第68話 アントワネットの声明
【1】
アントワネット・シェブリ伯爵令嬢より非公式に声明が出された。
何についてか?
当然北部中央諸州で出された七か条の要求書についてだ。
わざわざ王都のペスカトーレ侯爵家の表門で声明文が読み上げられたのだ。
『七か条の要求について、要求書を発した農村の窮状は理解しているし同情を禁じ得ない。聖職者では無くまた領主代行でしかないこの身にとって、今すぐに救済の手を差し伸べられない事に忸怩たる思いがある。今は力の無いこの身であるが、出来る限りの援助は行うつもりがある。この要求書に賛同する者は多いであろう。その迄は趣旨を曲げず頑張って貰いたい』
それがアントワネット・シェブリ伯爵令嬢の名でペスカトーレ侯爵家の家臣によって王都邸の門前で読み上げられたのだ。
それも一日二回、三日に渡り繰り返された。
アントワネット・シェブリがジョバンニ・ペスカトーレ大司祭の伴侶に予定されている事は公然の事実だ。
何より声明を発表した場所はペスカトーレ侯爵邸であり読み上げたのはその家臣である。
王都ではペスカトーレ大司祭は味方であり、ペスカトーレ侯爵家も七条の要求書に理解を示しているとの見解が広まった。
ジョバンニ・ペスカトーレ大司祭は教導派聖教会の改革派の筆頭ではないか。
ペスカトーレ枢機卿はその立場はあるが、父の教皇の失政を正そうとしているのではないか。
そんな勝手な憶測が実しやかに話されることになった。
「憶測だけ、希望的な思い込みだけよ。そもそもジョバンニは就任式以来何一つ発言もしていなければ、行動もしていないわ。あの男にそんな先行きのビジョンなど有るはずも無ければ理解力も無いわよ。自分の想いどうりにならなければ直ぐに切れる様な不安定なあの男になにが出来ると言うの」
「『父さん』はいつもジョバンニには辛辣だね。でも私もそう思う。そう言う意味じゃあアントワネット様の方が見込みがあるのかな?」
「あの女に様付けなんて必要ないわ。あなたはあまり面識が無いから判らないかもしれないけれどアントワネットは最悪よ。頭も切れて先を見通す視野も広い。その上で人が死ぬことに痛痒を感じない精神の持ち主よ」
「でも今回の声明文では農民に同情を禁じ得ないって…」
「必要ならば幾らでも嘘を付ける人よ。何より農民や平民は羽虫程度の認識しか持たない女よ。ケイン様の事件でも分るでしょう。自ら手を汚さずに人を使って平気で血を流せるやつよ」
「それなら今回の声明文も何か目論見があると言うのね」
「私もそう思いますわ。セイラ様のお茶席に同行いたした事が御座いますが獣人属の容認など絶対になさらないお方です。何よりペスカトーレ侯爵家領主代行としてでは無く、一伯爵令嬢として発表している時点で何もする気が無いと言っているのと同じだと愚考いたします」
「アドルフィーネの言うとおりね。ペスカトーレ侯爵家の門前を借りて、あたかもその威光を体現した風を装って市民を騙しているのよ。ペスカトーレ枢機卿も侯爵家も何一つ公式に発言などしていないのだから」
「でもそれならこの声明文にどんな意味が有るのかしら。人気取りにしたところで教皇庁の不評を買いそうだし、周辺州の領主も良い感情は持たないのではないかしら。ねえ、リオニーやナデテはどう思う?」
「それはそうですよねえ。どちらかといえば不満分子を煽っているとしか思えない行動ですものねえ」
「ウーン、これで不満分子が暴発すればぁ、その責をジャンヌ様に押し付ける気では無いでしょうかぁ。私たちの立場としてぇ、暴発した農民の支援をしない訳には行かないですからぁ」
「そうよね。その可能性が一番高いかな」
ジャンヌとしてはリオニーやナデテは二年間一緒に暮らしてきた中で気心も知れているのだろう。
