修行の早道 使い魔確保?
いつも以上に研究センターに顔を見せなかった萩尾丸が研究センターの事務所に舞い戻ってきたのは、終業時間十分前の事だった。六月が近いと言えども既に夕焼けと闇の気配が広がっている。
「おかえりなさい、萩尾丸」
いの一番に彼を出迎えたのは師範である紅藤だ。彼女は白衣の裾がはためくのも気にせず、速足気味に萩尾丸の許に向かっていった。
その様子は見た感じでは本当にごく普通の若い女性の所作と変わらない。研究センターの最高責任者、雉鶏精一派最強の妖怪としての威厳やすごみは一切感じられなかった。しかし真に強い者は、自分が威厳に満ち満ちて見えるかどうかなど気にしないものである。気にせず自然体でいる事自体が一種の威厳になる事さえあると言っても良いだろう。
「長らく留守にしていてすみませんねぇ、紅藤様」
敬語ながらも気安さが滲み出た声が聞こえる頃には、萩尾丸の姿は源吾郎にも見える場所まで進んでいた。源吾郎は教育訓練を書く手をはたととめ、萩尾丸を見やった。
しばらくぶりに間近で見かける萩尾丸の姿はいつもと若干異なっていた。具体的に言えば、倦み疲れた気配が全身から放出されているのだ。萩尾丸先輩ほどの大妖怪であっても疲れる事があるのだな……源吾郎はのんきにそんな事を思いさえした。
「お久しぶりです萩尾丸さん。随分お疲れのようで」
「は、萩尾丸先輩。大変だったんじゃないですか? 心の、隙間が増えてますよ?」
紅藤の挨拶が合図だったと言わんばかりに、青松丸たちも萩尾丸の傍に近付いて声をかけた。比較的若いサカイさんはもとより、青松丸の言葉にも萩尾丸に対する敬意の念が滲んでいる。やはり紅藤の一番弟子・第六幹部の地位は伊達ではない。
源吾郎も書きかけの教育訓練を放り出し、萩尾丸の許に向かった。兄弟子姉弟子は既に萩尾丸に挨拶を終えたのだ。末弟子の源吾郎が、教育訓練をダシにして挨拶をおろそかにするのは間違っている。
「お久しぶりです、萩尾丸の先輩……」
上目遣い気味に源吾郎は萩尾丸を見上げた。上目遣いには特に意味はない。男子としては小柄なため、また幼少の頃より年長者と話す際にできてしまった癖である。
ちなみに同級生や学校の生徒らからは男女を問わずあざといだの不気味だのと言われて結構不評だった。女子の上目遣いは可愛いというのに、世間は世知辛く理不尽だ。
「ああ、久しぶりだね島崎君。しばらく見なかったけれど、元気そうで何よりだよ」
師範や他の弟子たちに囲まれているにもかかわらず、萩尾丸はまず源吾郎に声をかけた。炎上トーク大好きな萩尾丸先輩は、幸運な事に源吾郎の上目遣いをこき下ろす事は無かった。むしろ彼は爽やかな笑みを浮かべているくらいだ。
「事後報告になりますが、事の顛末を報告しますね。紅藤様はお聞きしますよね?」
「ええもちろん」
「それじゃあ説明しましょうか」
説明を始めようとした萩尾丸は、何を思ったか今一度源吾郎に視線を送った。鋭く睨まれたわけでもないのに、源吾郎は驚いて軽く身を震わせてしまう。
「そうだね、特に島崎君はしっかりと聞いておいて欲しいね。何しろ今回の件は、間接的と言えど君が発端なのだから」
「…………!」
一体俺が何をしたというのだ。萩尾丸の言葉に源吾郎は驚いたが、驚きが強すぎて却って声が出てこなかった。源吾郎が不祥事を起こしたのはぱらいその一件くらいだ。それ以降の四週間は、真面目に仕事に励み、真面目にプライベートを楽しんでいた。私生活の方ではある程度地元の妖怪や術者とやり取りがあったが、常識の範囲内に収まる出来事でしかない。別に地元妖怪と派手に喧嘩をしたとか、術者のアジトに殴り込みをかけたとか、そのような物騒な事には手を染めていない。
