十章
灯火の少ない
「よく来た」
昼間見た時より幾分砕けた格好の葛斎は肩に羽織った暗色の
「一度おぬしと二人で話しておきたくての。おそらくこれから忙しくなるゆえこうしてゆっくりする時間もそうあるまい」
言いつつ脇台の上に置いてある盆から
「いえ。頂いてきました」
そう、と頷き煙を吐き出す。瑜順は辛抱強く彼女の発言を待った。
「……言いたいことがあるのじゃろう?好きに申せ。ここには
それで口端を上げた彼女を、居住まいを正して真っ直ぐに見据える。
「では……
「――続けよ」
「淮州で我々に起こっていたこと、あなたはすべてご存知だったのでは?郷里に入れないのも、襲われたのも、関で追われたことも」
「何故そう思う」
「はじめ私は、淮州軍が動かないのは封侯に事が露見するのを恐れてのことだと思っていました。しかし昼間の話では侯も私たちのことはよく思っていない様子。それならば堂々と軍を動かしても差し支えないはずです。なにより泉主が動きを黙認していたわけですし、我が主の言った通り、後ろ盾を得ているならばもっとあけすけとして良いようなもの。それがまるで何かを
瑜順は見つめ返してくる色のない眼にわずかに眉を寄せた。
「淮封侯は、すべてはあなたに露見するのを危惧しているからではないですか」
反応はない。
「しかし逆に考えてみました。それほどまでに淮州での悪事を隠そうとしている彼のことをあなたが今まで全く気づかず野放しにしているはずもない。首都州でないとはいえ隣の州です。しかも太后さまは長年一泉の
葛斎はなおも無言でいたが、やがてふと笑んだ。
「我が朝廷にもおぬしのような賢臣がおれば良いのだが。いち部族の従僕にしておくには惜しい」
尊大に椅子背に凭れかかる。
「おぬしの考えは間違いではない。妾は角族が泉地に入ったことも、民から迫害されたのも知っていた。まさか商人を使って乗り切るとは思わなんだが」
「なぜそこまでご存知で放置されたのです」
「姜謙は妾の息子であり
意味を理解しかねて瑜順はさらに無表情に見つめる。葛斎は頬杖をつき、煙管を持ち直した。
「あれは妾の意向には逆らわぬ。たとえ
「話が繋がりません。では淮侯が民を
言って眉を顰めた。「……それもあなたのご指示ですか」
葛斎は一服し終えるとゆっくりと頷いた。
「はじめから説明しよう。そもそも今、一泉は水面下で良からぬ風向きになっておる。全ての発端は妾と何梅の同盟からじゃ」
先々代の
これまでの政策において最も成果を上げ、
一泉は天の庭・
誰もが葛斎を賞賛したのは事績の為ばかりではなく、彼女が決して
葛斎でさえ国の外からふいにやってくる北狄の奇襲は防ぎようがなかった。一度やって来ればひとつの郷里のその年の収穫は根こそぎ奪われ民は困窮に喘ぐ。どんなに国が安定しようとも悲劇が毎年どこかで起きることに皆が憂えていた。北辺の街々を襲う角族は毎回守備兵の数と比べようもないほど少人数でやって来るくせ恐ろしく強く、人離れした勇猛さで歯が立たない。国境警備を増やしても太刀打ちできない。そこで考えた苦渋の決断が角族に同盟を持ち掛けることだったのだ。
当初この案は荒れに荒れた。いくら稀代の名君、一泉の至宝と
北東州淮州の
この時だけでなく、時代を
しかしどんな偶然か角族族主何梅も葛斎と同じことを考えていたのだ。淮州の北一帯のあらゆるものを奪い草の根一本も残らないほどの焦土と瓦礫の山を築いた何梅は平然と泉宮に赴き同盟と和親を求めた。初めからそのつもりだったなら、何故これほどまで苛烈な強奪をしたのかと問えば一言、我らの矜恃の為、と。角族にとっては泉国に慈悲を垂れてもらうよりも力づくで同盟を勝ち取ったと認めさせるほうが納得のできる和合の仕方らしかった。
反発は大きかったが、泉外民の介入は黎泉に奏上しても天罰など
表面上、角族とは同盟以来平和な関係が続いており、両者の権益もほどよい塩梅で力は均衡を保っている。しかし、一泉の各州を見てみればそれは一部分の者の感覚でしかなかった。
他州は淮州のように角族の侵掠を受けていたわけではなかったが同盟の前後も変わりなくそれほど豊かでもない。鉱脈のない州は特に産出する名産品もなくただわずかな耕地の恵みに縋るのみで、角族との交易で得られた利潤はすべて剛州と淮州周辺に偏ってしまっていたのだ。他国との親交もほとんどない一泉は商業分野ではあまり手が広くなく、ゆえに交易においては個人の
