化け較べ大は小を兼ねるのか

「うーむ……案外奥が深いんだなぁ」


 木曜日の夜。源吾郎はアパートの一室でイヌ科獣の骨格写真を眺めていた。平面の写真であるから現物を目の当たりにしているのとは少し違うであろう。とはいえ勉強にはなるものだ。源吾郎はおのれの知的好奇心を満たす密かな喜びに意識を投じていた。

 ローテーブルの上には源吾郎が今開いているものとは別の本も五、六冊ばかり積まれていた。叔父から貰ったナンパの指南書や、こっそりと読む大人向けの漫画や書籍などではない。生物学や民俗学、妖怪学に類されるような雑多な書籍たちである。

 今読んでいる骨格図鑑と同じく、いずれも図書館で借りたものだった。源吾郎自身も実家から自分の本をいくらかこの根城に持ち込んでおり、蔵書数は一人暮らしにしては多い方であろう。しかしながら書籍の傾向の偏り具合が中々烈しい事に気付き、仕事終わりに急遽図書館に駆け込んだ次第である。

 源吾郎は読書家であると自分の事を思った事は無い。しかし同年代の若者に較べればはるかに活字・読書に慣れている事もまた事実だった。それもやはり家庭環境の影響によるものであろう。学者である父と永い年月を生きる半妖の母は書物を愛好していたし、その影響下にあった兄姉らは言うまでもない。ともあれ源吾郎は自身の知らぬ内容を補完するという手段として本を開き、そこに記された内容を得ようとしていた。本を読めと両親に言われた事は無い。むしろ逆に、この本は読むなと制限されたくらいである。

 しばらく骨格を眺めていた源吾郎だったが、時計に視線を走らせると、本を閉じて布団の中に入っていった。明日は戦闘訓練である。前回のようなデスマッチではないにしろ、きちんと休んでベストコンディションを保っておいた方が良いに決まっている。


 眠っている間に、源吾郎は珍しくはっきりとした夢を見ていた。彼はパステルカラーの花が咲き誇るお花畑に訪れていた。夢の中で彼はひとりきりではなく、お供として幻術で作った三匹のモンスターがいてくれた。源吾郎は角を生やした狼の上にまたがっていたのだ。前方を戦斧を持つオークが護り、しんがりに虹色の翼をもつドラゴンが配置していた。色々な意味であるじを護るように動いていた三匹だったが、源吾郎たちの旅路は殺伐としたものではなくむしろピクニックのようなものだった。源吾郎は時々狼から降りて、花を摘んだり蝶々を追いかけたりしていた。遠足を楽しむ子供のような無邪気さを、夢の中でも源吾郎は発揮し、三匹の異形はそんなあるじを見守っていた。

 道中で可愛らしい娘を見かけたが、残念ながら彼女らはそれこそ幻で、近付いて手を伸ばそうとすると姿を消してしまった。

 これらの夢で特筆すべきは、今再び九尾様に遭遇した事である。九尾様は草原の一角、草も花も生えていない丸い地面が露出した場所にたたずんでいた。相変わらず顔つきや詳細な風貌は判らない。しかし以前出会った九尾様その妖であろうと源吾郎は確信した。銀白色の毛並みを見たからではない。彼自身が持つ、妖狐としての本能が下した判断だった。


「九尾、様……」


 源吾郎は声を張り上げ、巨狼から降り立った。九尾様に対する畏怖と憧れの念は三体のモンスターたちにももちろん伝わっていた。降り立つ前に巨狼は伏せのポーズになっていたし、他の二体も紅藤を前に見せたような、それ以上に畏まった態度を取っていたのだ。


「また君に会ってしまったね……」


 落ち着いた声音で告げる九尾様を、仔狐のような心持で源吾郎は見上げていた。夢の中とは言え九尾様に出会った事を源吾郎は素直に喜んでいた。ところが九尾様は残念ながら、源吾郎と顔を合わせて戸惑っているような、困っているような感じであった。

 九尾様の思惑は解らない。だが彼にも彼の事情があるのだろう。そう思うのがやっとであった。



 変化術を行使した術較べの訓練も、やはり屋外で行われる事が決まっていた。出社するなり源吾郎は訓練着に着替えるように命じられ、紅藤や青松丸の指示に従い会場へと向かった。会場は研究センターの敷地内、かつて源吾郎と珠彦がデスマッチを行ったあの場所だった。

