餃子屋の石田

@otofu_be_strong

第1話

どうかしているとしか思えない夢を見た。


何もない部屋の何もない床にぼくが仰向けになっている。そして下腹部のあたりに篠岡なつめがまたがっている。篠岡はいつもどおり髪を高めの位置で二つ結びにしているのだけどどういうわけか上半身が裸で、夏服のリボンだけが制服の襟元らへんにきちんと巻かれている。それでいてスカートはちゃんと履いている。両足はたしか裸足だった気がするけれど、そこはあまりはっきりと覚えていない。


篠岡はぼくのことをまばたき一つせずじっと見下ろしていた。その表情は歴史の教科書に載っている平安時代の仏像のそれとよく似ている気がした。もしかすると視線こそぼくに向いていたけれど篠岡はぼくのことなど見ていなかったのかもしれない。ともあれその視線を受けながらぼくもまた平静を装って篠岡をじっと見上げていた。


ときどき映像の視点が自分の外側に移り、ぼくは全体にうすく緑がかった白くてだだっ広い部屋——日曜日の午後の総合病院の一室を思わせる——の真ん中に横たわる自分とその上にまたがる篠岡を、少し離れたところから眺めることになった。少ないなりに質量のある篠岡の胸につい目が行くたび、ぼくは篠岡の表情を盗み見るようにうかがったけれど、篠岡は笑いも怒りもしなかった。その表情は本当に仏像のように一定だった。


夢の中の篠岡はぼくの知っている篠岡とはまったく別人のようだった。けれどもそれはただぼくが知らないというだけで、篠岡にはたしかにそういう側面があるのかもしれない。そしてもしかりにそうだったとしてもそれはまったくおかしなことではない。いちクラスメイトであるぼくから見えている姿なんて篠岡なつめという人間の全体像のほんの一部にすぎないにちがいないと、ぼくはぼんやりと考えていた。


そんな夢に調子を乱されたせいで、その日ぼくは15分も学校に遅刻した。ちゃんと家を出て学校に向かっただけでもほめてほしいものだと思うものだけれど、教室に着くや担任から軽口まじりの注意を受け、しっかりクラスの笑い者になった。



   *



当然ながらあんな夢の話を誰かにするわけもない。みんなエロを肴にバカ騒ぎするのは大好きだし、ぼくも付き合いでそういう場に身を置かざるを得ないことはもちろんときどきある。でもあれはそういうのとはわけが違う、一緒くたにするわけにはいかない。しかし「違うんだ」と説明したところでわかってもらえる話だとはまったく思わないし、わかってもらいたいとも思わない。だからひとたび教室に入ってみんなの輪の中に溶けてしまえばぼくは都合よく今朝の夢のことなんて忘れてしまい、しょうもないバカ騒ぎにたやすくなじんでいく。ぼくの不出来な脳みそもそういうことを可能にしてくれるくらいにはうまくできている。


とは言っても篠岡なつめ本人を目にしたときは話がちがった。いつもどおりころころと表情を変えながら高くて響きのいい声でしゃべる現実の篠岡は夢で見た篠岡とあまりに違って、ぼくはついついそのあまりに大きすぎる違いを確かめようと、教室をひらひらとおよぎまわる篠岡の姿を目で追わずにはいられなかった。そしてやはり、篠岡がまとう夏用のブラウスの下に夢で見たあの細くて真っ白な身体を思い浮かべないでいることなどできなくて、そのイメージが脳裏にフラッシュバックしてくるたび、ぼくは自分自身を責めなじりたい気持ちになりもした。当然のこと、空き時間のたびにくだらないバカ騒ぎをしているクラスメイトたち——ぼくもその輪の中にいるわけだけれど——も篠岡も、そんなことは知らない。ぼくは誰にも知られず世界でただ一人、夢のことなど忘れてしまいたいような、いつまでもそのことについて一人で考えをめぐらせていたいような、矛盾した気持ちをぐるぐると頭の中でとっかえひっかえしている。



   *



1時間目も2時間目も教室での座学だった。ぼくは窓際から数えて2列目一番後ろの自分の席から、廊下寄りの前から数えたほうが早い席で授業を受けている篠岡の横顔をときどき眺めた。授業はいつもどおり退屈だった。篠岡はちゃんと授業を聞いているように見えるけれどどうなんだろう、やっぱり本心では退屈していたりするんだろうか、とぼくは思った。あとで聞いてみようと思って、ノートの端に「あなたは授業に本当は退屈していますか?」と書いた。


3時間目前の15分休み、篠岡がぼくの机のほうに寄ってきた。なぜか真正面から見据えたときは遠くから眺めているときと違って夢で見たあの篠岡のイメージは浮かんでこない。「おはよ」と篠岡は小さく、しかしはっきり聞こえる声で言った。「今日行ってもいい?」声のトーンが一段落ちた。


