第2話 愛すべき家族

 石造りの廊下は薄暗く、ひんやりとしていた。

 婚約式の会場は、帝都デュアートの中心部にある大聖堂だ。築五百年近くが経過した、大理石をふんだんに使った巨大な建物は、およそ二千人の参列者を収容できる。


「うわあ! ミネルバ様、めちゃくちゃお綺麗ですっ!! こんなに綺麗な花嫁さんはこれまで見たことがないし、これから先も見ることはないだろうなあ」


 扉の前で護衛に当たっていたロアンが、屈託のない笑みを浮かべる。


「ありがとうロアン。でも『花嫁さん』はまだ早いわ」


 ミネルバは頬を緩めずにはいられなかった。ロアンの笑顔は、見る者を明るい気分にしてくれる。

 ロアンの隣に立つ、すこぶる優秀な護衛であるエヴァンも、つられたように笑った。彼はいつもミネルバに、世界で一番貴重なものを見るような眼差しを向けてくれる。


「本当にお綺麗です、ミネルバ様。ルーファス殿下は幸せなお人だ」


「ありがとう、エヴァン」


 付き合いは短いが、エヴァンからは嘘偽りのない忠誠心が感じられる。ミネルバの心はじんわりと温かくなった。

 ミネルバはしなやかな足取りで、ルーファスの待つ控室を目指して進んでいった。

 生まれたときから伝統衣装を着ているかのように、靴音を響かせずに歩く。テイラー夫人の教育の賜物だが、アシュランでの十年間の鍛錬がなければ、ここまで優雅にはなれなかったに違いない。


「グレンヴィル様もエヴァンジェリン様も、お父様もお母様も、もうお揃いかしら? きっとお待たせしてしまっているわね」


「時間に遅れはございません。それに今日のような日は、お待たせしてしまっても仕方ありませんわ。主役の女性の身支度は、時間がかかるものと相場が決まっているのですから」


 ミネルバの問いかけに、スケジュール管理をそつなくこなすソフィーが答えた。

 威容を誇る大聖堂の廊下を歩いて行くと、何人かの神官たちが親しみのこもった目を向けてきた。グレイリング家の先祖を祀る宮殿内神殿の神官たちも、今日はこちらに移動しているのだ。

 ほどなく目的の場所に着いた。ルーファスの護衛のセスとぺリルの手で、堅固で堂々とした扉が開かれる。

 正式な衣装に身を包んだルーファスが、はっとしたように振り返るのが見えた。


「ミネルバ……」


「ルーファス……」


 互いに言葉を失ってしまった。古くからの慣習を守り、本番用の華麗な衣装をまとった相手を見るのは、これが初めてだった。

 ルーファスは強く激しいオーラを発していた。見上げるような長身を伝統衣装で包んだ姿は、画家ならば絵に描きたいと思うだろうし、彫刻家ならば石を彫って後世に残したいと思うに違いない。

 ミネルバとほぼ同じデザインの流れるようなローブには、金糸銀糸でグレイリング家の象徴である龍と鷲が刺繍されている。

 龍をモチーフとした頭飾りは、小ぶりだが印象的だ。ミネルバのティアラと対になっている逸品であるらしい。

 窓から差し込む光が、ルーファスの非の打ちどころのない姿をあますところなく照らし出している。彼の存在感がどれほど圧倒的かを知っているとはいえ、うっとりとため息をつかずにはいられない。

 相手に目を奪われているのはルーファスも同じらしく、端整すぎる顔が赤く染まっている。静寂を破ったのは、マーカスのしゃくりあげるような呼吸だった。


「ううう、綺麗だなあミネルバぁ~っ!」


 はっと我に返ると、室内には両家の家族が全員揃っていた。マーカス以外は満面の笑顔だ。おめでとうの気持ちがこもった、温かい笑顔。


「輝かしくて目が潰れそうだああ、ミネルバ自身から光が放たれているようだあああ! 神様ありがとうございます、ひらすら感謝しますうぅ」


「マーカス兄さん! 当代と先代の皇帝ご夫妻の御前なんだから、静かに──」


 号泣するマーカスに、コリンが焦ったように声をかける。グレンヴィルが「よいよい!」と大きな声を上げた。


「そなたたちは、いつも妹のために生きてきた。これこそ待ち望んでいた瞬間であろう。ルーファスよ、ミネルバはバートネット家の人々にとって、値段などつけられないほど価値のある宝。それを受け取るお前は、生半可な覚悟ではいられないぞ」


