第156話 瓦解
【1】
麻疹は子供たちの間に広がりつつあった。
これはある意味作為的な行為もあっての事だ。低年齢の幼児を母親たちが聖教会の隔離室に連れ込むのだ。
幼児期の麻疹は重篤にならない。麻疹は一度かかると免疫が出来て二度とかかる事は無い。
その為我が子の免疫をつける為にわざわざ感染させに来ている。感染経験の無い若い親は祖父母に頼んで連れてくる。お陰で聖教会の隔離室は想定外の罹患者であふれてしまった。
さすがにこれは想定外だった。
カマンベール男爵領の住人にとってライオル伯爵領の惨事は他人事ではない。カマンベール男爵領でも二十年以上麻疹の発生が殆どなかった。
この機会にせめて子供のうちに免疫をと親が考えてもおかしくはない。
なにより今なら男爵家や聖教会が治療や検疫に対処してくれている。重篤な症状になる可能性は低いからだ。
「喜べセイラ・ライトスミス! 聖女が来てくれるぞ!」
その日クオーネでのライオル伯爵家糾弾の根回しに行っていたゴルゴンゾーラ卿が喜色満面で私のところにやってきた。
聞けば聖女ジャンヌがカマンベール領に向かっているとの事だ。
事件が起こって直ぐにグレンフォードの大聖堂に詳細を報告すべく使いを出したそうなのだが、途中ブリー州のモルビエ男爵領に居たジャンヌの耳に入りいち早くカマンベール領に向かって旅だったそうだ。
もう中央街道をひた走り東部高原を進んでいるとの一報が早馬によってクオーネの大聖堂にもたらされたのだ。
「聖女が来るならば一安心だ。間違いなく麻疹も収束するぞ」
ゴルゴンゾーラ卿が領主館に詰めるメンバーに話すと室内に一気に安堵の雰囲気が広がる。
「聖女様の聖魔法ってそんなにも凄いものなのですか?」
私は思っていた疑問を口にした。
魔法がある事は知っている。私の属性でもある火魔法なら竈に火をくべたり食材を炙ったり…少し強めのガスバーナー程度の事が出来る。
水魔法なら水を吹き出して汚れを飛ばす事が、風魔法なら小さな旋風で枯葉を飛ばしたり木の実を落としたり、地魔法なら粘土を押し固めたりする事が出来る。
要するにガスバーナーやジェットクリーナーやブロアーやタンパーの下位互換みたいな使い方が出来るのだが、或る意味ただそれだけの事というイメージしかない。
私も一度だけダドリーの真似をして鴨肉を消炭にしたことが有る。洗礼式の時に言われたように私は魔力量が多いので制御が難しいという事なのだ。
それがバレて父ちゃんにこっぴどく叱られてからはやっていない。
お母様から魔力制御は専門の指導者に師事しなければ習得が難しく、一般庶民にとっては聖教会に入るか騎士団に入るか王立学校に通うかしか方法が無いと諭された。
まあある意味出世の約束手形的な意味も有るのだが、それ迄は使わずに大人しくしているに越した事は無い。
平民である私などは知られれば聖職者にさせられかねないと言われればもう隠すしかないではないか。
ちなみに治癒魔法と言うのはそれらの属性魔法の応用で、止血したり熱を抑えたり呼吸を助けたりとそれぞれの属性によって得手不得手が有るが治療の補助が出来る魔法である。
水や火の属性で体温や水分のコントロールをしたり地属性で血管の圧迫止血したり風魔法で人工呼吸をしたり。
上級者は人工呼吸器の代わりのような事も出来ると言う。魔力量が多いほど高度の医療行為が可能となるので聖教会はその取り込みに熱心なのだ。
しかしそれが疫病対策に寄与するのかと言われると疑問しかわかない。
それに聖属性魔法なんて一般で聞かない特殊な属性なのでどんな力が有るのかイメージもわかない。
「ああ病魔を滅する力らしいぜ。俺も詳しく知っている訳じゃあないがな」
そう前置きをしてゴルゴンゾーラ卿が説明してくれた。
聖属性とは生命の生死を司る属性で生命活動を活性化させたり抑えたりする事が出来るのだ。
