ミルキーウェイ・プレゼント
女良 息子
ミルキーウェイ・プレゼント
絶世の美少女である
ぼくは知っている──食堂で隣の隣の隣の隣の隣の席から覗き見た、学友と昼食の時間を楽しむ彼女の横顔を。
三時間目の数学の授業中に右斜め後ろの席から観測した、学業に勤しむ彼女の顔を。
彼女の席の近くで落とした教科書を拾うついでにちらりと見上げた彼女の顔を。
二階の教室の窓から一階の渡り廊下を見下ろした時に視認した、俯瞰構図な彼女の顔を。
真正面からの姿だって、四月に撮影したクラスの集合写真で確認済みである。
冒頭に述べた通り、彼女はたとえ麻袋で顔を覆われたとしても、その美しさが布地を通して輝きそうなほどの美少女なので、これまでぼく以外にも多くの人間から顔を見られていたことだろう。もしも人の視線に熱量が含有されていたら、彼女の美貌はいまごろ、月の裏側のごとく穴ぼこだらけになっていたに違いない。
しかし断言させてもらうおうか。
仮に世界中の人間が姫川美姫を観測した構図・方向・角度・状況の多さで競ったら、その頂点に立つのはぼくである。
ぼくの脳には姫川さんの顔が膨大に記録されているのだ。この点に関しては彼女の両親にだって負けるつもりはない。
だが、そんなぼくでも──上下逆になった彼女の顔を見るのは初めてだった。
真っ逆さまに落下する彼女を見るのは初めてだった。
◆
人間が重力に従い、地面に足を付けて歩く生き物である以上、上下逆の姿を日常生活で見ることはありえない。しかしある夏の夜、図書館の帰り道を歩いていたぼくの目の前を上から下に通り過ぎていった姫川さんは、そんな常識を否定するかのように、小さな頭のてっぺんを地面にまっすぐ向けていた。非日常的な異常事態にありながらも、彼女がその顔に帯びた美しさは、ほんの少しも欠けていない。そんな筋金入りの美少女が降って来たのだから、ぼくが「流れ星が落ちた」と勘違いしてしまったのは、仕方のない話である。
そんな風にぼくが彼女の美しさに見惚れている間に、彼女は自然の摂理に従ってぐんぐんと下降し──がごっ。
西瓜を割る音を更に硬質にしたような音を響かせて、地面に落ちた。
ぼくは思わず後ずさり、視線を下ろす。花火のように広がる血溜まり。割れた頭。白樺の枝のようにしなやかで細い指先は痙攣すら起こしていない。医師免許どころか家庭の医学すら不十分なぼくの目から見ても明らかなほどに、姫川さんは即死していた。
どっ、と汗が噴き出る。周囲を取り巻く空気は、周囲一帯が赤道直下の島国の飛び地になったのではと思わされるほどに蒸し暑い。だが、今のぼくの顔が汗で濡れているのは、夏の熱気だけが原因ではなかった。
どこかから聞こえる蝉の声は、なんだかいつもよりも騒がしく聞こえる。それに加えて、ぼくの心臓は思いっきり叩かれた和太鼓のように高鳴り、これまで生きてきた十余年で聞いたこともない大音量を奏でていたのだから、ぼくはまるで蝉とデュエットを組んで、彼女に鎮魂歌を捧げているみたいな気分になった。
「や…………」
口が言葉を吐き出そうとするが、動揺で呂律が回らず、それ以上紡げない。
興奮で隅が赤く染まった視界で上を見る。月が浮かぶ夏の夜空には、分厚い雲が見えた。この様子だと、近いうちに降り出しそうだ。そんな空の手前には、三階建てのビルの影があった。たしか数年前に開校されるも、周辺地域の学生の数と進学率の低さを把握していなかった経営陣のミスにより、あっけなく廃屋と化した学習塾である。位置的に考えて、彼女はあそこから落ちたのだろうか。
「やっ……や、や……」
呼吸機能はぼくの手を離れ、発語どころか呼吸さえ難しくなっていた。去年の冬に体育の授業の一環として開催された持久走大会で走った時でも、ここまで息が苦しくなることはなかったはずである。
