第1部10章
第1話 作戦開始
慌ただしく準備が整えられ、グレイリングとアシュランの連合軍がレノックス男爵領へと向かった。
従叔父を捕縛する作戦を率いているのは、もちろんルーファスだ。
無数のたいまつが城砦を取り囲んでいる。夜の空が燃え上がるように明るくなり、現実とは思えない光景だった。
城砦内に籠城している者たちは、大混乱に陥っているに違いない。圧倒的な兵力を照らし出す橙色の光の揺らめきが、地獄からの使者のように見えることだろう。
「ミネルバ様、心配はいりませんよ。降伏の知らせは、数時間もしないうちにもたらされるでしょう」
脳裏に浮かんでいた光景が掻き消える。じっとトパーズを見つめていたミネルバは、グレイリング大使ニコラスの言葉に慌てて我に返った。
「そうですね……。アシュランの下位貴族の私兵と、グレイリングの精鋭部隊とではレベルが違うでしょうし。キーナン王も罪滅ぼしをするという約束を守り、大量の兵を出してくださいましたから……」
ニコラスから心配そうに見つめられて、ミネルバは淡く微笑んで見せた。
ミネルバたちはいま、グレイリング軍が張ったテントの中にいる。後方支援のために設営されたもので、レノックス男爵の城砦からは少しばかり距離がある。
「心配かけてごめんなさい。本音を言えば、ルーファス様が行く場所ならどこへでもついていきたい。でも私を守りながらでは、ルーファス様が思う存分戦えないことはちゃんとわかっています」
「ミネルバ様……。落ち付いたら、十分な体力とひととおりの護身術を身につける手助けをしますよ。そう遠くない未来に、殿下が引き受ける困難な仕事を身近で助けることができるようになります」
ニコラスの言葉に、ミネルバはうなずいた。
「ええ、ぜひお願いします。私がグレイリングに行ったら……千里眼の能力をもっと役立てたい」
現時点でのミネルバは、戦闘の真っただ中に立つのに適した訓練をまったく受けていない。ルーファスの弱点や足手まといにはなりたくはなかった。
ニコラス曰く、ルーファスに突破できない敵陣はないのだそうだ。ルーファスも彼の配下も、絶えず最新の戦術を学び続けているらしい。おまけにミネルバの千里眼で、城砦内の構造や人員配置といった情報が入手できている。
ニコラスが微笑みながら、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
「今回に関しては、捕縛自体は簡単でしょう。やはり召喚陣が完成する前に動けたのが大きい。ルーファス殿下の配下は、グレイリングの兵の中でも強く賢い者たちばかりだ。もちろんロアンもね。彼らは様々な分野の専門家でもあるし、特異な状況での戦いはお手の物です」
「ロアン君、大張り切りでしたね。マーカス兄様が、新しい水晶や携帯食を山ほど持たされていたのは少し気の毒でしたけれど」
ミネルバは文句ばかり垂れていたマーカスの顔を思い出した。ロアンにすっかり懐かれて、彼のパートナーを仰せつかったのだ。
グレイリングから持ってきた水晶に加え、キーナン王が提供してくれたアシュラン産の水晶まで持たせられていた。口調は嫌々だったが案外楽しそうな顔つきで、ロアンのための携帯食をたくさんリュックに入れてやっていた。
次の瞬間ミネルバの頭の中に、ロアンとマーカスの姿がはっきりと像を結んだ。ロアンはわくわくした顔つきで、マーカスは緊張の面持ちで城壁を見上げている。
「セリカが捕縛されたら……いや彼女に関しては保護と言ったほうがいいのかもしれませんね。保護され次第、すぐに我々も城砦に向かいましょう。おや、ミネルバ様どうかなさいましたか、もしかして頭痛ですか?」
手で額を抑えたミネルバに、ニコラスが焦ったように声をかけてくる。ミネルバは小さく首を振った。
「いえ、違います。さっきから何度か、城砦の光景が脳裏に浮かぶんです。意識して千里眼を使っているわけではないんですが……」
ニコラスが「ふうむ」と手を当てた。
「大使公邸でミネルバ様とルーファス殿下は同調したそうですし、もしかしたら繋がったままなのかもしれません。意識して力を使わなくても、重要な情報を触媒が伝えてくれるとしたら……いやはや、ミネルバ様の能力は途方もないですね。いち研究者として興奮が止まりませんよ」