 但し、初めて戦闘訓練を行った時といくらか異なった様相を見せている。かつて紅藤が青草を焼き払った一角は何事もなかったかのようにまた青草が茂っている。今回も萩尾丸の部下と思しき若手の妖怪が集まっているが、その数はかなり少なかった。多く見積もっても十名程度であろう。女子たちは三人程度であとは男子ばかりだ。男子連中のうちの一匹は、淡い金色の毛皮を持つ妖狐の本性をあらわにした状態で鎮座している。


「おっす、久しぶりっす島崎君!」

「うっ、おぅっ……」


 対戦相手は誰だろう。そう思っていた源吾郎の許に元気よく向かってきたのは野柴珠彦だった。源吾郎を見据えるその顔には、純粋な喜びと親しみの念が溢れんばかりに浮かんでいた。


「久しぶりと言っても、せいぜい一週間前に会ったばかりじゃないか」

「まぁそうっすけど……」


 源吾郎が指摘すると、珠彦は言葉尻を濁した。喜びに輝く瞳の奥に、別種の感情の光が灯るのを源吾郎は見た。


「前リンと一緒に会った時、とっても疲れているみたいだったから……本当は心配だったんすよ」


 しっかとこちらを見つめる珠彦を見つめ返した源吾郎だったが、数秒も待たずにそっと視線を斜めに落とした。ほぼほぼ同年代、何となれば弟のようにも思えていた妖狐の少年に、こうして心配されるのが気恥ずかしかったのだ。

 いや、珠彦が源吾郎を友達と見做しつつも弟分のように思っているであろう事は知っている。純血の妖怪である事もあるが、珠彦の方が実年齢は源吾郎の三倍強はある。それに何より長男である珠彦は、なんだかんだ言いつつも弟妹の扱いに慣れている訳なのだから。

 しかし気恥ずかしさにすねてばかりいてもいけない事は源吾郎とてきちんと心得ている。すぐに珠彦に視線を戻すと、敢えて笑みをイメージしながら口許を緩めた。


「心配してくれてありがとうな、タマ……いや野柴君。流石の俺も連休中は大活躍だったからさ、あの時はちょっとクタクタになっていたんだ。

 むしろ何というか申し訳なかったなぁ。わざわざ二人で遊びに来てくれたのに、不愛想な対応をしてしまってさ」

「別にそんなの気にしてないっすよ。ともかく、島崎君が元気そうで良かったっす」


 屈託なく笑う珠彦の背後で、二尾が烈しく揺れていた。妖狐の尻尾は妖力の貯蔵庫であるが、ああしておのれの感情をあらわにする時にも十二分にその効果は発揮されるのだ。プロペラよろしく跳ね回る尻尾は、珠彦の強い喜びを存分に物語っていた。ある意味彼らしいと言えば彼らしいだろう。

 安心し喜ぶ友人を前に安堵した源吾郎だったが、若手妖怪たちの監督者たる萩尾丸がこちらを見ている事に気付き、表情を引き締めた。友誼を結んだ間柄とはいえ、戦闘訓練の前にうら若い珠彦と共にじゃれ合っている所を見られたのは何とも気まずい。

 珠彦も同じような考えだったらしく、源吾郎に一度手を振るとそのまま仲間の妖怪たちがたむろする場所に戻っていった。

 珠彦が源吾郎から離れると、それを待っていたかのように萩尾丸が近づいてきた。その隣には、本性をあらわにした淡い金色の妖狐が器用に二本足で歩いて追いすがっている。


「おはよう島崎君。君にも良い友達が出来て良かったじゃあないか」


 唐突な萩尾丸の呼びかけに、源吾郎ははい、ともああ、ともつかぬ声で応じていた。萩尾丸も兄弟子として源吾郎の事を色々と気にかけているのだろう。もっとも、今わざわざ口にして出さずとも、源吾郎が珠彦と親しくなっている事は萩尾丸もとうに知っているはずなのだが。


「友達を選べ、なんて頭の堅い事は僕も言わないよ。だけど、僕の許で働いているひとたちだったら、大体素性や気質は知っているからさ……」


 まぁそれはさておき。萩尾丸はそう言うと身をかがめ、傍らにいる妖狐の肩をそっと叩いた。妖狐は萩尾丸のスキンシップなど気にせず、ひたすら琥珀色の瞳で源吾郎だけを見つめている。


