第2部6章
第1話 厳しいレッスン
宮殿入りしてから十日、ミネルバは様々な教育を受けた。
宮殿内で行われる祭祀、帝国憲法と歴史、婚約式の作法を習いながら、何人もの要人たちと次々に歓談した。
グレイリングには宰相や大臣による閣僚評議会があるが、実権を握っているのは皇帝トリスタンだ。
しかし大臣たちのほとんどは公爵家の当主で、ミネルバに対して厳しい視線を投げかけたり、冷たい態度を取ったりした。
現役閣僚の中に、カサンドラの父であるメイザー公爵はいない。それなのに大臣たちの態度は、二週間の旅で出会った侯爵家以下の当主たちとは明らかに違っていて、友好的とは言い難かった。
「これも試練の一種だと思いなさい。彼らはあら探しがしたいのです。公爵たちの前でも、物怖じせずに優雅に振る舞いなさい」
後ろに控えているテイラー夫人に囁かれるたび、ミネルバは即座に笑顔を作った。どんな嫌味を言われても完璧な表情と態度を崩さずにいられたのは、彼女のおかげだった。
「あなたの地位を奪おうとする公爵令嬢はいくらでもいます。並大抵の努力では属国出身のハンデは補えませんよ。せめて婚約式の作法だけでも、ひとつも欠点が見つからないようにしなくては」
テイラー夫人の言葉に、ミネルバはひと言も口答えをしなかった。婚約式の作法を完璧に覚えるまで、地獄のような特訓に耐えた。
「指先の動きに気をつけなさいと何度言えばわかるのですか。そんなことでは世界屈指の誇り高き一族、グレイリング家の一員にはなれませんよ!」
皇族でも成長の節目にしか着用しないという伝統衣装は、袖が長くて広い。スカートも長すぎて、裾を踏まないように歩くだけでもひと苦労だ。
公爵家の令嬢たちは教育の一環として、この衣装での美しい姿勢や所作を身に着けているらしい。
ミネルバは悔しくてたまらなかったので、テイラー夫人の厳しい教育が好ましかった。日々成長している手ごたえがある。
「もっと威厳たっぷりに、背筋を伸ばして!」
ある程度こなせるようになったと思うたび、テイラー夫人の険しい目がさらに険しくなる。厳しい指導は毎日夜遅くまで続いた。
一日の終わりには、金づちで殴られているように頭が痛くなるので、エヴァンが作ってくれたアロ豆のお菓子が大いに役に立ってくれた。
「ぎりぎり及第点ですね。もう少し練習したいところですが、本日はここまでにしましょう。明日はアシュランからご家族がいらっしゃる日ですし」
テイラー夫人が閉じた扇で、壁に貼られた予定表をとんとんと叩く。彼女が颯爽とした足取りでレッスン室を出ていくと、入れ替わるようにソフィーが入ってきた。
「お疲れ様ミネルバ、今日も厳しいレッスンだったみたいね」
「ええ……」
ミネルバは小さくうなずき、椅子に座って目を閉じた。どっと疲れが押し寄せてくる。
「ねえ、やっぱりルーファス殿下に直言してもらった方がいいんじゃない? テイラー夫人はずけずけ物を言いすぎよ」
「ううん、いいの。テイラー夫人に叱られているおかげで、公爵たちの前でまったく緊張せずに済むから」
ミネルバはもはやほとんど残っていない気力を振り絞り、にっこり微笑んで見せた。
ソフィーが小さくため息をつく。
「入浴の準備を整えてあるわ。セラフィーナ様が入浴剤をプレゼントしてくださったの。明日に備えてゆっくり眠れるようにって。部屋に戻って、まずは髪の毛を解きましょう」
「結い上げていると練習が捗るんだけど、お風呂にすぐに入れないのが困りものね」
ミネルバは苦笑しながら、自分の髪の毛に手をやった。グレイリングの流行とは異なり、頭頂部よりやや下の位置でまとめてある。
ダウンスタイルもエレガントだが、アシュランでは後れ毛ひとつ残さず、きっちり髪を結い上げて生活していた。本気で勉強するときは、やはりこちらのスタイルのほうが落ち着く。
「でも凄く似合ってる。より一層顔立ちがキリッとして見えるもの」
「それだけはテイラー夫人にも褒められたわ。アシュランにいたころは、自分のキツイ顔立ちが大っ嫌いだったのに」
「テイラー夫人はきっと、ミネルバが自分への尊敬を行動で示したってご満悦なのよ。あの人、若い世代が髪を下ろしているのが嫌いみたいだし」
ソフィーが笑ってくれたので、ミネルバは嬉しくなった。ギルガレン辺境伯からの手紙を読んでから、彼女はとにかく元気がない。
手紙には、有益な情報は何ひとつ書かれていなかった。
ロバートは自分の行いを棚に上げて、すべてミーアのせいにしている。
『甘やかされて育ったミーアは、我儘で衝動的だった。絶望的なまでに愚かで、精神的に不安定だった。婚約者の妹だから、繊細な壊れ物のように扱ってしまった。その行動を愛情と勘違いしたのだろう。たしかに一時的な関係を結んだが、拒絶できなかったのはミーアから何らかの薬物を投与されたせいである──』
ばかげた主張だが、ミーアは婚約者でもないロバートと二人きりになってしまった。付き添いもいなかった。証人がいない以上、ロバートの主張が事実と違うとは言い切れない。
ディアラム一族は、ロバートを後継者の座から追放することなく、短期間の謹慎処分で済ませることにしたらしい。
おまけにソフィーとの婚約の継続を強く求めている。醜聞を引き起こした以上、良家の令嬢との新しい縁組は難しいと判断したのだろう。
もちろんギルガレン辺境伯は厳しい態度で拒絶したそうだが、ソフィーは手紙をきつく握りしめ、顔を青白くしていた。
ロバートはもっともらしい嘘を並べ立て、上位貴族の男性を味方につけようとしているらしい。宮殿にいればソフィーは安全で、ロバートには手出しができないとはいえ、なんとも頭の痛い状況なのだ。
「明日はバートネット公爵家の皆様がいらっしゃるのね。王太子のジャスティン様が、持参金として宮殿に納める品々を積んだ馬車でパレードなさるんでしょう?」
「ええ。グレイリングの皇族は婚約式の前に、花嫁の実家がそうするのが慣習だし。国の威信をかけて準備をするって、ずいぶん張り切っていたわ」
ミネルバは笑いながら立ち上がり、ソフィーと一緒に自室へと向かった。今夜だけは夜更かしをせずに、たっぷり寝て明日への英気を養うつもりだった。
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