第2部9章

第1話 婚約式当日

 いよいよ婚約式の日がやってきた。ここまでずいぶん時間がかかった気がするが、今日は終わりではなく始まりの日だ。


「なんて綺麗なのかしら……」


 ソフィーがため息をつきながら一歩後ろに下がる。テイラー夫人がうなずき、誇らしげな表情になった。

 ミネルバは鏡の中の自分を見た。宮殿の衣裳係が心血を注いで準備したグレイリングの伝統衣装は、人生が大きく変わる日の装いにふさわしい豪華さだ。

 この伝統衣装は、普段ミネルバたちが着ているドレスの原型になっている。しかし男女共通のデザインであるため、スカートのように見える部分は、実は股の割れたズボンだ。かなりの長さがある裾は、踏まないように注意しながら歩かなければならない。

 上から羽織るローブは、袖が長くて広い。グレイリング家の象徴である龍と鷲が、金糸と銀糸で刺繍されていた。

 そして鷲をモチーフにしたティアラには、千個以上のダイヤモンドが使用されている。広がる翼のような形の、見事な逸品だ。シックでありながらモダンでもあり、時代を超越している。

 ティアラは皇族だけが着用を許される装飾品だ。ミネルバが着用しているものは、エヴァンジェリンもセラフィーナも自らの婚約式で使ったものであるらしい。グレイリング家にとって特別な意味のある、先祖伝来の家宝なのだそうだ。

 無数のきらめきに視線が吸い寄せられ、ミネルバはうっとりとせずにはいられなかった。これを作り上げた職人の技の巧みさに、畏怖の念を覚えるほどだ。


「ミネルバとルーファス殿下の婚約式は、お祝い事というより国家行事ですものね。準備を手伝えた上に、付添人として一緒にいられるなんて名誉なことだわ」


 ミネルバの女官であり、かけがえのない親友であるソフィーが、感慨深そうな声を出した。


「婚約式程度で感動している場合ではありません。今日の後に待ち受ける結婚式に至っては、世界的行事ですよ」


 テイラー夫人が言った。彼女はミネルバの衣装をつまんだり引っ張ったりして最後の調整をし、自らが時間をかけて結い上げたミネルバの髪を検分している。

 ソフィーの言う通り、これから行われる婚約式には国内の貴族が集まる予定だ。それだけでも相当数の参加者が見込まれている。


「いいですかミネルバ様、婚約式に必要なことはすべて覚えたとはいえ、ここで満足してはなりません。あなた様の体には、グレイリングの血が流れているわけではない。周囲を納得させるためにも、完璧の域に達する努力を続けなくてはならないのです」


「テイラー夫人……。今日のようなおめでたい日に、そのように厳しいことをおっしゃらなくても……」


 ソフィーがおでこに皺を寄せる。ミネルバは微笑んだまま振り向いて、ソフィーとテイラー夫人を順番に見た。


「ソフィー、今日の婚約式のために全力を尽くしてくれて、心からお礼を言います。本当にありがとう。そしてテイラー夫人、私が皇弟妃としての責任を負えるよう、これからも厳しく躾けてくださいませ」


 ミネルバは優雅な仕草で、二人に向かって頭を下げた。


「私、この前のカサンドラの一件で思い知ったんです。自分がどんな世界に飛び込むのか、わかっているようで完全にはわかっていなかったのだと。そして、エヴァンジェリン様がテイラー夫人を教育係に選んでくださって、本当に幸運だったと」


「私が教育係で、幸運ですか?」


 テイラー夫人が興味深そうな顔つきで聞き返した。


「私が『厳しすぎる教育係』だと言われていることは、ミネルバ様もご存じでしょう。どんな良家の令嬢でも、私の前では萎縮するほど。尻尾を巻いて逃げ出した人数は、多すぎて覚えていないくらいですよ。あなた様は意外にも根気のある生徒でしたが……これから先ルーファス殿下に泣きつく可能性はゼロではないと、私は意地悪く考えておりますが?」


 意地悪なことを言うテイラー夫人を、ソフィーはおろおろと見つめるばかりだった。ミネルバはひとつうなずき、落ち着きと厳粛さの漂う声で答えた。


「私には、テイラー夫人がこうおっしゃっているように聞こえるのです。この機会に乗じろと。信頼は自分の力で勝ち取れと。テイラー夫人の教育に耐えきった淑女は皆、社交界に大きな影響を与える存在になっていらっしゃるはず。彼女たちの仲間に迎え入れられるかどうかは、私の努力次第だと……」


 テイラー夫人の教育は確かに厳しいが、たくさんのことを教えてくれる。心を強くしてくれる。

 同じ師について学んだ人たち──テイラー夫人の教育法が若い世代に人気がないことを考えると、かなり年上に違いない──に受け入れられたら、ミネルバにとって大きな助けになるだろう。

 ミネルバの言葉に、テイラー夫人はふんと鼻を鳴らした。


「それは期待しすぎです。私はたくさんの生徒を受け持ってきましたけれど、いまも繋がりがあるのはごくわずかのもの。しかしながら……その全員が、見くびってはいけない相手ですけれどね。あのカサンドラ嬢でさえ、しかるべき敬意をもって接しなくてはならない女性ばかりです」


 テイラー夫人が肩をすくめた。


「私がいくら頼んでも、彼女たちはあなた様に見込みがあると判断しなければ、けっして味方にはつかないでしょう。私という存在を出発点として、お互いをよく知ることができるよう、手助けくらいはしてあげますが……信頼はご自分で勝ち取ってくださいませ、ミネルバ様」


 おろおろし続けるソフィーと、思わず苦笑いしたミネルバを見ながら、テイラー夫人がいたずらっぽく目を光らせる。


「短い間とはいえ、私が知識を叩き込んだのですから。口うるさい社交界の面々の前に出しても恥ずかしくはない程度にね。私の教育係としての資質に疑問符がつくようなことには……まあ、まずならないと信じています」


「あのう、テイラー夫人。それは遠回しに、非常に回りくどく、ミネルバには見込みがあるとおっしゃっているのですわよね……?」


 ソフィーがおずおずと尋ねると、テイラー夫人は「さあどうでしょう」と答えながらも、優しい笑みを浮かべた。

 ミネルバもふふっと笑って、それから口を開いた。


「あなたがた二人の助けがなければ、今日の私はありませんでした。ソフィー、あなたのような宝物を見出せるとは、アシュランを出るときには思ってもいなかったわ。テイラー夫人、あなたを師と仰げることを、私はこれから先ずっと感謝し続けるでしょう」


 ミネルバはもう一度頭を下げた。こんなに素晴らしい女官と教育係を授けてくれた神に、心から感謝しながら。

 顔をあげ、三人で微笑みを交わす。


「さあ、そろそろ移動しなくては。ルーファス殿下が首を長くして待っておられるに違いありませんから」


 テイラー夫人の言葉に、ソフィーが「そうですね」と笑った。 

 ミネルバはなんだか力がみなぎってくるのを感じた。いままさに蛹から羽化しようとしている蝶になった気分だ。


「ええ、行きましょう」


 ミネルバはルーファスが待つ部屋へ向かって歩き始めた。伝統衣装を初めて着たときとは打って変わった、優美な裾さばきができるようになっていた。


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新年あけましておめでとうございます。読者の皆様にとって、すばらしい一年になりますよう心からお祈り申し上げます。

次回更新は7日(金)の予定です(これまで通り2~3日おきの更新となります)

楽しんで頂けるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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