ドク 土鈴マツト

 ラップのかかった皿にはコロッケとキャベツ、茶碗に盛られた白米。微かに揺れながら盆の上に乗っている。痩せた女性は慣れた様子で階段を上がり、光の漏れる一部屋にたどり着く。


「お夕飯持ってきたよ」


 ドアを叩いても返事はない。そっとノブをまわすと、毛布は盛り上がっていた。

 顔を覗き込むと彼はイヤホンをしたまま寝ており、手にはゲームのコントローラーが握られている。


「置いとくね」


 できるだけ静かに囁き、細い腕は優しく髪を撫でようとして、やめた。



 ***



「今日はコロッケか」


 ドキリと心臓が跳ねる。


「おかえりなさい、帰っていたのね。ごめんなさい」

「今ちょうど帰った。米ぐらいよそうから、お茶でも入れてくれ」

「はい」


 夫婦二人でキッチンに入る。食器の当たりあう音と少し足音のみが響く。由里は冷蔵庫から麦茶を出し注いだ。

 茶碗と湯飲みを並べちゃぶ台に向かい合う。机には同じ皿が一枚並んでいた。


「それで、忍もこれなのか」


 揚げ物を指さす。


「はい」

「買ったのか」

「……はい」


 彼女は下を向く。


「前にも言っただろう、いいものを食わすな。余計出てこなくなるだろう」

「ごめんなさい」


 彼女がそう謝るころには、大輔は食事に手を付けていた。



 ***



 夕方あたりが赤いころ、忍はテレビ画面に見入っていた。ガチャガチャとボタンを押す音が小さく響く。3Dのそのゲームはプレイヤーの背中を見ながら他のプレイヤーを殺害していくものだ。チーム戦になっているため、現実でもキャラクターにはプレイヤーがいるのだ。

 クソ、クソ、クソクソクソ。どのゲームもつまんねえ。どいつもこいつもうぜー。操作性悪すぎだろ。

 ぼんくらのコントローラーを布団に投げ、体も布団に放る。

 何度も見た天井。何もないと映し出されるのは必然的に心の内だ。過去の記憶が永遠に流れそうになる。

 やっぱりゲームをしている方が幾分かましだ。忍が再びコントローラーを握った時だった。

 こんこんと扉を叩く音がする。まだ一七時ぐらいじゃないか。夕飯にしては早い。


「なに!」


 繰り返されるノックにイライラした。


「起きてたの、よかった。お昼はたべた?」


 要領を得ない。無視してマッチング画面を見た。ユラユラとリアルに揺れるキャラクターがその行動を辞めない。今の時間はみんなが通信するせいでインターネット回線が遅い。余計にイライラする。


「今日お父さん遅いんだって」


 だから何だというのか。


「だからね、ケーキ食べよう」


 甘いものなんて久しぶりに食べる。そんなものを買ったら嫌味を言われるからだ。

 忍は欲求に従い、大人しくリビングルームに下りた。食卓には既にケーキ屋の白い箱が置かれており、ガラスのティーポットは焦げ色をした液体で満たされている。


「お父さんになにか言われなかった?」

「別に」

「そっか」


 いつも逆鱗に触れないよう努める。怒られなければそれでよかった。その気持ちは母も同じだろう。

 テレビを付けてワイドショーを見る。忍にとって知っている芸能人などほとんど出ておらず、静かな部屋を埋め合わせる音情報と化していた。



 ***



 由里は学校にいた。始めの頃はなんだか懐かしいと思えたが、こう何度も訪れると味もなくなるものだ。いつもの通り相談室に入室する。


「浦辺さんこんにちは。忍君の調子はどう?」

「あまり変わらないです」


 化粧気のない眼鏡の女性、山下さんはもはや顔見知りだ。いつも変わらない笑顔は素敵だが、些か人としての闇を感じなくもない。

 今日も進学先の話をする。忍はもう中学三年生に上がったのだ。社会で生きていく上、いい加減考えねばならないものがある。通信制高校に進学することは想像に難くなかった。うわさに聞いていた場所に我が子が行くなんて思いもしなかった。あぶれた子供たちがいるような場所という偏見があったし、実際間違えてもいない。

