで何かをはばかるように行動を隠匿している」

 瑜順は見つめ返してくる色のない眼にわずかに眉を寄せた。


「淮封侯は、すべてはあなたに露見するのを危惧しているからではないですか」


 反応はない。

「しかし逆に考えてみました。それほどまでに淮州での悪事を隠そうとしている彼のことをあなたが今まで全く気づかず野放しにしているはずもない。首都州でないとはいえ隣の州です。しかも太后さまは長年一泉のまつりごとを担ってきた御方、独自のあみを持っていないはずはないのではありませんか」

 葛斎はなおも無言でいたが、やがてふと笑んだ。

「我が朝廷にもおぬしのような賢臣がおれば良いのだが。いち部族の従僕にしておくには惜しい」

 尊大に椅子背に凭れかかる。

「おぬしの考えは間違いではない。妾は角族が泉地に入ったことも、民から迫害されたのも知っていた。まさか商人を使って乗り切るとは思わなんだが」

「なぜそこまでご存知で放置されたのです」

「姜謙は妾の息子であり下僕しもべじゃ」

 意味を理解しかねて瑜順はさらに無表情に見つめる。葛斎は頬杖をつき、煙管を持ち直した。

「あれは妾の意向には逆らわぬ。たとえ夷狄ばんぞく嫌いであってもな。謙はおぬしらをうとんじておるが、害するよう指図を出してはおらぬ」

「話が繋がりません。では淮侯が民をそそのかして我らを襲わせたのではないということですか?とはいえ、我々が受けた仕打ちを見て見ぬふりをしたのには変わりありませんね?なぜそのようなことを?」

 言って眉を顰めた。「……それもあなたのご指示ですか」

 葛斎は一服し終えるとゆっくりと頷いた。

「はじめから説明しよう。そもそも今、一泉は水面下で良からぬ風向きになっておる。全ての発端は妾と何梅の同盟からじゃ」



 先々代の御代みよ、葛斎は時の湶后おうひとして君臨したが、泉主おっとは政に無関心な王だった。ゆえに当時から葛斎は朝議に参加し施政に関わっていた。出自は文官、特に学者を輩出する一門の出であったから、葛斎も幼い頃からあらゆる書に親しみ政治の仕組みを理解しており、国母として国政の主導を握るのにそう時間はかからなかった。葛斎には現状の一泉に何が必要で、何を優先して解決し、どう対応していけばいいのかが分かっていたからだ。諸官は泉主に決裁を求めるよりもず湶后でありながら辣腕を振るう彼女に意向を請うことが当たり前になっていった。


 これまでの政策において最も成果を上げ、崔梓さいし葛斎の名を轟かせた功績は治水であった。古来より泉国において治水は最大にして最重要の事業だった。一泉は土地自体が傾斜を持った扇状地、いわば巨大なひとつの山で、その為に雨期になれば土地のいちばん低い南一帯は毎年のように泉が氾濫して民は飲み水に事欠き、居住者は常に貧困に喘ぐありさまで、徐々に人が離れて人口は北に集中していた。密集すれば今度はそれだけ生活水が足りなくなり、水が濁りやすくなる。給田の敷地は狭くなるのに土地の価値は跳ね上がりつられて租税も上昇していた。これでは貧富の差が開き国を豊かにすることは出来ない。早急に氾濫を封じる対策が必要で、しかしなぜか葛斎が乗り出したのは霧界の探索だった。


 一泉は天の庭・黎泉れいせんに最も近く九国の中で群を抜いて泉が清く、民はそれを誇りとする矜恃高い国だ。国民は自分たちを水神から分かたれた九兄弟の、その長子の末裔と自負し、一年を通して定められた日の祭礼はいくら貧しくとも決して欠かさなかった。同じく朝廷でも祭事はその全ての段取りを省かず毎回完璧に踏襲する。神域をたとえ外淵でさえも侵しては禁忌にあたるとした認識を無視したような葛斎の行動には、当初諸官からは批難の声が上がったが、いくらも経たないうちに持ち帰らせたのは息壌そくじょうという不思議な土だった。神域及び霧界は神代の頃より不可思議な獣や植物が蔓延はびこる土地、普通の泉民ならば近づこうとも思わない。しかし葛斎は手を尽くして探索しそれを手に入れた。黎泉からたまわった祝福として堤防の土と混ぜるよう指示した。すると土は漆喰しっくいのように水を弾き剣も通さないほど頑丈な岩土に変化したのである。しかもこれはやすことが出来た。葛斎のもたらした土は南地域の治水のみならず一泉全土に安寧をもたらす結果となり、朝廷が彼女を完全に信奉し崇拝するに至るとどめとなった。以来、泉主ではないため表立って名を唱えられはしなかったが、葛斎は賢君として今日まで称えられ続けている。他にも様々な改革をやり遂げ泉宮ではもはや泉主を差し置いて真の泉主と呼ばれるほど畏怖される対象となり、ついには太后府まで設けられて今現在三代にわたる聴政をなさしめその地位は揺るぎないものとなった。


