踏む
ウラサワミホ
第1話
「本を踏んだら足が腐ってなくなっちまうぞ」
片付けが苦手な私が部屋のそこらじゅうにおもちゃや絵本を散らばらせているのを見て、祖父はそう言った。まだ小学校にもあがっていなかったあの頃でさえただの迷信だとわかっていた言葉。でもそれを言ったあの日の祖父を思い出すと、今もなぜだか膝から下がすうすうする。
すりガラスに印刷された「高木医院」の金色は、ところどころ剥げている。扉を開けた母に続いて中に入ると、患者さんの代わりに待合室のベンチを隙間なく埋めていたのは本だった。ここが病院だった輪郭はそのままに、空間という空間すべてに本が詰め込まれている。ここはもともと私の曽祖父が開いていた内科医院だ。曽祖父が医師を引退し、後に亡くなって主がいなくなったこの場所に、祖父が自宅に置ききれなくなった本を運び込むようになったのだという。
「書庫なんて大層なものじゃないのよ。ただ置ききれなかったのを持ってきただけ!だから病院だったときの設備もほとんどそのままなの」
医療機器や医療器具の類を処分した後、その他の片付けが済む前に勝手に本を運び入れてしまったのだそうだ。以来家具を運び出したいから片付けて欲しい、建物自体処分することを考える時期だ、という親族からの要請をかわしながら本をどんどん増やし、曽祖父の小さな城は埋もれてしまった。
「ここを片付けて欲しいって誰かが言うといつも聞いてないフリして、最後の何年かは「わかってる!」って怒り出したりしてたわ。できてないから言ってるのにね」
喫茶店特集の雑誌をやや乱暴な手付きで床に放っては紐で締め上げている母の言葉は過去形だ。先月、その祖父が亡くなった。だから我々はこの建物を取り壊すべく、持ち主のいなくなった本たちを片付けに来たのだ。
「しかしこんなに溜め込んで、本人どこに何があるかわかってたのかしらねえ」
「おじいちゃんは全部覚えてたよ」
小さな頃から、何度も祖父と一緒にあのすりガラスを開けた。私が欲しいと言った本を、祖父はいつも迷いなく差し出してくれた。
診察室に続く扉を開けると、すべての壁が本棚になっている。曽祖父が使っていただろう机の上も、本がみっしりと詰まった本棚が置かれ、病院が本で侵食されたかのようだった。このエリアは画集、隣の本棚は写真集。一冊取り出してなんとなく開いてみると、祖父の字で何やら書かれた小さなメモが挟まっていた。なんとなくじっくり読むのは悪い気がして、握りつぶしてポケットに入れる。持ち主のいないところで本棚を見ることは、その人の心の中をこっそり覗くのに似ている。
「ひいおばあちゃんは看護師してたんだよね」
「そう。だから小学校の頃は学校終わりはここに帰ってきてたんだって」
あのドアをくぐる、小学生の祖父を想像する。
奥にあるスタッフルームで宿題やお絵かきをして、ときどき待合や診察室をこっそり覗いてみたりして。
「子どもの頃、こんなの山程見たよ」
晩年、そう言って糖尿病の血流障害で黒ずんだ足をさする祖父の姿を思い出した。
「オヤジの患者さんに、こんな足した人いたよ。だからこの後この足がどうなるかも知ってんだ」
祖父は医者ではなかった。曽祖父は祖父を医者にしたがって、彼が子どもの頃は自ら勉強を教えていたらしい。祖父によれば「でもアタマが追いつかなくて、オヤジもそのうち諦めた」のだそうだ。高校を卒業した後曽祖父の口利きで就職した医薬品の卸会社で定年まで勤め上げ、その後はもっぱら本を読んだり映画をみたりして過ごした。
医院の最奥、スタッフルームに足を進める。部屋の中心にある長机のほかに、壁に向けて小さな机がぽつりと置かれている。机に向かって、放課後の祖父を想像する。ふと、うず高く積まれた本の奥にも小さな本棚があることに気が付いた。詩集や文学全集を床に下ろす。側板にのこぎりの跡が見える少し歪んだ卓上本棚には、問題集が数冊収まっていた。そのうちの一冊、表紙がくしゃくしゃによれた小学校六年生の算数を開いてみる。
そこにあったのは、足跡だった。靴底の溝がはっきりと見える、土色の足跡がページを埋め尽くしていた。
棺に収まった右足は、足首から先がなかった。どこにどんな本を置いたのか、忘れたことはなかった祖父。なくなろうとしている自分の足をさすりながら、ここに埋もれさせた、かつて自分が踏みつけたものを悔いていただろうか。
大丈夫おじいちゃん、それは迷信だよ。問題集を床に置いて、スニーカーのつま先で撫でる。それでも頭の中は祖父のあの言葉が響いて、膝がほんの少し震えた。
踏む ウラサワミホ @miurasawa
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