 月に一回程度の中学校での相談ではたいしたことを言われない。大抵忍にどう対応するか丁寧に教えてもらうか、悩みを打ち明けて共感してもらうかだ。それでも由里は、誰も味方がいないよりはマシだと考えていた。

 今日は通信制高校に進学するにあたって、どう受験するかや、そもそも忍が合意してくれるかを話した。とつとつと将来が決まっていくのは不服とまではいかないが、こんなものかという諦めもややあった。

 忍が生まれたころ、夫婦でどのような素晴らしい人になるのかを想像しあっていた。まさか宇宙飛行士になったりして、と笑いあっていたあの日。そのような記憶は周囲の家族が見るよりもコントラストの強い光となっていた。まだわが子は取り戻せる、と言い聞かせるが、不安が募るばかりだった。

 いつも通り山下さんと話し合う。ほんとうにいつも通りで、忍の協力が必要な項目が止まり続けていた。


「浦辺さん、忍君のカウンセリングの話どう? 一回でいいから来てくれたらすべてがトントンなんだけどね」

「それが忍、学校とかそういう場所に行きたくないみたいで。お昼のファミレスとかにはついてきてくれたんですが」


 山下さんは唸る。


「何とか中学校に来てくれないか、もうちょっと説得してみてくださいね」


 わかりました、と由里は返事をした。



 ***



「忍はどうなんだ」


 夕飯の食卓で夫婦二人は向かい合っていた。


「特に変わったところはないです」

「中学校の相談室はどうなんだ」

「忍がカウンセリングに行かないと、どうにも進まない話があるみたいです」

「みたいってなんだその言い方は」


 由里の体はびくりと跳ねる。


「ごめんなさい。“あります”」

「いままでカウンセリングに誘われていたのに行かなかったのか」

「はい」


 細い肩は警戒する猫のように上がったままだ。

 大輔はため息をつく。暫し空中を見て口を開いた。


「わかった。俺が引っ張り出す」

「引っ張り出すって」


 由里は箸を置く。


「こうするしかないだろう。いい加減甘えすぎだ。何日だ」


 その妻は正直に答えるしかなかった。



 ***



 睡眠の無の中、揺れる。常に怠い体も起きざるを得なかった。


「忍、着替えなさい」


 軽い混乱で捉えた顔は父親の顔だった。それは電気と太陽で照らされていた。どこか嫌な場所に連れていかれる、そう本能が叫ぶと同時に、もうどうしようもないことが冷静に理解できた。しかしその冷静さは意識の奥を通り越しどこかへ行ってしまう。