それでもなんとか脳に酸素を回しながら、空に投げていた視線を地上に戻し、周囲を見渡す。碌に舗装されていない田舎道に人の気配はない。つまり、ここで起きた一連の出来事は、ぼくの他には月と蝉しか見ていないということだ。その事実を確認すると、ぼくは彼女を持ち上げた。世間的には体力のある十代の若者とは言え、常日頃から鍛えているわけではないぼくが、人ひとりの体重を支えられるのだろうかという不安はあったが、それは杞憂だったらしく、姫川さんはとても軽かった。体の内側に血や肉ではなく、綿あめみたいにフワフワした、なにか素敵なものが詰まっているんじゃないだろうか。……、などとメルヘンな妄想に耽るには、彼女は自分の肉体の構成物質を頭部から見せつけてしまっているけども。
姫川さんを持ち上げるのに成功したぼくは、そのまま彼女を背負って、その場を離れた。本当なら絵本に出てくる王子様みたいにお姫様抱っこで運びたかったのだけど、それはぼくの貧弱な筋肉が許してくれなかった。
「やっ、や……や……」
未だに十全な調子に戻らない舌を蠢かせながら、足を動かす。人に見つからないように細心の注意を払いながら歩いた。幸運なことに田舎の夜道は人通りが少なかった。田舎バンザイ。
学習塾の外周をぐるりと伝うようにして歩いたのちに、入り口前に到着する。ドアには立ち入り禁止の張り紙がされていたけれど、施錠が解かれていたので、簡単に通過できた。きっと姫川さんが落下する前にここを通った際に、鍵を破壊するなり開錠するなりしたのだろう。
背中に彼女の重みを感じながら階段を踏む。慌てて登ろうとしたせいで脚がもつれ、転びかけたが、なんとか踏みとどまった。二階に到着し、空き教室のひとつに這入る。べつに空き教室なら一階にもいくつかあったのだけど、玄関から這入ってすぐのところにある部屋では、外の通行人に気付かれるんじゃないかという不安が頭をよぎったため、二階に移動したのである。
この頃になると、呼吸はだいぶ落ち着いていた。あれだけ騒がしかった鼓動も、今となってはボリュームがダウンしている。それでもまだ平時からは程遠い。ちなみに今の姫川さんには、呼吸も鼓動も存在していなかった。死体なんだから当たり前だ。
床の上に積もって霜柱みたいになっている埃を足で払う。ある程度綺麗になったことを確認すると、ぼくは硝子細工を扱うよりも丁寧に、花を扱うよりも丁重な手つきで彼女を教室の中央に横たえた。すると、それまで昭和のモノクロ写真のように色褪せていた教室が、彼女ひとりを添えただけで、花畑の如き色鮮やかさを得たかのように感じられた。掃き溜めに鶴ならぬ、教室に美少女である。
僕も追従するように寝転がる。ひんやりとした床材が火照った体を冷やす感覚が心地いい。横になりながら、「そういえばこういう状況で彼女の顔を見たことも無かったな」と気が付いた。……なんだ、ぼくの知らない彼女の顔は、他にもまだまだあったではないか。やれやれ、これでは姫川美姫観測の第一人者としての立つ瀬がない。
「や──」
やっと正常に戻った言語能力を駆使して、ぼくは言う。
「やった……!」
飛び出た言葉は純粋な歓声だった。
「ひ、姫川さんが……手に入った……!」
天から降ってきた贈り物に、ぼくは諸手を上げて喜んだ。
奇しくもその日は七月七日の水曜日。
日本で一番有名なカップルが、年に一度の逢瀬をする日だった。
◆
人と人が出会うことは素晴らしい。
ましてやそれが運命的だったり奇跡的だったりすれば最高だ。そういう素敵なことの積み重ねで、人間社会は歴史を刻み、ここまで大きくなったのである。しかし、この世のどんな出会いであっても、ぼくと姫川さんの出会いとは引き合いにさえなるまい。源義経と武蔵坊弁慶の出会いも、シャーロック・ホームズとワトソンの出会いも、ぼくらの一夜の出会いに比べたら、語るに値しないエピソードへと凋落し、歴史の片隅に埋もれてしまうだろう。
だって、考えてみてくれよ。
建物の屋上から落ちた美少女が、彼女のことをこの世の誰よりも見ている人物の前に落下して、しかも周囲に第三者がいなかったなんて──そんな奇跡を、偶然の一言で済ませられるだろうか?