篠岡がぼくの家にときどきやってくるようになって4ヶ月ほどになる。なんでもぼくの弾くピアノがお気に召して、最低でも1ヶ月に1回は聴かないと気がすまないようになったのだという。そんなばかなと言われてもそりゃそうだよなとしか言えないような話だとぼくも思うのだけど、実際のところ篠岡はときどきぼくの家の「練習室」——グランドピアノとほぼ空っぽの小さな本棚とろくに水やりもされてないのに元気に育っている謎の観葉植物だけがある8畳の部屋だ——にやってきて、ぼくのピアノを黙って聴いてはそっと帰っていく。そのことはぼくと篠岡、そしてさすがに事情を話さざるをえなかったぼくの母親しか知らない。


「篠岡ってさ、授業ちゃんと聞いてるの?」


ぼくがたずねると、篠岡は「は? 何それ」と言ってきょとんとした表情を浮かべた。


「てか、質問してるのあたしなんだけど。今日行っていいの?」

「いいよ別に。で、どうなの? 授業ちゃんと聞いてるの?」

「意味わかんない。ちゃんと聞いてるよ。」

「退屈だと思ったことは?」

「はぁ? あるにきまってんじゃん、どうしたわけ急に?」


いや別に、とぼくがはぐらかすと、意味わかんない、と篠岡はつぶやいたけれど、それ以上深掘りはしてこなかった。


「とりあえず今日行くね。16時くらい。」

「はいよ。」


そのタイミングでなぜか急に昨晩の夢のことを思い出し、ぼくは無言で机に顔を突っ伏した。ふさがった視界の中、いったい自分は何をやっているのかとふつふつ思えてきて、ぼくの感情はますます混乱した。篠岡は「石田今日ちょっと変だよ」と笑って言い残すとどこかに行ってしまった。ぐにゃぐにゃした意識いっぱいに、篠岡の声の響きが広がって残りつづけた。



   *



家に帰ってシャワーを浴び、着替えまですませたところでチャイムが鳴る。まだ16時まで12分もあるぞと心の中でぶつくさ言いながらぼくは玄関まで出る。母親も父親も仕事で家にはいない。毎回のことではあるけれど、空っぽの家にぼくと篠岡ふたりきりということになる。


ドアを開けると制服のままの篠岡が立っていた。「自転車ちゃんと奥に止めてくれた?」と聞くと、「いつもやってるよ、サルじゃあるまいしわかってるって」と突っ返された。白い額に汗が光り、ほほが軽くほてっている。あんな夢ほんとに冗談じゃないなとぼくは心の中で舌打ちし、練習室先あがっとけ、と言い残して台所へ引っ込んだ。思いのほか強まってしまった語気に少し嫌気がさす。


麦茶とお菓子を2人分用意して練習室に上がると、篠岡は所在なげにピアノのわきに立っていた。カーペットを踏む白い靴下の先が汗か泥かでかすかに変色しているのに視線が行って、ぼくは自分を軽蔑しながら目をそらした。今日のぼくはちょっとおかしい今日のぼくはちょっとおかしい今日のぼくはちょっとおかしいと心の中で3回唱えながら、ぼくは床に飲み物とお菓子をのせた盆を置く。ありがと、と篠岡は小声で礼を言った。


「やっぱり迷惑してない?」


藪から棒に聞かれて、何が、とぼくは反射で返した。


「彼女でもない女子が家に来てピアノだけ聴いて帰っていくとか、ちょっと変じゃん。普通に考えてさ。」


何を今さらとは思ったものの、まぁそれはそうだ。慣れつつあったから考えなくもなっていたけど、前々からずっとこれってかなり変な話だよな、とは思っていた。でも別に迷惑だなんて思ったことはない。「篠岡は言いふらしたりしないし。毎日しかたなくやってることに物好きな観客がひとり付くようになっただけって考えたら、どうってことも。」


ならいいんだけど、と篠岡はしおらしく言った。家で見る篠岡は教室で見る篠岡と違ってとても静かだ。ピアノの屋根に所在なげに置かれた白い指は細くて長い。篠岡もピアノ弾いてみたらいいのに、とその指を見てぼくはよく思ったりする。


「とりあえず適当に準備運動するから。お菓子でも食べといて。」

先ほどのぶっきらぼうさをフォローするつもりでなるべく丸い口調を心がけつつそう言ってから、ぼくは椅子に座ってピアノの蓋を開け鍵盤と向き合った。息をととのえてそこに指を置くと心が透明になってくる。正直なところ篠岡には感謝している、こんなことが起こらなければぼくはきっと今もピアノがただただ嫌いだっただろうから。そのことが多少伝わる演奏くらいはできればと思いながら、ぼくはいつも指慣らしに使っている練習曲を弾きはじめる。