 忍は布団の中に自らをしまい込んだ。めくられないように縁を内側に入れた。しかし非情にもその殻は剝ぎ取られ腕を掴まれる。


「やだ、いきたくな、」

「何人に迷惑かけてると思ってるんだ。お前は今何年生だ? ちょっと学校に行くぐらい我慢しなさい」

「あ、ああ」

「ほら立って!」


 大輔は敷布団に足を踏み入れ引っ張り上げる。

 忍はおよそ一五歳か疑問なほど泣き喚き、体をのたうち回した。毛布に乗せられていたコントローラーはすぐ見つかるような場所ではないどこかに飛ばされていた。



 ***



「はじめましてお父さん。私が忍君のカウンセリングを対応している山下と申します」


 大輔は眼鏡をかけた女性に軽く礼をする。


「お世話になっております」

「とんでもない。私もお力添えできてうれしいですよ」


 山下は一度にこりと笑う。


「早速本題に入りたいのですが、忍君がカウンセリングに来たくなくて取り乱しちゃったとか」

「ええ、妻が話した通り、私が連れて行こうとしたら泣いて抵抗しまして」


 大輔は横に座る由里を手全体で指す。


「うーん、不登校って一筋縄ではいかないもんですからね」

「ええ、身に染みて理解しています」


 大輔と山下は話を続ける。由里はそれをぼんやりと聞いていた。



 ***



「お前何組だった?」

「三組」

「三組」

「え、俺も三組」

「忍と頼は?」

「一組」

「二組」

「あーあ、二人だけ別れたな」

「おい、早く教室行こうぜ。こういう時一番に行きたい派なの」

「はいはい」


 三人は名残惜しさの欠片もなく階段を駆け上がっていく。


「おまえ1組かよ。知り合いいねーんじゃねえの」

「頼もだろ。俺らボッチだわ」

「なあお前だけは友達でいてくれよ」

「なにそれキメ―よ」

「じゃあお前ひとりでいいのかよ」

「まあ、また遊んでくれよ」

「その言い方キメェ」

「うるせー」


 ───


 騒がしい教室で一人座っていた。俺のことなんて一瞥もくれない先生は、他の奴らに笑いながら注意する。座った時見上げた先生の顎は妙に目に焼き付いた。10分休みの間、たまに頼に会っていたな。


「おまえ何部に入る? 俺絶対運動部」

「俺はなんにもしないわ。めんどくさいし家帰ってゲームしてーもん」

「あっそう。インドアだな」


 そう、それで頼は部活始めたんだ。中学生になって放課後公園で遊ぶこともなくなった。それでいつの間にかあいつは教室内で部活仲間ができていて、誰とも話さなくなったな。


 ───


「体操服忘れたので見学します」

「別のクラスの友達に借りなさい」

「…………」

「はぁ。とりあえずモップがけしといて」

「わかりました」


 晒し者みたいに学ランでモップかけて、後ろでちょうど偶数になってペアが余すことなくできたクラスメイトたちが、ペアでバトミントンしていた。


 ───


「忍、熱あるじゃない。今日は学校休みなさい」


 よかった、学校に行かなくていいのだ。


「今日も下がらないね」


 良かった。


「大分下がったけど念のため」


 良かった。


「あと一日ぶり返さないように」


 ああ、


「もう大丈夫ね」


 いやだ。

 二度とあんなところに行きたくない。みんな俺の事ぼっちだって笑って見てるんだ。つるむしか能のないやつらが。


 ───


「いい加減風邪も治っただろう」

「それがあの子行きたくないいやだって」

「明日午前中休むから、何としてでも連れていく」

「でも」

「このまま放っておく気か」

「わかりました」

「忍起きなさい。制服に着替えて」

「着替えなくてもいいから車乗りなさい。忍」

「ほら降りて。制服まで着たんだから。今ならだれもいないから」


 結局車から降りて、教室に行きたくないから植込みの陰で用水路を眺めていたら先生に見つかったんだっけ。お母さんが学校に呼び出されてたな。



 ***



「大輔さん、もう忍のことは私に任せて」


 由里は俯きながら放つ。


「いままでお前に託したせいでこうなっているんだろう」

「カウンセラーの先生だって厳しくしてやるなって言ってたじゃない」

「俺に関わるなって言ってるのか」


 大輔は声を荒げる。由里は少し押し黙るが、この時ばかりはしっかりと反抗した。


「……だって事態が少しでも良くなったことある?」


 久しぶりの事だった。反論を投げられた。

 由里はハッとした。


「は、ごめんなさ……」


 大輔は依然黙ったまま、玄関へと向かい外へ出て行った。

 一九時を回った今、普通は食卓を囲む時間だった。由里は手持ち無沙汰に料理を始めた。



 ***



「忍、起きてる?」

「何」


 コントローラーの調子が悪くなっていた。勝手に後ろに進むバグが頻繁に起きる。このままでは使い物にならないだろう。今日一日はテレビゲームではなく、スマホゲームの周回に切り替えていた。


「今お父さん買い物行ったから、下に降りて夕飯食べない?」

「いつ帰ってくる?」

「……それはわからない」

「じゃあいい」

「そう、ごはん置いとくわね」


 空はもうほとんど暗い。しかし忍にとって夜は良かった。だって怒る人はみんな寝ているから。一人だから好きなのだ。

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