この出会いはきっと、これまで姫川さんの観察を真摯に続けてきたぼくへのご褒美として、天が与えてくれた贈り物だ。生まれてこのかた神の存在なんて信じたことがなかったけれど、これからは信じてもいい。毎朝祈りを捧げようじゃあないか、ぼくと姫川さんを巡り合わせてくれた神に。
◆
昨日は素敵なイベントがあったものだから、朝になって目を覚ましたぼくは、非常に爽やかな気分になっていた。どこかから響く蝉の大合唱は聞いていて心地よく、あれだけ煩わしく思えていた朝陽さえ愛おしい。まるで、世界の全てがぼくと姫川さんを祝福してくれているかのようだ。とはいえ、いくら気持ちよく目覚められたといっても、眠気が完全に抜けきってはいなかったので、ぼくは大きな欠伸をしながら、目尻に浮かんだ涙を拭った。
昨日は夜更かしをしてしまった。
学習塾跡でしばらくの間、姫川さんと二人きりで過ごす時間を堪能したあと、ぼくはおもむろに立ち上がり、階段を降りていった。外で飛び散っている姫川さんの内容物を処理するためである。人通りの少ない深夜のうちは、人目に入ることがないだろうが、朝になれば通勤通学中の誰かや犬の散歩中の誰かが発見して、警察が動き出し、ゆくゆくはその捜査の手が姫川さんの死体にまで伸びてくるだろう。それは絶対に避けたい事態だった。天からの贈り物を、たかが国家権力が横取りするなんて、あってはならないことである。
そのような考えがあって下界へと舞い戻ったのだけど、その後ぼくが清掃作業をすることは無かった。なぜなら、ちょうどそのタイミングで雨が降り出していたからである。たしか七夕に振る雨は、天の川を渡れなくなった織姫と彦星が流す涙になぞらえて催涙雨と呼ばれており、あまり縁起のいいものではないのだが、当時のぼくにとっては、祝福の雨に他ならなかった。ざあざあと音を立てて降る水滴はきっと、姫川さんの死の痕跡を完璧に洗い落とし、路肩の側溝へと流し込んでくれるだろう。ぼくは干ばつに苦しんでいた農民のように、歓声をあげながら天を仰ぎ見た。
素敵なオプションまで空から降らせてくれる、気の利いた神に感謝すると、ぼくは学習塾跡へと足早に戻り、そこで再び姫川さんとの夢のような時間を過ごした。そして何十分か経った後、身を引き裂かれるような思いをしながら彼女と別れて、自宅に帰った。その時のぼくの心境たるや、織姫と別れる彦星に匹敵するほどである。
本音を言えば、姫川さんを自室に招き、最高のもてなしを提供したかったのだけど、我が家の住人が彼女を目にした時の反応を考えると、それは実現が難しい願望だと判断せざるを得なかった。いっそのことぼくが学習塾跡で寝泊まりすればいいのでは、という考えも思い浮かんだが、息子の無断外泊を知った家族が警察に相談し、ゆくゆくはその捜査の手がぼくへと届き、ついでのように姫川さんが発見される可能性を考えると、やはりそれも実現が難しい願望だと判断せざるを得ない。
そんなわけで遅めの帰宅をしたぼくは、そのまま醒めることのない興奮を抱えながら、悶々とした夜を過ごしたのである──翌朝の木曜日。
ぼくは眠気で蹌踉とした足取りで学校へと向かった。姫川さんのいない学校なんて行く意味があるのだろうかと思ったし、出た答えは「ない」だったが、それでもぼくのように皆勤賞くらいしか取り柄のない、平々凡々の平均値生徒が突然なんの理由もなしに不登校になれば、周囲から不審の目が向けられるだろう。誰にも知られてはならない秘密を現在進行形で抱えているぼくにとって、そのような邪眼の発生は好ましくないどころか、嫌悪すべき事態だ。
ぼくと姫川さんのクラスであるC組は、今日も今日とて平常運転だった。朝のホームルームが始まる前の段階では誰も姫川さんの不在に気付いていない。やがて担任教師がやってきて、朝のホームルームが終わり、一時間目の授業が始まったことで彼女の欠席は確定となったが、それでも教室内に大したリアクションは起きなかった。授業と授業の合間の休憩時間に、教室内のどこかから思い出したような声で「そういえば姫川さん今日休みだね」が聞こえ、やがて他の話題に掻き消される程度である。数か月前に親戚に不幸があった彼女が忌引きで学校を休んだ時のぼくのように、見るからに動揺し、何も手に付かなくなっている人は誰も居ない。……まあ、ぼくのように誇りと自尊心を持って姫川さん観察をおこなっている人物でなければ、学校イチの美少女の欠席を知っても、この程度の反応になるのだろう。