聖女ジャンヌの力は闇の聖属性で腐敗を抑えたりできるという事だ。
この数年間でもインフルエンザや腸チフスと思しき病気が発症した村々を回り治療に務め、感染の拡大を防いできたそうだ。
闇の聖属性は抗生物質のような力が有るのだろう。
特定のウィルスや細菌の活性を抑える、あるいは殺す力を持っているのだろう。それを何で選んでいるのかは良く判らないが、無作為に活性を抑えればマクロファージなどの白血球や血小板・赤血球などの活動も抑えられ抵抗力が下がってしまう。
聖女ジャンヌはそれをうまく調整して治療にあたっているのだとしたら大した者だ。
「それならば大人の感染者たちも快癒する事が出来るかも知れないね。私たちが聖女様に出来る手助けは何かあるのかしら」
「それならばセイラカフェのお料理が殊の外お好きと伺っておりますわ。特に揚げ物が好物で、串カツを好まれて召し上がりにいらっしゃるとお聞きいたしました」
治癒の手伝いに来て貰っている聖導女様が教えてくれた。
もっと甘い物を好んでいるのかと思えば割とおっさんぽい好みのようだ。
それならばカツサンドをたくさん作っても良いし、串カツパーティーも良いなあ。
【2】
初めはルシオさんの長女のケレスちゃんだった。
彼女が発熱して倒れた次の日にはルーク様の次男のルキウス君が、その夜にはルーカス君が次々に熱を出して倒れた。
私としても少々危機感が足りず、いざ身近に発症者が現れて狼狽している。
オスカルは昨年済ませていたので感染の恐れはないが、いつも遊んでくれていたお兄さんやお姉さんが寝込んでしまって不安なようでひどく落ち込んでいる。
そして恐れていたことが起こり始めた。
若いお母さんがた二人が熱で倒れて隔離施設に運び込まれてきたのだ。
二十歳と十八歳の母親で、一人は未だ乳飲み子を抱えている。
乳児は村の知り合いの同じ乳児を抱える母親に預けられて、二人は養生に専念する事になった。
それに続いて未婚の男女の間にも発症者が出始めた。
カマンベール領での発症者は若くて体力も有る者ばかりであったことから重篤化や合併症の発症などは免れている。
しかし安心できるわけでもない。
特に村人たちでは無く、聖職者や領主館の役人や兵士たちの方に疲労がたまりつつある。
彼ら協力者については事前に麻疹の罹患経験が有るかどうかは口頭で確認をしているがもしもの事が有る。
ゴルゴンゾーラ卿のお陰でライオル伯爵領からの患者の流入は止まった。
ただそのせいでライオル伯爵領内がどんな状況になっているのか、想像したくはないが。
ゴルゴンゾーラ卿の糾弾の書状に対してライオル伯爵もリール州のギボン司祭も領内は神意によって守られていると連呼し続けている。
しかしそのおかげで新規感染者の流入は止まりキャンプは小康状態を保っている。
おかげでそれまでの緊張が解けてきたのだろう。州兵や聖職者の間で過労で倒れる者が現れだした。
マーフィーの法則の一文、”失敗する可能性のあるものは、失敗する”のである。
冗談めかしているがフェイルセーフの基本であることに間違いはない。最低限フールプルーフ化を図らねばならない。
とにかく過労気味の人員の入れ替えが急務である。
緊急で交代の人員を手配している中ついにカマンベール男爵様も熱を出して倒れたのである。
老齢であるのに領主として事件が起こった日から連日陣頭に立って働き続けてきて、相当に疲れがたまっているのはすでに気付いていた。
老齢の身でありながら無理を押して仕事をしようとする彼を押しとどめて熱が下がるまでお母様が看病を続けた。
そしてその日の朝お母様の悲鳴に驚いて男爵の部屋に駆け付けると、彼の顔や手に赤い斑点が現れていた。
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