日々汗水を垂らして痩せた農地を開墾している民にとっては州ごとに大きく開きのある待遇は不満の種である。そしてその鬱憤は主に原因となった角族に向かっていった。民だけでなく、各郡太守や末端の一兵卒にまでも彼らに対する反感の念は水面下でふつふつと沸き立っていたのである。葛斎に対しても治水の成功者としての遠慮はあるものの批判がないわけではない。民にとっては過去にどんな善政を行った君主といえど、今の現状を打破してくれない為政者には価値を見い出せない。各地方に
「同盟の結果富んだとはいえ、こと争いの矢面にされた淮州は今も昔も角族との和合には反対の色が濃い。州は朝廷へ如願泉の貸与を差し止める旨の奏上を封侯に口添えしてくれるよう何度も願っていたようだ。不満を述べるだけならまだいなしようがあったが、妾の遣わした刺史を
「保護?」
瑜順が険しい顔のまま問う。
「州軍とは朝廷の直接の指揮下にはないものだが、それでも何人かは謙と妾の手先として
「我々が暴れたおかげで他の州兵にばれてあやうく討ち取られそうになった、と」
「おぬしの主は直情だの」
葛斎はぱちりと扇を卓に打ち付ける。「淮州は今はああして妾に勝手がばれるのを恐々とし卑劣な手を使っておるようだが皺寄せに民が参っておる。開き直って
「封侯はとんだ食わせ者ですね。泉主も淮州もあなたの息がかかっているとは疑ってもいないようだ」
「あれは妾を裏切ったりはせぬ」
「……安命殿の急襲の件は。泉主が太師に宴の出席を止められたということは太師が指示を出したのでしょうか?」
「畿内で火災が起きたということと、怪しげな動きがあると報が入ったのは襲撃の直前。しかし太師が全てを企んだとは考えにくい。あれはそれほど
「剛州で広められた噂については?」
それに関しては、と葛斎は立ち上がった。大卓を撫でるように手を添えてあちら側からまわって来る。
「どうやら尚書台に張り付かせていた妾の
「
「左様、あれは我が甥じゃ。王戚の男子にしては珍しく物の分かる男で重宝しておる」
瑜順は目の前に立つ葛斎をわずかだけ見下ろす。自分も背の高いほうだが彼女もかなりの長身だ。
「それで、我々は太后さまの御目に
唇が弧を描いた。畳んだ扇の先で彼の顎を捉える。
「妾が試したのはおぬしらが再度の盟約を結ぶに値するかももちろんであったが、それは九割方すでに決定していたことじゃ。なにせ
「――――私?」
「おぬしだろう?何梅の拾い
瑜順は憮然と見返したが、葛斎はその瞳の小さな動揺を見逃さなかった。扇でゆっくりと頬を叩く。
「かつて何梅が泉宮に来た時、ふくれた腹の上に抱いていた赤子とまさかこんな形で
「私はこれまでここに来たことなど」
ない、と言おうとして、
「今も母親の
遮った言葉に剣呑とした。
「……太后さまには、一切関係のないことです」
ふん、と鼻を鳴らし、葛斎は黒目がちの瞳を細め
「一族の血を引かぬおぬしが最も忠義に
瑜順はゆっくりと、しかしはっきりと拒絶の意を込めて扇を払った。
「何を
「まだしらを切るか。――そうか。あの女からあのことをなにも聞いていないのか」
何のことだ、と眉を寄せる。葛斎は扇を開いた。あおぎながらしばらくあらぬほうを見、どうしたものか、とひとりごちる。そうして突然くるりと振り返ると、精緻な
「何梅から聞かされていることを言うてみよ」
「……なにを」
「妾は全て知っているぞ、瑜順。何梅が『選定』のおりにおぬしを拾ったことも、おぬしをどうやって育て、何をさせようとしているのかも――全て」
扇の裏で密やかな笑い声を立てた。
「――――
意に反し、びくり、と体がたじろぐ。驚愕の眼差しで見返した。
「古よりの伝説。神域、黎泉の
黙ったままの瑜順の様子に興が乗ったのか軽やかに続ける。
「天帝が全ての水を治めていた神代より共に
瑜順は生まれて初めて畏怖で震えた。何梅に対してさえも感じたことのなかった奇妙に総毛立つ感覚になす
「
掠れた声が上擦る。
「………私は、ただの捨て子です」
「ほんにそう思うか?」
「水が飲めぬ。腹は減らぬ。心も欲も真に
「……あなたは、どこでそんなことを……」
「妾の家は学者が多いのでな。史書から寓話に至るまで読み物には事欠かぬ」
「私は違います」
懇願に近い声色で首を振ったが、葛斎は容赦なかった。
「腹を見せてみよ」
病人のように白い顔をさらに
「できません」
「なにも取って食おうというわけではない。それに、いまさら誤魔化したところでなんになる。妾は何梅から聞いたことを確かめたいだけ」
幼子をあやすような声音だったが、有無を言わせない視線で刺す。獲物は射竦められて一度固く目を瞑り、やがて、
沈黙の室内に衣擦れの音だけが響く。上衣は肘と
「……なるほどな。
瑜順は