 誰もが葛斎を賞賛したのは事績の為ばかりではなく、彼女が決しておごらず謙虚な姿勢を貫いていることにもよる。これで簒奪さんだつまがいの専横が起きようものなら廃するようにという声もあっただろうが、葛斎は泉主のいない場で決して重要な決議を採択しようとはしなかった。己がどれだけ実力があり優れていようと、降勅こうちょくした泉主にはその存在だけで泉を澄明にする力がある。それを忘れなかった。泉主を立てつつ采配を振るう姿にはますます賛美と畏敬の念が湧き起こり、この体制はもはや一泉宮において言をたないものとなったのだ。そんな中での角族との和睦だった。


 葛斎でさえ国の外からふいにやってくる北狄の奇襲は防ぎようがなかった。一度やって来ればひとつの郷里のその年の収穫は根こそぎ奪われ民は困窮に喘ぐ。どんなに国が安定しようとも悲劇が毎年どこかで起きることに皆が憂えていた。北辺の街々を襲う角族は毎回守備兵の数と比べようもないほど少人数でやって来るくせ恐ろしく強く、人離れした勇猛さで歯が立たない。国境警備を増やしても太刀打ちできない。そこで考えた苦渋の決断が角族に同盟を持ち掛けることだったのだ。


 当初この案は荒れに荒れた。いくら稀代の名君、一泉の至宝とうたわれた葛斎の意見といえど、誇り高い一泉がよもや泉のひとつもいただかない夷狄に迎合するというのは受け入れ難いことだった。しかしまるで潮流を見計らったかのように、提案を一蹴した者に真に迫って考えさせた決定的な出来事が起こった。


 北東州淮州の大禍たいか――角族による大規模な掠奪だった。


 この時だけでなく、時代をさかのぼって淮州と角族は深い因縁がある。角族の暮らす霧界は神域である黎泉の東にあり、直下した泉地で最初に行き当たるのが淮州、淮州は北東に横に延びて広がる麦飯石脈の鉱山の一大採掘地を有し、古くから国の経済を担ってきた。その淮州でひどい乱が起きた。義倉ぎそうは次々と暴かれ奪われて家々には火が燃え盛り、抵抗虚しく人々は北域を放棄せざるを得ず、難民が泉畿せんきに押し寄せた。さらに最悪なことには州府――州城が落とされ、州牧、刺史、主立った州軍の営将えいしょうたちまでが交渉の余地なく惨殺され城下も徹底的に破壊し尽くされた。国軍が出兵し流れたおびただしい血で泉水は鉄錆色の沼へと変貌し、逃げ遅れた水虎すいこがあまりの汚濁おじょくに死に絶えるという歴史に稀にみる最悪の人災だった。しかも、それを主導した敵の王は身重の女だというから、泉民の理解を超える状況と鬼畜の所業に朝廷も混乱をきわめた。


 しかしどんな偶然か角族族主何梅も葛斎と同じことを考えていたのだ。淮州の北一帯のあらゆるものを奪い草の根一本も残らないほどの焦土と瓦礫の山を築いた何梅は平然と泉宮に赴き同盟と和親を求めた。初めからそのつもりだったなら、何故これほどまで苛烈な強奪をしたのかと問えば一言、我らの矜恃の為、と。角族にとっては泉国に慈悲を垂れてもらうよりも力づくで同盟を勝ち取ったと認めさせるほうが納得のできる和合の仕方らしかった。


 反発は大きかったが、泉外民の介入は黎泉に奏上しても天罰などくだらない摂理ことわりの範疇外のこと、このままでは本当に土地そのものを奪われると危惧した面々は不承不承同盟締結を受け入れたのである。以来、角族は約を違えず攻撃はぱたりと止んだ。淮州も葛斎が率先して支援を指揮し急速に再建され、今では騒乱の前よりも豊かになっているほどだ。


