第130話 教皇の診察カルテ
【1】
五の鐘が鳴り始める頃、用意を済ませた私たちを迎えに昨夜の司祭がやって来て応接室に通された。
促されるままにルイーズと共に向かいのソファーに腰を下すと、正面には教皇、その隣にジョバンニ。
そしてヴェッキオとストラヴェッキオと言う親子の司祭長と副司祭長が両脇に座っている。
「こちらの要求は見当がついておるのだろう。さっさとそちらの要求を話せ」
「その前に、私にできるかどうかは未知数よ。場所によっては私が手を出せない病も有るからね。だから治癒の結論を出すのは診察をしてから。もう一つ、補助をして貰える優秀な治癒術いないのよね」
「それならばポワトー枢機卿の時も同じだろう。シェブリ伯爵から聞いているぞ」
「ええ、条件的には同じだけれど私が処理できる
その言葉にジョバンニが顔を顰めた。
「あの狸親父め…」
「あら舅になる人に酷い言い草ね」
「まあ事情は分かった。出来る事を出来る範囲でやってもらうだけでいい。最悪でも少しは延命は可能なのだろう」
「まあね。疫病のたぐいでも少なくともジャンヌさんが治癒施術を施せる程度まで体力を戻す事が出来るでしょうね。まあ何の病かは分からないから確約はしないけれど」
本当は大まかな病状の情報は入っている。アルハズ州の州境で渡された洋ナシに詰められた最後の伝言によって。
多分、教皇の病名は
結核菌由来の感染症では私に完治する事は出来ない。だから先に釘を刺しておいたのだ。
「それで私の要求だけれど、表向きはエヴァレット王女殿下の婚約について認め欲しい。まぁ、立場上難しいのは判るから沈黙してくれれば良いわ。それで本音はオーブラック州との紛争は必至でしょう。ダッレーヴォ州は動かずに州内に籠っておいてほしいという事よ。あんたの嫁の先走りでルーション砦の海軍との紛争も必至。ポワチエ州は海軍を支持するでしょうね。アジアーゴの艦船はアルハズ州の州境から東に引きこもってほしいわね。海軍とシャピとの連携を邪魔しないで。いまオーブラック州にいる兵は仕方ないから目をつぶるわ。アルハズ州は勝手に自領内で内紛に明け暮れていればいい」
「偉そうに慈悲深い事を言って本音はそれか。まあその条件なら呑もう。こちらが偉そうに言える立場でも無いようだからな」
そして何よりも私がこの街で治癒をする事でハッスル神聖国が越境して参戦する事を防げるのだ。
私の読みはハッスル神聖国による北海沿岸諸州の併合と踏んでいる。その口実を作らせない為にもダッレーヴォ州を動かさずにおく事は肝要だ。
「そして最後に頃合いを見て帰らせて頂きたいわ。王立学校はちゃんと卒業したいのでね。こんな事でまた特待を逃したく無いもの」
「ふっ、わかったそれも呑むとしよう」
こうして私はしばらくはアジアーゴに拘束される事になった。
明後日には夏至祭が始まるというのに。
【2】
午後の二の鐘が鳴るのを合図に治癒術士が迎えに来た。
取り敢えずは今日は診断だが、何故か些か気分が悪く吐き気がする。
「何を言ってるんですか! 昨日の夜からずっと吐きっぱなしじゃないですか。結構な脱水状態ですよ。ろくに食事もとれていないでしょう」
この逃走中に私は全員死んでもいいと思いながら反撃してきた。
馬車の中で苦しむ騎士達にも憎悪は沸いても、それ以上の何の感慨も持たなかった。
しかしルイーズを殺せと言われた時に頭に血が上って我を忘れた事は事実だし、殺した事に躊躇いも無かった。
だからここまで引き摺るとは思っていなかったのだが、本当は昨夜から吐き気が治まらないのだ。
あの部屋の血の臭いをどうしても思い出してしまう。
「熟睡できたとか言いながら、セイラ様は昨日は殆んど眠られていないじゃないですか。今日の治癒は大丈夫なんですか」
「今日は診断だけで終わるからそんなに魔力は使わないから全然大丈夫だよ」
「本当に無理なら私からお話いたしますから今日は休みましょう」
「ダメよ! ここは敵地よ。特にジョバンニには弱みは見せられないからね。ジャンヌさんの仇を討つのは私達だから」
治癒術士の後について部屋を出て治療室に向かう私の背中にルイーズの泣きそうな声が響く。
「セイラ様、気負わないで無理はなさらずに」
その声に勇気づけられて私は教皇の待つ寝室に入って行った。
【3】
やはり呼吸器系は色々と破壊されている。肺機能が完全にやられているのだ。
呼吸困難なようで、頻繁に咳が出ており、かなり頻繁に血痰を吐いているそうだ。
教導派の治癒魔術で免疫力を高めているというものの、高齢である事は致命的だろ。
「凄い、聖魔法が有ればここ迄わかる事が有るのか」
治癒術士たちが感嘆の声を上げている。
「凄いのはこの方法に辿り着いて治癒施術への活用を始めたジャンヌさんです。私はそのお弟子であるアナ聖導女に教えを乞えたから使えるだけで、本当の一級治癒術士とは技術力がまるで違いますからね」
そう言いながら診断を進めて行くが、心臓にかなり負担がかかっているので心不全の危険性もある上、結核菌がリンパ節や腎臓にも転移している。
そして何よりも長年にわたる肺にかかる炎症の結果、その部分に悪性腫瘍が発生しているのだ。
「これは長引く可能性が有るわね。それに何より私だけの力じゃあ難しい事が多いわね」
「私ども治癒術士も経験が有りますから、お教えいただければ一助には…」
「ええ、でも今日初めて明日に出来る事ではなにのよ。取り敢えず呼吸の補助は早急に指導します。それと胃に直接、水魔法で水を送る方法も指導しましょう。心臓の機能もそれ以外の機能も弱っていますけれど、治癒魔力をやみくもに全身に送るのでは無く、そのポイントに送る事です」
教導派の治癒施術は唯々治癒の為に魔力を流すだけの方法だ。ここの魔力属性すら考慮の対象にされていない。
患部に重点的に魔力を流し免疫力や自己修復能力を高める事を経験則で体系化しただけの学問だ。
特に内科医療の場合はどこに魔力を注ぐとどの症状が緩和させるかという程度の知識で治癒を施している。
患部を見定めて原因を特定する清貧派の治癒施術と根本的に違うのだ。
まず風属性と水属性の治癒術士を集めては呼吸の補助と胃への水の供給を教える。
「悪いけれど私は火属性なので理屈しか教えられないわ。お互いに術を掛け合ってその強さや方法を体感しながら覚えてちょうだい。この二つ…土属性の心拍補助もだけれど基礎中の基礎ですから」
心不全の兆候が有るので緊急時には心臓マッサージも必要となるだろうが、これは加減を間違えると危険なので今回は教えない。
土属性と火属性の治癒術士は弱っている個所を感じさせてその場所に治癒魔力を流して貰うように指導した。
結局診断だけで終わらず、指導も含めてかなり魔力を消耗して教皇の寝室の表に出ると、廊下にずらりと教導騎士らしき武人が並んで立っていた。
ルイーズがダガーを抜いて私の前に立って身構える。
私も、私の後ろに続く治癒術士も驚いて立ち止まっている。
その武人の一団から一人の男が歩み出て私に向かって口を開いた。
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