「今日の戦闘訓練は変化の術較べだったでしょ。今回は豊田文明とよだふみあき君がエントリーしてくれたんだ」


 萩尾丸の言葉が終わると、豊田狐は源吾郎の傍に二歩ばかり近付いた。尖った狐の鼻面を源吾郎に向け、にっと微笑んでいる。狐の姿を取っているが、術較べを行うのが見知った相手である事に源吾郎は気付いていた。文明と言えば珠彦の友達の一匹で、前に一緒に遊んだ事もある間柄だった。と言っても、こうしてサシで向き合うのは初めての事だけど。


「おーぅ、久しぶりやな島崎君」

「お、う、うん。久しぶり」


 左前足を元気よく上げて挨拶する文明狐を前に、源吾郎はぎこちない様子で挨拶を返した。その場に居合わせるのが彼や珠彦だけならば、ノリの軽さに合わせておぅ、とかうぇーいとかいう啼き声での返事でも構わないだろう。しかし今は兄弟子の萩尾丸や師範である紅藤も控えているのだ。源吾郎は彼なりに空気を読んだのだ。

 可愛い狐娘をカノジョにしているという文明は、まごうかたなきリア充である。しかも珠彦と違って無邪気な陽キャではなく、陽キャであり尚且つチャラ男でもあった。現に文明は今大分と輝いている。淡い金色の毛皮は言うに及ばず、首許や手首を飾る金属と玉のアクセサリーも光を反射して目に眩しいくらいだ。


「野柴みたいにタイマン勝負はやりたくないけどさ、俺も変化術には自信があるんだよぉ……んで、今日は島崎君とひと勝負したいなぁって思ったってところさ」


 ねっとりとした口調とは裏腹に、文明の瞳には闘志の焔が見え隠れしている。源吾郎はぐっと文明の瞳を見つめ返し、それから鷹揚に笑った。


「成程、成程ね。確かに玉藻御前の曾孫たるこの僕と勝負したとあれば、勝敗はさておき箔が付くだろうからねぇ……だけど油断は禁物さ。戦闘慣れしていなかったからあのタイマン勝負はあんな感じだったけれど、変化術は僕の得意分野だからね」


 得意げに源吾郎は言ってのけたが、文明は何も言わず鼻を鳴らすだけだった。少し離れた所に固まっている妖怪たちがやはりざわつき始めている。ざわめきの中には、珠彦が源吾郎と文明の両方を応援する声も混じっていた。



 互いの挨拶が終わると、すぐさま訓練へと移る事となった。司会進行役が青松丸である事と、有事に備えて紅藤がドクターとして控えている事は前と同じだ。

 前と違うのは、会場である青草の処理が行われていない事と、集まった妖怪たちが割と適当に会場の近辺に腰を下ろしている所であろう。

 ルールは簡単だ。互いが表出させた変化の幻影を闘わせるというだけである。出現させた幻影を先に全て打ち破った方が勝者となるという事だ。時間制限はあったが、表出させる幻影の数の制限はなかった。もっとも、源吾郎はこの訓練のために丁度良い幻影を練り上げる所存なので、数の制限などは気にも留めていなかった。


「さてと。いかな思惑があって今回の訓練を志願した豊田君であろうとも、俺の変化術を見れば腰を抜かすんじゃあないかい?」


 変化術の準備を行いながら源吾郎が告げると、文明はただニヤリと笑っただけだった。彼がこの試合に全力を傾けているのは本性をあらわにしている所から見ても明白だ。

 大妖怪ならばいざ知らず、珠彦や文明のような弱小妖怪にしてみれば、人型に化身するだけでも一定の妖力を消耗してしまうのだ。本性に戻った方がより多くの妖力を術や戦闘に扱える、と言う寸法である。


「出でよ、俺の忠実なるしもべたちよ!」


 源吾郎は高らかにキメ台詞を放った。萩尾丸の部下たちが何事か言い出しているがもちろん源吾郎は気にしない。彼は三体のモンスターたちがきちんと表出する事と、それを見た文明の反応のみに注意を向けていたためだ。