姫川さんを無くしたことで存在意義の十割を喪失した校舎での不毛な一日は滞りなく過ぎ、やがて放課後を迎えた。ホームルームが終わるや否や、ぼくは素早く、されど余計な注目を浴びないように気を付けながら、教室を後にした。グラウンドを見ると、夏の大会を間近に控えた運動部が、活動の準備をしていた。
昨晩の雨がすっかり乾いた路地を何分か歩き、やがて学習塾跡に到着する。どうやらこの辺りは時間帯に依らず人通りが少ないらしく、夕方の今、周囲を注意深く見渡しても、人影ひとつ見当たらなかった。おかげでまだ太陽が西の空で輝いている時間のうちから、廃墟への不法侵入を難なくおこなえた。
階段を一段飛ばしで駆け上がり、二階の教室に辿り着くと、そこには姫川さんが昨日と変わらない姿で横たわっていた。授業中、「ぼくがいない間に何処かに連れ去られたらどうしよう」と気が気ではなかったが、それは杞憂だった。ほっと安堵の息を吐くと、ぼくは教室のあちこちに放置されていた机を寄せ集め、縦ふたつ横みっつ、計むっつの机を用いた長方形を完成させた。それに通学鞄から取り出した大きな白い布を被せる。今朝、自宅の押し入れから発見したシーツだ。ぼくは彼女を持ち上げ、机上に移動させると……なんということでしょう。その光景の神秘たるや、今にも机の根元から色とりどりの花がぴょこんと生えてきそうなほどである。ぼくは目に映る光景の美しさに感激し、膝から力が抜けそうになった。
円を描くようにして教室内をぐるぐると歩きながら、その中央で横臥している姫川さんを三百六十度あらゆる方向から鑑賞する。ディズニーランドの隠れミッキーのように体の各所に黄金長方形を隠している彼女を観察するのは、なんとも贅沢で至福の時間だった。こんな体験ができるぼくは、きっと前世で数えきれない程の徳を積み重ねたに違いない。
ぼくはしみじみと感じ入りながら、「姫川さんは綺麗だね」と呟いた。当然、返事の声は無かったが、彼女に話しかけることができたという事実だけで、ぼくの心は温かい何かで満たされた。
姫川さんと共に過ごす時間はとても楽しく、飽きの来ないものだった。しかし数時間もすれば、あたりは夕闇に包まれ、ぼくは学習塾跡からの撤退を余儀なくされた。
◆
翌日──金曜日。
今日も担任は姫川さんの欠席を告げた。さすがに同級生が二日続けて学校を休んだとなると好奇心が刺激されるのか、C組はざわついていた。教室のどこかから「姫川さん」という言葉が聞こえる頻度が、いつもより高い気がする。
たった二日でここまで異様な雰囲気になるのかと驚かされたが、それでも話題に上がるのは姫川さんの『欠席』であり、『失踪』ではない。ましてや『自殺』なんて、『じ』の字すら出ていない。それに、そんな不穏な空気も昼休みを過ぎると、週末に町の中央公園で開かれる花火大会へと話題が変遷されていった。現代社会の情報の移り変わりの速さに、ぼくは思わず舌を巻いた。
学校に姫川さんの欠席を伝えたのは、彼女の家族なのだろう。彼らは二日前を境に家に帰ってこなくなった娘を、どう思っているのだろうか。授業中にそんなことを考えたぼくは、放課後、塾の跡地に向かう前に姫川さんの家に寄ってみることにした。
自宅の住所よりも脳に深く刻まれた住所に従って町を歩いたぼくは数分後、目的地に辿り着く。そこにはクリーム色の壁をした家屋が建っていた。一見、平凡な現代風の一軒家にしか見えないが、それに『姫川さんの家』という情報が付属すると、途端に輝いて見えるのだから、人間の目は不思議である。この建物を何度か見たことがあるぼくでも、あまりの輝きに目を細めてしまった。
ぼくがそんな風に挙動不審になっていると、背後から大きな人影がぬっと現れた。夏らしいカジュアルな服装に身を包んだ男性だった。講義終わりの大学生、といった感じの格好である。ぼくは彼と会ったことはなかったけれど、どこか見覚えのある顔立ちから「たぶん姫川さんの兄なんだろう」と思った。