萩尾丸の舐めるような視線が源吾郎の全身を覆う。呆然とする源吾郎の様子を確認すると、萩尾丸は湿っぽい笑みを浮かべた。
「身に覚えがないのも仕方ないだろうね。今回の件は、ある意味君が直接何かをしたという話ではないからさ」
どのように話が転ぶのか、源吾郎には気が気ではなかった。間接的に関与していると前置きをしているが、萩尾丸の事だから色々と面白おかしく言い募る可能性があると源吾郎は踏んでいた。しかもいつも以上に疲弊している。疲れる仕事の恨みとして、いつも以上に妙な事を付け加えるのではないかと思っていたのだ。
「豊田文明君の事は島崎君も知ってるよね? 前に、君と術較べをした狐だよ」
はい……かすれた声で頷き、源吾郎はぐっと身を乗り出した。
「フミっち、いえ豊田君がどうかしたのですか?」
問いかけながら、心臓がうねるのを源吾郎は感じていた。術較べを行った文明狐の話が出たという事は、十中八九術較べが彼に何か善からぬ影響をもたらしたという事であろう。そう言えばあの時妖力を使い切ってしんどそうだったが、まさか体調でも崩したのだろうか……源吾郎の心中には仄暗い不安が暗雲のように渦巻き始めていた。
その心中の動きに萩尾丸は気付いたのだろう。軽く笑いながら首を振った。
「何、そんなに深刻な表情をしなくても良い。豊田君自体は元気そのものさ。今日も今日とて本部で働いていたし……」
妙な部分で単語を強調して発音すると、萩尾丸は含みのある表情を見せた。
「実はね、豊田君自体は五月いっぱいで退職して、別の妖怪組織に転職する予定だったんだよ。ああ誤解しないでくれたまえ。島崎君と術較べを行ったから退職を決意したとか、そういう事じゃあないからね。むしろ術較べを行う時には退職も新しい転職先も決まっていたんだ。転職して新しい職場に馴染むのにあたり、玉藻御前の末裔と闘ったという履歴があれば箔が付くと思って、立候補してくれたみたいなんだ」
「退職……ですって!」
思いがけぬ言葉に源吾郎は目を瞠った。文明が絡む話だからと多少気構えていたが、転職云々の話は予想外だった。
そうして驚く源吾郎を、萩尾丸は落ち着いた様子で見下ろしている。
「そんなに驚く事ではないだろう島崎君。人間たちの世界でも転職なんてザラにある話じゃあないか。それに妖怪だからとて、一生同じあるじに仕えるわけでもないのだよ。色々あってフルボッコにされた挙句追放される事もあるし、あるじに嫌気がさして逃亡する事もあるし――慕っていたあるじが部下を置いて逝く事だってあるんだからさ」
確かにそうかもしれない。諭すような萩尾丸の言葉に、源吾郎は紅藤の来歴を思い出して一人で納得していた。紅藤は胡喜媚に仕えていた事で有名だが、実は胡喜媚は彼女にとっては三番目のあるじなのだという。一番目は人間の術者に、二番目は大陸出身の妖怪仙人に仕えていたそうだ。もっとも、胡喜媚に仕える前の事はあまり話してくれないので、源吾郎も多くは知らないが。
「ともかくだね、本来ならば豊田君は五月下旬に退職して、新しい就職先に迎え入れられるはずだったんだ。
ところが君との戦闘訓練を終えた直後に心変わりをしてしまったんだよ。退職せずに、引き続きここで働きたいって言いだしたんだ。どうやら彼は玉藻御前の末裔である君と術較べする事でやる気に火が付いたみたいでね。僕の許で働いて、術較べをもう一度やりたいって言いだしたんだよ。
一度退職届を出したのを取りやめにするのは別にまぁ問題は無いんだよ。『黄金の翼』は、知っての通り僕が最高責任者だから、
「それはまぁ……何とも言い難いお話ですね」