 表面上、角族とは同盟以来平和な関係が続いており、両者の権益もほどよい塩梅で力は均衡を保っている。しかし、一泉の各州を見てみればそれは一部分の者の感覚でしかなかった。


 他州は淮州のように角族の侵掠を受けていたわけではなかったが同盟の前後も変わりなくそれほど豊かでもない。鉱脈のない州は特に産出する名産品もなくただわずかな耕地の恵みに縋るのみで、角族との交易で得られた利潤はすべて剛州と淮州周辺に偏ってしまっていたのだ。他国との親交もほとんどない一泉は商業分野ではあまり手が広くなく、ゆえに交易においては個人の客商くみあいが幅をきかせていたので国庫への還元は少ない。弊害は顕著で、南域の治水に成功し民が戻った現在においても全国の貧富の差は大きい。特に地元商人の富裕化が目立った。


 日々汗水を垂らして痩せた農地を開墾している民にとっては州ごとに大きく開きのある待遇は不満の種である。そしてその鬱憤は主に原因となった角族に向かっていった。民だけでなく、各郡太守や末端の一兵卒にまでも彼らに対する反感の念は水面下でふつふつと沸き立っていたのである。葛斎に対しても治水の成功者としての遠慮はあるものの批判がないわけではない。民にとっては過去にどんな善政を行った君主といえど、今の現状を打破してくれない為政者には価値を見い出せない。各地方にひそませた己の間諜かんちょうによってそれを察した葛斎はまずは再同盟を望む角族を試すことにしたのだ。



「同盟の結果富んだとはいえ、こと争いの矢面にされた淮州は今も昔も角族との和合には反対の色が濃い。州は朝廷へ如願泉の貸与を差し止める旨の奏上を封侯に口添えしてくれるよう何度も願っていたようだ。不満を述べるだけならまだいなしようがあったが、妾の遣わした刺史を誣告ぶこくでもって処刑したとなってはもう歯止めが効かないところまで来ておる。だがもちろん、不平を鳴らすのは淮州だけではないのだ。そこで妾は角族が我らと再び同盟をするに足る者たちであるのかを見定めたかった。しかしそうしている合間にも罪のない民に被害が及び出したゆえ、観察を切り上げて封侯におぬしらを保護するよう命じたのじゃ」

「保護?」

 瑜順が険しい顔のまま問う。

「州軍とは朝廷の直接の指揮下にはないものだが、それでも何人かは謙と妾の手先としてもぐり込んでおる。朴東関でともかく族主だけでも安全に保護するよう命じていた……はずが」

「我々が暴れたおかげで他の州兵にばれてあやうく討ち取られそうになった、と」

「おぬしの主は直情だの」

 葛斎はぱちりと扇を卓に打ち付ける。「淮州は今はああして妾に勝手がばれるのを恐々とし卑劣な手を使っておるようだが皺寄せに民が参っておる。開き直って叛旗はんきひるがえすのも時間の問題かと思われるので早々に事態を正さねば」

「封侯はとんだ食わせ者ですね。泉主も淮州もあなたの息がかかっているとは疑ってもいないようだ」

「あれは妾を裏切ったりはせぬ」

「……安命殿の急襲の件は。泉主が太師に宴の出席を止められたということは太師が指示を出したのでしょうか?」

「畿内で火災が起きたということと、怪しげな動きがあると報が入ったのは襲撃の直前。しかし太師が全てを企んだとは考えにくい。あれはそれほど狡賢ずるがしこい男ではないからの。泉主に諫言かんげんしたのも襲撃者と通じていたからではなく、単に奴の独断とも考えられる」

「剛州で広められた噂については?」


 それに関しては、と葛斎は立ち上がった。大卓を撫でるように手を添えてあちら側からまわって来る。

「どうやら尚書台に張り付かせていた妾の麾下てしたがやりすぎだようじゃ。どうあっても使節団は無事に巌嶽がんがくに招かねばならないと妾が命じたので気負うてしまい、辿り着くまでに民や破落戸ごろつきの邪魔が入ってはならんと密書を回したようでの。妾も人の扱いはまだまだのようじゃ」