「オマエ、誰だよ? ウチの前でナニうろちょろしてんだ?」
やはり姫川さんの血縁者なのか、茶色に染めた髪を南風に揺らしている彼は、探るような目でぼくを見つめた。
「あ、あのぅ……ぼく、姫川さんの、姫川美姫さんのクラスメイトでして……彼女が休みなので、ええと、学校からの配布物を渡そうと……」
まさか「いま現在僕の手元にある死体の実家がどうなってるか気になったので見に来ました」と言えるはずもなく、代わりにぼくの口から咄嗟に出たのはしどろもどろな言葉だった。我ながら胡散臭い。
茶髪の男性ははしばらくぼくを見つめた後、「ふうん、妹に客がね」と呟いた。やはり、彼女の兄であるようだ。
「いいよ。あがりな」
姫川さんの兄さんはそう言って、玄関を開けた。
「もっとも、ミキは今、家にいないんだけどな」
それは重々承知してますよ、とぼくは心の中でそっと呟いた。
◆
どうやらぼくは暇な大学生の暇つぶしの為に、家にあげられたらしい──というのは、姫川さんの兄さんの態度で察しがついた。
案内されたのは姫川さんの部屋でなければ兄さんの部屋でもなく、リビングだった。ぼくに部屋の中央のテーブルを囲むようにして置いてある椅子の一脚に座るよう促した姫川さんの兄さんは、キッチンで氷の入ったふたつのグラスに麦茶を注ぎ、席についた。グラスの片方をぼくに渡しながら、彼は口を開いた。
「で、どうなの? オマエってミキのことが好きなの?」
ぼくは机に突っ伏した。その衝撃で、グラスの中の氷がカランと甲高い音を鳴らした。あまりに勢いよく頭を机にぶつけたせいで、危うく姫川さんのように頭蓋骨が割れるところだった。
「い、いきなり何を言うんですか」
「お、図星のようだな。まあ、好きでもなきゃ、ただのクラスメイトのためにこんなクソあちい中を歩いてこねえよな」
言って、姫川さんの兄さんは麦茶に口をつけた。姫川さんと同じ血が流れているだけのことはあり、その姿はとても絵になった。もっとも、姫川さんほどではないが。
それから二、三言、どうでもいい会話の応酬が続いた後に、姫川さんの兄さんは不意に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「オマエ、ミキが学校に来ていない理由って知ってるか?」
「いえ、単に欠席だけと」
ぼくが嘘を吐くと、彼の笑みはますます深まった。そして、内緒話でもするような声で、
「家出してるんだよ、アイツ」
と言った。
「何日か前に親父と喧嘩してな。理由はくだらなすぎて言いたくもねーくらいだ。国内の各家庭に親子喧嘩の理由でアンケートを取ったら、間違いなく一位に輝くであろう理由さ──だけど、その結果起きた喧嘩は、他に類を見ない程に酷かった。我が家にだけ一足早い花火大会が到来したかのようにやかましかったぜ」
当時のことを思い出したのか、うんざりとした顔をする姫川さんの兄さん。
「最終的にミキは家を出た。んで、今も帰って来てない。まあ、アイツのことだし、どっかダチの家に泊ってるんだろうよ。あと何日かすれば帰ってくるさ。思春期のガキが後先考えずに突発的にやる行動のオチなんて、大概そういうものなんだからよ。親父たちもそれが分かっているし、身内の恥をわざわざ晒すわけにもいかねえから、学校には大した理由も言わずに欠席で通してるのさ」
肩を竦める彼の姿を、窓から差し込む西日が照らした。
「親父も親父だけど、ミキもミキだよな。どーして、あんなどーでもいい、よくある理由でこの世の終わりみたいに絶望できるのかね──まあ、アイツも世間によくいる子供のひとりっつうことかね」
「それは違いますよ」
それまで聞き手に徹していたぼくは、そこでようやく口を開いた。それは暑い夏に不似合いな、底冷えのする声だった。
「姫川さんは世間によくいる子供のひとりなんかじゃありません」
◆