「……なにが、目的です。分からない。あなたは何を考えている?我々を試して招き寄せたのはいったいどんな魂胆があるというのです」
「妾にはおぬしらがどうしても必要なのじゃ。同盟はどうあっても継続させなければならぬ。妾は只人、長く生きてせいぜい百を数える命。それまでに我が
「大望……?」
浅い呼吸を繰り返し、俯いて呟いた。いつの間にかさらに近寄った葛斎は
「おぬしは自身の出生や泉地のことに何も思わぬような盲目ではあるまい。考えたことがあるじゃろう?なぜ自分たちが
瑜順は顔を上げた。間近に立つ女は微笑んでいるのに双眸はおおよそ人を見る眼差しではなかった。暗い水底のような、光の無い闇を映した温度のない瞳。しかしその中には確かに、
「全て教えてやろう、楓氏の瑜順よ。その上で頼みたいことがある」
「……頼み」
「一泉の諸州が良からぬことを画策しておる気配がある。角族には同盟の名のもとにそれを
長く息を吐き、ようやく落ち着きを取り戻してきた瑜順はまだ笑う膝のまま立ち上がった。
「……淮州での道中のことをあなたが知っていて我々を危険に晒したと韃拓が知れば、あなたに協力などしない。それを見越して私を呼び出したのですね」
「賢いおぬしなら断らぬ。そうであろ?」
「私を脅すおつもりか」
汗を拭った青年が臆することなく睨んできて葛斎は口角を上げた。
「脅す?おぬし、族主にも正体を明かしておらなんだか」
「ただでさえ、私は一族の中では異端なのです。何梅さまがおられるからこそ私の地位も揺るぎはありませんが、この上
その先を言うのは抵抗があった。たしかに飲食を必要としない
そんな自分が『違う』と認めるのが嫌だ。だが、それでは自分は何の為にここにいるのか、自分とは本当は何なのか、なぜ皆と違うのか……頭のなかの虚空に浮かぶ巨大な謎に押し潰されて発狂しそうになる。
見損なうな、と葛斎は今まででいちばん柔らかで優しげな声音で言った。
「妾の計画が上手くゆかずともおぬしの正体を吹聴するような真似はせぬ。何梅もおぬしも敵には回したくないからの。ただ妾は角族とは今後も協調関係を築きたいだけ。たとえ我が
「……分かりました。韃拓のことは、私がなんとかします。しかし、それほどまでにあなたに心を注ぐものがあったとは驚きです」
「妾とて欲にまみれた、ただの泉民の女に過ぎぬ。望みが己の手に届く範疇に見えれば見えるほど、
それに、と今度は手を自分の頬に当てた。
「少々飽きたのじゃ。堂々巡りのこの虚しい生に」
瑜順はわずかに嘆息すると頷いた。
「もったいつけるのはいい加減にして頂きたい。損得を抜きにして、あなたの話にはとても興味があります。どうぞ、お教えください。この大泉地とは何なのかを」
「聴けばもう元には戻れぬ。瑜順、おぬしを敵にしたくはない。が、全て知った上でなお妨げるというのならばやむかたなし、妾はおぬしを殺さねばならぬ。覚悟は良いかえ?」
「そのお話が
葛斎は不敵に笑った。「よろしい。掛けるがいい。少々、長くなる」
すっかり短くなった蠟燭を取り替え、葛斎は淡々と語り始めた。これまでのあらゆる秘史、各国に散逸したあるひとつの真実と自分たちの立場を読み解き、考察したその結果を。
青年はただ静かに耳を傾けていた。わずかに読み取れる表情は目と眉の繊細な動きのみで、それは時おり不審に顰められ、懐疑の念で細められ、驚きで見開かれた。葛斎は内心、そのさまをいまだ信じられない思いで凝視し、興味深く観察した。同時になんということかと彼を哀れんだ。人に飼われ、仲間への憧憬と親愛で自身を
葛斎は話の切れ間にわずかに、ふ、と息をつき、眉間を押した。何梅が瑜順をここに遣わしたということは自分が彼をどのように使ってもいいということだ。彼女は昔も今もなにも変わらない。そして自分にもそれを求めている。こちらとて思いは揺らがない。分水嶺など
「……眠らないのか」
さやけさの中で小さく問うと瑜順は微かに笑ったのか頭を揺らした。「もうすぐ夜明けだ」
「少しは寝ておけよ。お前も昨日から休んでないだろ」
「…………韃拓」
「なんだ?」
「………………すまない」
ぽつりと呟いた声は深閑とした室内の沈黙に吸い込まれていった。韃拓はしばらく無言でその後ろ頭を見つめると、また転がって背を向けた。
「何に悩んでるのか知らねえけど、全部俺に任せておけばいい。お前は考えすぎる」
いつものように渋った声を返されるかと思ったが、この時の瑜順はまるで幼子のように素直に
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