 叔父から買い取った護符を核として、源吾郎の作った幻影が顕現した。

 一体は耳のやや上の部分から偃月刀めいた一対の刃を生やす狼。

 一体は筋肉質な体躯と戦斧を持つ豚頭の亜人。

 一体は金色の鱗に銀色の羽毛、そして虹色に移ろう羽毛に覆われた翼のドラゴン。

 源吾郎が顕現させた幻影は総勢三体。数にしては少ないが、いずれも壮麗で勇ましいモンスターぞろいである。ついでに言えば紅藤の生物学的な指摘も源吾郎なりに受け入れ、その上での調整も行われた代物だった。

 三体が会場の領域内に行儀よく収まるのを源吾郎は見守っていた。文明を除く萩尾丸の部下たちの、驚きと称賛の言葉が耳に心地よい。

 それから源吾郎は文明の方に向き直る。


「豊田君。さっきから何も言わないけれど、もしかして俺の術が凄すぎてビビっちゃったかな?」

「まさか。勝負が始まる前にビビるようなヘタレじゃないし」


 源吾郎の言葉に応じる文明の顔には、不敵な笑みが拡がっていた。


「いやまぁ何というか、派手好きな島崎君らしい変化術だとは思ったかな。

 しかし――だからと言って俺は負ける気はしないけれど」


 そう言うと文明は身をかがめ、地面に生えている青草を三本ばかりむしり取った。肉球の目立つ前足で器用に掴み、数秒ほど念じて宙に放り投げる。それらは淡く輝いたかと思うと、小さな狐の姿に変化した。こちらも総勢三体だ。モルモットほどの大きさしかないが、いずれもきちんと鎧兜に身を固め、つまようじのような刀剣を佩いている。ある意味精緻な術と言えるだろう。よくできているなぁ。源吾郎は素直に文明の変化術を称賛していた。精緻で細かな所まで再現されているが、所詮はチビ狐に過ぎない。俺が作ったモンスター群には手も足も出ないだろう……そのような考えが背後にあったからこそ、源吾郎も安心して相手の術を称賛できていた。


「それじゃあ、試合開始の準備ができたわね」


 変化術が揃った所で紅藤が静かに告げる。それが合図だと言わんばかりに、地面に降り立ったチビ狐たちが源吾郎のモンスターたちに向かっていく。


「――誰でも構わん、殺れ」


 おもちゃの兵隊のように走っているチビ狐を睥睨しながら、源吾郎は冷徹な声で命じた。その命令に従ったのは豚頭のオークだった。彼は得物の戦斧を振りかぶり、そのまま向かってくるチビ狐の一匹を両断した――叩き潰したと言っても過言ではなかろう。「牛刀を以て鶏を割く」を地で行くようなスタイルである。


「おっしゃ、まずは一匹」


 見ればオークはチビ狐を両断しただけではなく、細切れにしているようだった。幻術ゆえに完全にリアルな部分まで再現している訳ではないらしく、細切れと言ってもグロテスクなアレコレが見えないのは源吾郎としてもありがたい所である。

 残ったチビ狐二匹はそのままオークに向かっていった。巨狼とドラゴンは何もせず控えているだけだ。思い切って三体顕現させたものの、どうやら彼らに今回の見せ場は無いかもしれない。そう思っている間にも、源吾郎の意図をくみ取ったオークは特攻を仕掛ける残りのチビ狐を、戦斧で薙ぎ払っていた。どちらも紙細工のように容易くバラバラになってしまっている。


「おやおや豊田君」


 文明が繰り出したチビ狐が三体とも粉微塵になったのを見届け、源吾郎は視線を文明に戻した。


「君さ、ヘタレじゃあないとか何とかって言ってたけど、君の狐ちゃんは全員玉砕したっぽいよ。どうするのさ?」

「ふ、あははははは……島崎君さ、ボスの炎上トークを身に着けちゃったのかな」


 萩尾丸の炎上トークを身に着けた。思いがけない指摘に面食らっていると、不敵な笑みを浮かべたまま文明は続けた。


「この展開は僕だって織り込み済みなんだよ。ああでも、むしろ粉微塵にしてくれたから、予想よりも却って都合が良いくらいだね、こちらとしては」

「一体、何を――」


 文明が前足を向けた先を見て源吾郎は絶句した。粉微塵になったはずのチビ狐は斃れてなどいない。いや違う。むしろ数十匹にまで増殖している。彼らは佩いていた刀剣を握りしめ、源吾郎のモンスターたちに猛然と向かっていた。

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