ぼくの発言で姫川家のリビングの空気は最悪になった。ぼくは頂いた麦茶を飲み干すと、先ほど玄関前で口にした台詞を嘘にしないために、鞄の中から適当なプリントを何枚か取り出すと、それを机に置いて、逃げるようにしてその場を去った。受領者が帰宅することが未来永劫ない場所に置き去りにしてしまったプリントたちに、ほんの僅かな罪悪感を覚える。
そのままぼくは連日通っている学習塾跡へと足を運んだ。そこには今日も姫川さんがいた。彼女を目にした瞬間、ぼくは姫川家を出てからずっと自分の体にまとわりついていた嫌な何かが消え失せたような気分になった。
姫川さんは世間によくいる子供のひとりなんかじゃない。ワンオブゼム程度で、ぼくの心がここまで動かされるわけがないだろうが。彼女は世界中どころか宇宙を見渡してもぼくのそばにしかいない、特別な存在だ。それを貶すような言い方をするのは、たとえ実兄であっても許せない。せめて、姫川さん観測競技でぼくより上の成績を収めてから言ってくれ。
そんなことを思いながら、ぼくは今日も「姫川さんは綺麗だね」と呟いた。すると「ありがとう」と返事が聞こえた。理想を交えて考えると、姫川さんの声だった。ちょっぴり現実的に考えると、姫川さんの声と僕の声を足して二で割ったような声だった。やや現実的に考えると、ぼくの声を甲高くしたような声だった。現実的に考えると、ぼくの声だった。現実はそんなものだった。それでいいと、ぼくは思った。
姫川さんがここにいるだけで、現実は最高だ。
◆
翌日──土曜日。
夏の一大イベント、花火大会の当日である。
花火が打ち上がるのは夜からだが、屋台の準備はまだ日の高い夕方から始まる。中央公園には既に、いくつもの出店が、顕微鏡で拡大した植物の細胞のように犇めいていた。あちらでソースの焦げる臭いが漂ってきたと思えば、こちらから氷の削れる音が聞こえる。どこかからピーヒョロロという陽気な笛の音が響いた。視界に映る賑やかな空間に、ぼくは姫川さんの幻覚を重ねた。浴衣を着て祭りを楽しむ彼女の姿を想像すると、つい頬が緩んでしまう。
誘惑を発する出店のうち、いくつかに寄ると、ぼくの両手はたちまちの内に戦利品で一杯になった。その時、祭りの浮かれポンチな空間に不似合いな厳然とした制服を着ている警察官を目撃したことで、ぼくの足は固まった。すわ、ぼくから姫川さんと奪い去らんとしている悪の手先かと思ったが、それが思い違いだったようで、姫川さん観察で鍛えた自慢の視力でようく見てみると、彼はただ警備と監視を目的として、この場にいるようだった。「ご苦労様です」と心の中で呟きながら、ぼくは小さく礼をした。
そのままぼくは中央公園を離れ、いくつかの路地を通り過ぎ、花火大会の会場とは打って変わって閑散とした通りに出た。やがて現れた学習塾跡に這入り、慣れた足取りで階段を上がる。
「おまたせ、姫川さん。本当なら、一緒にお祭りを歩きたかったけど、それは無理そうだからさ──せめて、雰囲気だけでも楽しもうよ」
言って、ぼくは姫川さんを机から下ろし、近くに転がっていた椅子に座らせた。その隣に、ぼくの席も置く。手近な机の上に戦利品を並べると、その場に花火大会の小さな会場が誕生した。
ぼくはタコ焼きに手を伸ばした。姫川さんは動かない。
ぼくは焼きそばを啜った。姫川さんは動かない。
ぼくはイカ焼きにかぶりついた。姫川さんは動かない。
ぼくはベビーカステラを頬張った。姫川さんは動かない。
ぼくは幸せで幸せで幸せで、たまらなくなった。きっと姫川さんも同じ気持ちだろう。
その時、遠くから、ぱあんと音が轟いた。
窓に四角く切り取られた夏の夜空を大輪の花が舞う。まるで結婚式で花嫁がするブーケトスみたいだった。
ぼくはうっとりと目を閉じ、姫川さんに凭れ掛かる。
どこかから鼻につく腐臭が漂っていて、蠅が近くを飛び回る音が不快だったけど、彼女と一緒にいると、そんなことはすぐに気にならなくなった。
彼女とこれからも幸せな日々を送れるのかと思うと、無上の喜びを感じられた。
愛は終わり、愛は続く。
ミルキーウェイ・プレゼント 女良 息子 @Son_of_Kanade
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