アドルフィーネに対する様な遠慮はあまりないようだ。
「今は暴発を抑えて暴力行為を回避することが肝要ね。食糧支援を増やして短慮を諫めるように動きましょう。配給支援時はこちらからの暴力行為は控えて、領主側からの挑発行為に対して絶対に受けないことを伝えるようにして頂戴」
そして過激派組織の本体を探ることも密かにナデテに命じている。
【2】
アルハズ州の州都マンステールの外れ、貧民街のあばら家に集まっている若者たちがいた。
「この書付を見てくれ、今王都から届いたものだ。王都のペスカトーレ侯爵邸から発せられた声明文だそうだ。アントワネット・シェブリ伯爵令嬢の名で読み上げられたらしい」
「この内容に間違いはないのか?」
「ああ、一日二回それも三日にわたって読み上げらえたものだからほぼ内容にも齟齬がないそうだぞ」
「七か条の要求に対して理解し同情を禁じ得ないと言っているぞ!」
集まった若者たちの口から讃嘆と喜びの声が漏れる。
「やったわね。私たちの思いの一部でも届いていると言う事なのね」
「ああ、シェブリ伯爵令嬢はアジアーゴの領主代行を務めている。その方の声明がペスカトーレ侯爵邸から発せられたと言う事はペスカトーレ侯爵家も理解していると言う事だろう」
「彼女の許婚であるペスカトーレ大司祭も後ろ盾になり得るという事だろうか?」
「声明が出ていない今の時点で確定するのは時期尚早だが可能性は高いんじゃないか?」
「ああ大司祭に就任した直後で立場も有るだろうが、若い上になにより聖女ジャンヌ様とは同級生というではないか」
「就任式の演説もジャンヌ様の母君である聖女ジョアンナ様を慮った言葉であったともとれる」
「という事は…」
「ああ、可能性は高いぞ」
「カロリーヌ・ポワトー
彼らの横でその話を聞いていた野良猫がポロリと涙を流した。
「アジアーゴは酷いところだった。平民の船乗りの命なんて紙より薄かった。その船乗りたちからも踏みつけられていた獣人属は虫けら以下だった。だからどいつもこいつも憎くてよう。チビどもを生かす為なら盗みでも人殺しでもやってやるって思ってた。でもよう、ド・ヌール夫人のお陰で面倒を見ていたチビどもは北西部で立派に洗礼を受けて働けるようになってる。俺だって字が読めるようになった。そうしたら誰が悪いのかわかるようになった。こうやって世の中を変える手段があるって事も気付いた。これがみんなが明日を生きる為の糧って言う奴なら、俺はその為に死んでも良い」
「信じて良いのでしょうか? 私はそれでもペスカトーレ侯爵家が憎い。あの穢れ果てた一族が、少なくともあの枢機卿は何の咎も無いそれどころか正義を貫こうとした父を目の前で殺したんです。野良猫さんだってあの時同じ船の仲間をみんな殺されたのでしょう」
「ああ、でもあいつらは皆悪党だった。俺だって人の事は言えねえ。海賊船の下っ端だったんだから。あんたの親父さんとはわけが違うんだ」
「そうかも知れませんが、あの一族をすべて信じるのは難しい事です。ジャンヌ様のお言葉に従って、これからの動向を注視して行くべきです。何よりも私たちはジャンヌ様の僕としてそのお言葉に従って行くべきです」
「あんたの言う事は解るわ。あたい達獣人属を迫害してきたのもペスカトーレ侯爵家だからね。でもジャンヌ様は、ヨアンナ・ゴルゴンゾーラ公爵令嬢様も私たちの味方である事は間違いないんだから。先ずはジャンヌ様のお言葉を基にこれからの行動を考えようよ」
「ああ、でもここの領主共がどう出るかでいつまでも黙って耐え続けるだけの選択肢はねえぜ」
「それは解ってる」
「覚悟は出来ているわ」
そう言うと彼らは燭台の火を吹き消して闇の中に散って行った。
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