司隷校尉しれいこういもあなたの腹心ですか。伝令を飛ばすにしても司隷校尉の耳目を掻いくぐって剛州じゅうに使者を走らせるのは難しいでしょう」

「左様、あれは我が甥じゃ。王戚の男子にしては珍しく物の分かる男で重宝しておる」


 瑜順は目の前に立つ葛斎をわずかだけ見下ろす。自分も背の高いほうだが彼女もかなりの長身だ。

「それで、我々は太后さまの御目にかないましたか。同盟を結んで頂いたということはそう解釈してよろしいのですね?」

 唇が弧を描いた。畳んだ扇の先で彼の顎を捉える。


「妾が試したのはおぬしらが再度の盟約を結ぶに値するかももちろんであったが、それは九割方すでに決定していたことじゃ。なにせ胡仙こせんから直々に文をもらったからのう。断ろうはずがない。見定めたかったのはうぬらの実力よ。特に族主の角公かくこう、――――そして、おぬしだ瑜順」

「――――私?」

「おぬしだろう?何梅の拾いは」

 瑜順は憮然と見返したが、葛斎はその瞳の小さな動揺を見逃さなかった。扇でゆっくりと頬を叩く。

「かつて何梅が泉宮に来た時、ふくれた腹の上に抱いていた赤子とまさかこんな形で相見あいまみえるとは」

「私はこれまでここに来たことなど」

 ない、と言おうとして、


「今も母親の走狗いぬをしておるのか。あれはひどい女であろ」


 遮った言葉に剣呑とした。

「……太后さまには、一切関係のないことです」

 ふん、と鼻を鳴らし、葛斎は黒目がちの瞳を細め睥睨へいげいした。

「一族の血を引かぬおぬしが最も忠義にあついとは皮肉じゃな。……もう水は飲めるのかえ?」

 瑜順はゆっくりと、しかしはっきりと拒絶の意を込めて扇を払った。

「何をおおせられているのか、分かりません」

「まだしらを切るか。――そうか。あの女からをなにも聞いていないのか」


 何のことだ、と眉を寄せる。葛斎は扇を開いた。あおぎながらしばらくあらぬほうを見、どうしたものか、とひとりごちる。そうして突然くるりと振り返ると、精緻な剔黒ほりもので埋め尽くされた衝立ついたての獣面紋様をなぞるようにじっと眺めひとつ頷いた。再び向き直る。


「何梅から聞かされていることを言うてみよ」

「……なにを」

「妾は全て知っているぞ、瑜順。何梅が『選定』のおりにおぬしを拾ったことも、おぬしをどうやって育て、何をさせようとしているのかも――全て」

 扇の裏で密やかな笑い声を立てた。



「――――楓氏ふうし



 意に反し、びくり、と体がたじろぐ。驚愕の眼差しで見返した。

「古よりの伝説。神域、黎泉のふちで泉を守護する天の監門もんばん九黎きゅうれいの民」

 黙ったままの瑜順の様子に興が乗ったのか軽やかに続ける。

「天帝が全ての水を治めていた神代より共にる……兵主神いくさがみとして怖れられたは名を蚩尤シユウ、その神裔こはなである楓氏」


 瑜順は生まれて初めて畏怖で震えた。何梅に対してさえも感じたことのなかった奇妙に総毛立つ感覚になすすべなく立ち尽くす。口中が干上がりしぜんと速くなる呼吸を悟られないよう必死で抑えた。この得体の知れない女から今すぐに離れたい。離れたいのに、目は次に何を言い出すのかとその顔を見つめてしまう。くつくつと葛斎は体を揺らした。


畜牲けだものどもが寄ってたかっておぬしを欲しがるわけじゃ。人ならざる魅力に当てられてしまうのよ。妾ももう少し若ければ相伴しょうばんあずかったかもしれぬが、如何せん神のと知っておるゆえ、どんな天譴ばつが降るともわからぬ」