「そう……なんでしょうか。でもまだ使いこなせている感じはしませんし、見えるのも断片的な情報だけです」
「今後の修行次第ですよ、楽しみですね。城砦にいる偽物のレノックス男爵──フィルバートの従叔父は、こちらの世界にこれほど強い能力者がいることを知ったら、さぞかし驚くことでしょう」
ニコラスはにこやかにそう言って、テント内の兵士が用意してくれたお茶を口に運んだ。
「しかし……残酷非道な真似をする人間もいるものですね。従叔父の氏名はマーシャル・カイルモア、年齢は36歳か。この男の人生ほど、嘘で塗り固められたものもないでしょう。12歳で他家への奉公を理由に実家を離れたものの、実際は異世界人召喚に関する禁書を求めて放浪生活をしていた。目的はもちろん、アシュランの王族を破滅させるため……」
テーブルに置かれた報告書に目を走らせながら、ニコラスはため息をついた。
「マーシャルがレノックス男爵を殺害したのは、20年も前ですか。若いころから悪に染まっていたんですねえ」
「ええ、本物のレノックス男爵が領地で育っていれば、誰かが顔を覚えていたでしょうが……幼いころから健康状態が不安定で、空気の悪い王都の近くで暮らすのは厳しかったそうです。おまけに両親を早くに亡くして、天涯孤独に近い状態だったとか。国内の温泉地で療養していたレノックス男爵と、放浪していたマーシャルが偶然出会って……殺害と成り代わりが実行された。二人とも茶色の髪と茶色の瞳で顔立ちも似通っていましたから、使用人たちでさえ男爵が別人になっているとは気づかなかったようです」
ミネルバは唇を引き結んだ。本物のレノックス男爵は、すでにこの世にいないだろうという推測は正しかった。
トパーズが導いてくれたのは、アシュランでも有名な温泉地にある山の中だった。ミネルバの千里眼は、レノックス男爵が冷たい土の中で眠っているのを感じ取った。
「マーシャルは森のはずれの小さな家に生まれながら、子どものころからずば抜けて頭が良かったそうですね。立身出世したいと言って実家を出たあと、一年に一度は手紙を送っていたようですが……父親であるキーナン王の腹違いの弟は、子どもは巣立つものだと特に気にしていなかった。息子を信頼していたんでしょう。それなのに当の息子は、家族の殺害まで念頭に置いて計画を立てていた。ぞっとする話しですね」
「本当にそうですね。どうして血の繋がった家族まで憎んでいるのか、理由は分かりませんが……」
「捕縛されればそれも明らかになりますよ。大方、身勝手極まりない理由からでしょうが。ミネルバ様の千里眼がなければ、罪のない人々が命を落とすところでした。レノックス男爵の遺体だって、どれだけ探しても見つからなかったかもしれない。これだけ証拠があれば、マーシャルは言い逃れが出来ません」
ニコラスが言い終えたとき、テントの外がにわかに騒がしくなった。
「ああ、フィルバートを乗せた馬車が到着したようです。そこの君、すまないが入り口を開けてくれるかい?」
若い兵士が「は!」と答えて、テントの入り口にかけられている布を大きく開いた。
ミネルバの視界に、たいまつの明かりに照らされた堅牢な馬車が飛び込んでくる。囚人を護送するための、特別仕様の馬車だ。その馬車を操っているのも、左右を取り囲んでいる軍馬の上にいるのも、グレイリングではなくアシュラン王国の兵士たちだ。
「ミネルバ様……本当にフィルバートに会うおつもりですか? 彼はすでに手足を縛られ、厳重な監視下にありますが……ミネルバ様に向かって、どんな言葉を吐くかわかりませんよ」
「たしかに、胸はざわつきますけれど……でも、どうしても彼に伝えたいことがあるんです。一気に恨みをぶつけられたとしても、後悔はしません」
ミネルバはひとつ深呼吸をして立ち上がった。ルーファスが捕縛作戦を展開しているいま、自分にできることをきちんと頑張りたかった。
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