   *



篠岡の前でピアノを弾いているときは毎回夢を見ているようで、そこにいる篠岡のことさえもぼくはときどき忘れそうになる。篠岡はいちいち曲の終わりで拍手したりもしないし、こちらから求めないかぎり感想を言ったりもしない。ときにピアノの横に立って、ときにカーペットに座り込んで、あるいはときに窓際に立って外を眺めながら、ただ黙って音を聴いている。それはぼくとしてはありがたいかぎりで、だからこそ篠岡が家にやってくるのを許してもいるのだけれど、下手な観葉植物よりずっと部屋に存在がなじむくらい音に没頭している篠岡を見ていると、どうして篠岡はピアノを弾かないんだろうと思ったりもする。


「当たり前じゃん、うちピアノなんかないもん。」

一度たずねてみたとき篠岡はそう言った


「それに百歩ゆずって自分で弾くにしたって、石田みたいに弾けなかったら意味ないし。そんなの何百年かかったって無理でしょ。」


何百年はどう考えたって言いすぎにせよ、篠岡の中に理屈の通った理由らしいものがあるのは確かなようだった。それを聞いてからというもの、篠岡に自分もピアノを弾いてみたらどうだとかいう話をしたことはない。


それでもぼくはどうしても、篠岡がこの部屋でピアノを弾くところを、そしてぼくがその横に立ったりカーペットに座り込んだり窓際に立ったりしながらそのピアノを聴いているところをときどき想像してしまう。そして篠岡が家に来た日は、そのイメージを頭に浮かべながらピアノを弾いている。そのイメージが醸す雰囲気に近づければ近づいただけ、篠岡を、そしてぼく自身を、満足させられる演奏に近づいていくことができるような気がしていたのだ。笑われてしまうような気がして、篠岡にその話をしたことは一度もなかったのだけど。



   *



6曲弾いたところで息が切れて時計を見た。あと少しで16時半というところだった。篠岡はカーペットに座り込んでいたが、ふとぼくと目が合うとおもむろに立ち上がり、窓際に移った。


「すごいね、やっぱ。」

つぶやくように篠岡は言った。

「受験、どうすんの。普通の高校行くの?」


らしくないことを聞くと思った。いつもここではそういう現実的な話はしてこなかった。そのつもりだと答えて志望校名を言うと、そうなんだ、とだけ篠岡は言った。どことなくまだ何か言いたげで、ぼくは続く言葉を待ってみる。


「ピアノで学校行ったらいいじゃん。考えてないの、そういうのは。」

「音大の付属とかってこと?」

「わかんないけど、たぶんそういうの。」


ぼくは少し言葉に詰まったあと、考えてない、と答えた。


「こんなにいいピアノなのに、変なの。」

「変ってこともないだろ。」

「わかんない。わかんないけどさ。」


何があるわけでもないはずの窓の外を篠岡はずっと見ている。ぼくは自分のほうから何か言わなくてはならない気がして「自分が無理だと思っちゃったら無理なんだよ」と言った。篠岡は黙ってふりむいてぼくの目を見た。


「実際のところもっとうまいやつなんか腐るほどいる。うちの学校にだって。」

「わかってるよ、2組の柏木さんのこと言ってんでしょ。」

「そう、柏木。全日本のジュニアコンクールで入賞した、れっきとした天才な。」

「でも、あたしは石田のピアノのほうが好き。絶対そういう人いっぱいいるよ、あたし以外にも。」


ぼくの言葉をさえぎるようにそう言った篠岡の切羽つまった勢いにぼくは一瞬面食らった。でもそのあとで「だとしても、俺はピアノそんなに好きじゃないんだ。たとえば柏木なんかに比べたってよっぽどね」と言ったぼくの口調は自分でも呆れるほど穏やかで平坦だった。実際ぼくはそんなに好きじゃないのだ。一日最低3時間はやれと言われつづけてきた練習も、自分が弾くピアノの音も。


「だから、わざわざそういう学校行ったってしょうがないんだよ。しょうがないって自分で思っちゃってる。その時点でそっちに行く資格ないんだよ。だから普通に高校行って、大学行くなり働くなりする。それで後悔しない自信があるんだ。」

「あたしがこんなに本気でほめてるのに?」

「篠岡には感謝してるよ。」

「だったら。」

言いかけて、篠岡は飲み込んだ。そして「なんでもない」と小声で言った。やっぱりこいつはいいやつだ、とぼくは思った。


しばらくの沈黙のあと、篠岡は「弾いて」と言った。

「もっと弾いて。」


ぼくは黙ってその言葉にしたがい、鍵盤に指をあてがった。なるべくいつもどおりに弾こうと思った。変に篠岡を喜ばせたり、感動させてやろうなんてことは、絶対に思うまいと心に決めながら。

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