 グレンヴィルがしみじみと言った。父親の涙まじりの声にルーファスが「はい」とうなずき、ミネルバに照れくさそうな笑みを向けてくる。


「私はいま有頂天で……ミネルバの美しさに言葉がないのです。生きていてよかったと……心から思います」


 ルーファスの言葉は、少し震えていた。トリスタンが笑いながら前に出てくる。


「ルーファスが年相応の、青くさい若者に見えてとても嬉しいよ。お前とミネルバは、幸せな人生を歩むことだろう。なにしろグレイリング家の男は、愛する女性をとことん大切にするからな。私もマーカスのように、お前とミネルバを結び付けてくれた神に感謝しなくては」


 弟を見つめるトリスタンの顔には、純粋な喜びが浮かんでいた。いつもは逆らうことを許さない威厳のある人なのに、黒い瞳にはうっすらと涙の膜が張っている。


「私の妹は幸せ者です。喜びと誇りで胸がはちきれそうだ……」


 ジャスティンが感慨深そうにつぶやいた。その瞳にはやはり涙が滲んでいる。セラフィーナが金色の瞳に悪戯っぽい光を躍らせ、ミネルバの耳元で囁いた。


「男の人って、こういうときは涙もろいのよね。普段は強く勇敢であらねばならないって己を律してる分、反動が来るのかしら? レジナルドは公式行事に参加できる年齢ではないからお留守番だけれど、連れてきていたら大変なことになったかも。だってあの子、ミネルバさんのことが大好きなんだもの」


 そう言って微笑むセラフィーナは、繊細で上品なドレス姿だ。いつもは下ろしている髪を結い上げているので、とても新鮮だった。


「ミネルバさんが結い上げ髪のブームを巻き起こしてくれて、助かっちゃった! ほら、二十代後半ってちょっと微妙な年齢じゃない? そろそろかなあと思いつつ、切り替える勇気が湧かなくて、困ってたのよ」


 セラフィーナの瞳が楽しそうにきらめく。ミネルバは嬉しさと誇らしさが入り混じった気持ちになった。

 静かに近づいてきたエヴァンジェリンが、ミネルバの手をぎゅっと握り締める。


「いよいよねミネルバさん。あなたの本来の素質を、十分に発揮できると信じているわ」


 エヴァンジェリンはそう言って、ウインクをした。華奢で小柄だが威厳に満ちた義理の母に、ミネルバは「はい」と微笑んで見せた。

 厳格だが愛情深い父サイラスと、穏やかで控えめな母アグネスが、揃ってハンカチで涙を拭っている。

 室内にいる人々を見回しながら、ミネルバは家族の愛に包まれていることを再確認した。


「皆様お揃いでございますな。それでは婚約式に先立ちまして『聖なる帯』の儀式を行いましょう」


 神官長がおごそかな表情で入室してきた。宮殿内神殿と大聖堂、両方の責任者を務めている人物だ。白髪に白髭の好々爺のような見た目だが、教団内では主教という高い地位にある。

 彼の後ろには、大きな盆を捧げ持った女性神官が立っていた。

 この『聖なる帯』の儀式も、古くからの慣習のひとつだ。神官たちが協力して編み上げた儀式用のレース帯で、これをローブの上から巻き付けるのではなく、ストールのように首から垂らすのだ。

 色とデザインは、アシュランを出立する前に二人で話し合って決めた。

 伝統衣装は上から下まで白なので、聖なる帯も白を選ぶことが多いのだが──ルーファスとミネルバが結びつく意味を最大限に生かしたくて、あえて違う色を選んでいた。

 盆の上の帯を見たセラフィーナが「まあ」と小さな声をあげる。他の面々も息をのんでいた。

 そこにあるのは、ミネルバが愛してやまないルーファスの髪と瞳と同じ色の帯──あなた以外には染まらないという強い意味が込められた、漆黒の糸で編まれた帯だった。

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