 掠れた声が上擦る。

「………私は、ただの捨て子です」

「ほんにそう思うか?」

 可笑おかしげに問われて口を噤んだ。


「水が飲めぬ。腹は減らぬ。心も欲も真にたされることのない偽りの肉の器。それはただの容れ物に過ぎぬということは、自身が一番良く知っているのであろう?」


「……あなたは、どこでそんなことを……」

「妾の家は学者が多いのでな。史書から寓話に至るまで読み物には事欠かぬ」

「私は違います」

 懇願に近い声色で首を振ったが、葛斎は容赦なかった。

「腹を見せてみよ」


 病人のように白い顔をさらに青褪あおざめさせる一言は鼓膜に重く響いた。蟀谷こめかみから悪寒を生む汗がとめどなく流れて顎先から床に点々と落ちる。


「できません」

「なにも取って食おうというわけではない。それに、いまさら誤魔化したところでなんになる。妾は何梅から聞いたことを確かめたいだけ」

 幼子をあやすような声音だったが、有無を言わせない視線で刺す。獲物は射竦められて一度固く目を瞑り、やがて、こまかに震えながら半ば見えない手によって強制されるかのごとく衣服のとめに自ら指をかけた。


 沈黙の室内に衣擦れの音だけが響く。上衣は肘と帯鉤おびかぎまで降りて引っ掛かる。

 きたわったしなやかな肢体、無駄のない筋肉の隆起の上に引きれた傷痕が浮かび上がっている。熱せられて皮膚が溶けただれ、再び硬化して帯状に広がっていた。それは下腹部から脇にかけてを横断する。


「……なるほどな。へそのないのを火傷やけどで潰して分からなくしたか。何梅もむごいことをする」


 瑜順はたまらず膝をついた。知っていた、そう育ったものの、改めて真正面から突きつけられた事実を認めたくなく、それを泉地の女が冷静に、真実として把握しているという衝撃に打ち震えた。ひどい眩暈めまいがする。知ってなお平然と受け入れ、己と言葉を交わす、尋常ではないその姿。


「……なにが、目的です。分からない。あなたは何を考えている?我々を試して招き寄せたのはいったいどんな魂胆があるというのです」

「妾にはおぬしらがどうしても必要なのじゃ。同盟はどうあっても継続させなければならぬ。妾は只人、長く生きてせいぜい百を数える命。それまでに我が大望たいもうを成し遂げねばならぬ」

「大望……?」

 浅い呼吸を繰り返し、俯いて呟いた。いつの間にかさらに近寄った葛斎はおののく頬に手を当てた。ぞっとするほど冷たく細い指で逆撫でる。


「おぬしは自身の出生や泉地のことに何も思わぬような盲目ではあるまい。考えたことがあるじゃろう?なぜ自分たちがみずの大地から疎外され毒を吸って生きねばならないのか。黎泉とは何で、なぜ我らはそれに支配されているのか。泉民とは、泉外民とは、両者に何の隔たりがあるのか。己とはいったい何者か――この寰宇かんうを統べる神とは、我々にとって何なのか」


 瑜順は顔を上げた。間近に立つ女は微笑んでいるのに双眸はおおよそ人を見る眼差しではなかった。暗い水底のような、光の無い闇を映した温度のない瞳。しかしその中には確かに、ごうある人間特有の意志の燐火りんかが燃えていた。


「全て教えてやろう、楓氏の瑜順よ。その上で頼みたいことがある」

「……頼み」

「一泉の諸州が良からぬことを画策しておる気配がある。角族には同盟の名のもとにそれをしずめるのを助けて欲しいのじゃ。協力するよう角公を説得してくれるかえ」


 長く息を吐き、ようやく落ち着きを取り戻してきた瑜順はまだ笑う膝のまま立ち上がった。

「……淮州での道中のことをあなたが知っていて我々を危険に晒したと韃拓が知れば、あなたに協力などしない。それを見越して私を呼び出したのですね」

「賢いおぬしなら断らぬ。そうであろ?」

「私を脅すおつもりか」

 汗を拭った青年が臆することなく睨んできて葛斎は口角を上げた。

「脅す?おぬし、族主にも正体を明かしておらなんだか」

「ただでさえ、私は一族の中では異端なのです。何梅さまがおられるからこそ私の地位も揺るぎはありませんが、この上儕輩なかまや韃拓に……」


 その先を言うのは抵抗があった。たしかに飲食を必要としない身体からだはおかしい。自分が他人と異なることは己でも分かっている。しかし皆と同じく血汗を流し、容易に傷つく。疲れもすれば眠くなりもする。同じように誰かを愛しいとおもう。

 そんな自分が『違う』と認めるのが嫌だ。だが、それでは自分は何の為にここにいるのか、自分とは本当は何なのか、なぜ皆と違うのか……頭のなかの虚空に浮かぶ巨大な謎に押し潰されて発狂しそうになる。