源吾郎は唇を湿らせつつそう言うのがやっとだった。無論この話は、源吾郎のみならず青松丸たちも興味深そうに聞いている。
そう思っていると、やにわにサカイさんが動いた。学生よろしく挙手はしないが、ローブの向こうから垂れた触手が蠢いている。
「は、萩尾丸先輩。それって豊田君単体の、問題、ですよね? それなら、豊田君自身で解決させれば良かったんじゃないですか?」
サカイさんはある程度心を許した相手に見せるような親しげな口調で萩尾丸に問いかけた。内容自体は源吾郎も思っていた至極まっとうな疑問である。
質問を投げかけられた萩尾丸は、渋い表情を作りあからさまにため息をついていた。
「当初僕もそう思っていたよ。あれでも豊田君は
全くもって骨の折れる仕事だったよ。豊田君自身は普通の野狐なんだけれど、転職先に結構良い所を選んでたし、途中から稲荷に仕える彼の親族からも懇願されるしさ……結局のところ、第五幹部の
「それは大変だったのね、萩尾丸」
今一度盛大なため息をつく萩尾丸を、紅藤は優しくねぎらった。
「紫苑ちゃんに助けてもらった事は別に恥じる事じゃあないと思うわよ。ほら、私たちって何百年も生きてるからどうしても自分一人で何でもできるって思っちゃうでしょ。だけど本当は違うのよ。一人じゃあできない事もあるし、間違う事もあるわ。そういう時、誰かに助けてもらうって本当に大切よ」
紅藤の言葉に対し、すぐには誰も何も言わなかった。萩尾丸に向けられた言葉なのだろうが、そこにいる皆それぞれに当てはまる言葉だと感じていたためだろう。
いずれにせよ、紅藤が放ったためか恐ろしい程に説得力のある言葉だった。
「そういう訳だから島崎君。問題も解決したし、来週から戦闘訓練はつつがなく再開できるよ。いやはや、君の影響力は誠に凄いものだねぇ」
萩尾丸はそんな事を言っていたが、ふと何かを思い出したらしくもう一度口を開いた。
「そう言えば島崎君。君って君個人の手下とか、使い魔は持っていないのかい?」
「いきなりどうされたのでしょうか、萩尾丸先輩」
全くもって脈絡のない問いかけに思えて、源吾郎は目をしばたたかせた。
「いやさ、前も言ったように君には若い妖たちにやる気を持たせるような何かを持っていると感じているんだ。もし君に使い魔とかがいたら、そいつらにも良い影響をもたらすんじゃあないかって思っただけさ。
それに君は世界征服を、自分がトップになってのし上がる事を夢見ているんだろう。その野望を阻止する親族から距離を置いているし実力も申し分ないんだから、既に野良妖怪の一匹や二匹、使い魔として確保しているんじゃあないかと思ったのだけど」
妖怪が使い魔になる事は源吾郎も知っている。しかし源吾郎がその使い魔を従えているかどうかはまた別の話である。
「いえ、僕はまだ使い魔など持っていませんよ」
源吾郎は素直に白状した。その辺の野良妖怪を使い魔として従わせる事も、まだ考えた事は無かったくらいだ。
萩尾丸は驚いたような表情を見せていたが、それが作った表情である事は源吾郎には明らかだった。聡明な萩尾丸の事だ。質問する前から、源吾郎が使い魔を持たぬ事は知らなかったのかもしれない。
「それならさ、勉強がてらに一匹くらい持ってみたらどうだい。もしかしたら仔狐気分の君にも、下の存在が出来ればちょっとはしっかりするかもしれないしさ」
源吾郎は黙ったまま萩尾丸の顔を凝視していた。戦闘訓練で仲間に馴染む事は源吾郎に課せられた課題だ。そこに新たに、使い魔を持つという課題が付け加えられたという事なのだろうか。
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