 見損なうな、と葛斎は今まででいちばん柔らかで優しげな声音で言った。

「妾の計画が上手くゆかずともおぬしの正体を吹聴するような真似はせぬ。何梅もおぬしも敵には回したくないからの。ただ妾は角族とは今後も協調関係を築きたいだけ。たとえ我が国民くにたみ全てが反発しようとも必ず抑え込む。『族主』を失うくらいなら州の一つや二つ、灰燼かいじんに帰しても構わぬ」

「……分かりました。韃拓のことは、私がなんとかします。しかし、それほどまでにあなたに心を注ぐものがあったとは驚きです」

「妾とて欲にまみれた、ただの泉民の女に過ぎぬ。望みが己の手に届く範疇に見えれば見えるほど、ぎ取りたいと渇望するのは人のさが

 それに、と今度は手を自分の頬に当てた。

「少々飽きたのじゃ。堂々巡りのこの虚しい生に」

 瑜順はわずかに嘆息すると頷いた。

「もったいつけるのはいい加減にして頂きたい。損得を抜きにして、あなたの話にはとても興味があります。どうぞ、お教えください。この大泉地とは何なのかを」

「聴けばもう元には戻れぬ。瑜順、おぬしを敵にしたくはない。が、全て知った上でなお妨げるというのならばやむかたなし、妾はおぬしを殺さねばならぬ。覚悟は良いかえ?」

「そのお話が事実まことなのかどうかも太后さまの言葉だけでは推し量れません。ですが、角族にとって益となるようですので協力するつもりでお聴きしましょう。されどこちらとて、もしあなたの言葉全てが真っ赤な嘘であると判明したあかつきには私は一泉を滅ぼすよう一族に進言します」

 葛斎は不敵に笑った。「よろしい。掛けるがいい。少々、長くなる」



 すっかり短くなった蠟燭を取り替え、葛斎は淡々と語り始めた。これまでのあらゆる秘史、各国に散逸したあるひとつの真実と自分たちの立場を読み解き、考察したその結果を。


 青年はただ静かに耳を傾けていた。わずかに読み取れる表情は目と眉の繊細な動きのみで、それは時おり不審に顰められ、懐疑の念で細められ、驚きで見開かれた。葛斎は内心、そのさまをいまだ信じられない思いで凝視し、興味深く観察した。同時になんということかと彼を哀れんだ。人に飼われ、仲間への憧憬と親愛で自身をり減らす傀儡かいらい。だからこそ何梅は有用だと判じたのだ……いや、有用になるよう仕立て上げたのだ、とすがむ。こうして得た知識を話してやるのもひとえにこの者が絶対に必要だからだ。瑜順は権威に無心に従い盲信するような者ではなく、厄介かつ喜ぶべきことに頭が切れる。絶対に手許てもとに置いておかなければならない為には、こちらの手の内を明かさないまま使うことは出来ない。

 葛斎は話の切れ間にわずかに、ふ、と息をつき、眉間を押した。何梅が瑜順をここに遣わしたということは自分が彼をどのように使ってもいいということだ。彼女は昔も今もなにも変わらない。そして自分にもそれを求めている。こちらとて思いは揺らがない。分水嶺などはなからなく流れはひとつ、これは既に避けられないことなのだ。






 長靠椅ながいすの上で何度目かの寝返りをうった韃拓は暗闇のなか瞼を開いた。ぼんやりとした意識の端に人影をみとめる。足許に座り込んで凭れた友の黒い頭が見えた。夜陰にしらじらとたわめたうなじだけが浮かび、韃拓は呼び掛けるために口中を湿らせた。


「……眠らないのか」

 さやけさの中で小さく問うと瑜順は微かに笑ったのか頭を揺らした。「もうすぐ夜明けだ」

「少しは寝ておけよ。お前も昨日から休んでないだろ」

 被衾ふとんを瑜順に被せた。くるまれたほうは今度はただ上向く。


「…………韃拓」

「なんだ?」

「………………すまない」


 ぽつりと呟いた声は深閑とした室内の沈黙に吸い込まれていった。韃拓はしばらく無言でその後ろ頭を見つめると、また転がって背を向けた。

「何に悩んでるのか知らねえけど、全部俺に任せておけばいい。お前は考えすぎる」

 いつものように渋った声を返されるかと思ったが、この時の瑜順はまるで幼子のように素直にうんと頷いたのみだった。




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